見出し画像

音楽をする人が、抑圧する力に加担してどうする

音楽をする人が、抑圧する力に加担してどうする。

先日開催されたサマーソニックの現場で、Rina Sawayamaが日本では同性婚が法的に禁止されていることについてMCで言及したことがTwitterで話題になった。さらに、一部邦楽アーティストのMCについても批判や議論が行われ、「音楽と倫理観/社会との結びつき」が浮き彫りになった二日間だった。


土曜の深夜ステージでのSIRUPのMCが話題になった。
「やっとこうやってイベントもできるけど、まだまだいろんな問題が山積みですよ。Rina Sawayamaさんも言ってたけど、夫婦別姓も同性婚もやったほうがええやん。マイノリティが認められない社会、認めるというかおるねんけどなもうすでに、マイノリティが声を出して行かなきゃいけないんじゃなくて、そうじゃない人が団結して声を上げて行こうぜまじで。でさ、そういうことってさ、そういう社会を作ると、我々こういう現場やミュージシャンにもフリーランスの人がめちゃくちゃ多い。今日を作るにもフリーランスの人がいっぱい参加して、そういう人の力で成り立ってる。そういう人が排除される社会になるかもしれない。つまり、こういうみんなで楽しめる現場ももしかしたらなくなるかもしれない、生きにくい場所になるかもしれない。だからさ、そういう社会にならないように、みんながNo one left behind、誰も取り残されない社会を目指していきましょうよ、みんな。そんなクソみたいな社会やから、こういう現場に来て、いろんなこと準備して、行けるようにして、今日を作ってるんだと思うんですけど、マジでありがとう!ここにいるみんな、そしてYouTubeで見てくれてるみんなもそうだし、それは確実に音楽に力をもらってるからだと思うんですよ。だから今日は思い切り音楽の力をゲットしながら、Superpowerをゲットしましょう」

SIRUPチームの一員として、ここ2年間半ずっと一番近いところで活動をサポートしましたが、彼は毎日地道に信念を持って生きている人。学びも対話も、発信も理解も、ずっと一貫してやってる。損得関係なく、孤独に。やっと大きな場所でそれが知られるようになって嬉しいと感じた。

彼と出会った2019年の冬、最初に出会った日から彼は「社会問題についてもっと学びたいし、自分にできる貢献がもっとないか知りたい。一緒に力になってほしい」と熱心に共鳴を示してくれた。それ以降、様々なアーティストや文化人を仲間として味方につけ、あらゆるプロジェクトや制作を行ってきた。コロナ関連の寄付や環境保護プロジェクトへの寄付、メンタルヘルスの知識向上のための教育講座や専門家との対談など、あらゆることに挑戦してきたし、これからもさらにアーティストとしての高みに臨みながらも、社会との接点を作っていくパイオニア的存在になるだろう。

数えてみたら、SIRUPと一緒に作り上げた曲の数は20以上になってた... 出会って最初に関わったプロジェクトはHOPELESS ROMANTIC。「絶望の社会でも、孤独でも、未来への希望を持ち続けたい」というテーマで作られた曲。MVも英語バージョンも、意思の塊だ。彼の作る音楽は、どこを切り取っても「独りよがり」であることはない。必ず広い目で社会を捉え、誰もが聴きやすい楽曲でありながらも、考えるきっかけを作ろうという意思が埋め込まれている。



一方で、SIRUPはずっと前から政治や社会やメンタルヘルスの話を一貫して学びと共に発信してて、こうやって海外のアーティストが同じ発言をして改めて(というか初めて)そのスタンスが評価され注目されるっていうのも、極めて日本的だとも思った。

「アーティストのくせに政治発言とか」「何もわかってないのに」「ファンが鵜呑みにして悪影響」 真摯に学びと教育的発信をしているアーティストと共に歩んできて、何度もこの言葉を投げつけられた。さらに、言いたくても言えない人は大勢いる。アーティストがリスナーに抑圧されている最悪の構造だ。


だから、こうして真面目にファンやリスナー、そして広く社会全体の未来のことを考えて活動しているアーティストを支持してくれている方々には感謝が尽きません。皆さんは我々にとって本物の仲間です。

海外アーティストと邦楽アーティストの言動の「差」についても、大きな議論になった。「邦楽」「洋楽」と分けるのは、例えばリナサワヤマが日本人であったり、日本国内でもSIRUPのようなアーティストがいる以上は、クリアな分類は不可能だと思いつつも、国内の音楽業界に根付いてしまったtoxic masculinityや「人を犠牲にするお笑い」文化、さらにはホモソーシャルで内輪的なノリは確かに一部で存在する。その文化をアーティストとして脱却したり、関わらずにいるのは、音楽業界に携わる者ならいかに困難なことおかわかるだろう。

この一連の問題に関して改めて思ったのは、マネスキンやリナサワヤマが世界的に支持されているのは、彼らの音楽以上に「体現している価値観」や「起こした社会変化」が評価されているからということ。 そういう背景があるのに、アーティストが持つ政治・社会信念をガン無視して「イジる」人に対して、「茶化し」「悪気なく」という枕詞はもういらない。

海外アーティストのことを「外タレ」と呼び、音楽性や知名度へのリスペクトはあってもまるで宇宙人や異物のように扱い、彼らの行動を「奇怪なもの」として指を刺して「ネタ」にする。だから価値観も「外の人の変なもの」として子バカにできてしまうし「どうでもいい」と言えてしまう。リナサワヤマなんて、母国のことを必死に思ってあのMCをしてるし、ああいうアーティストは命を削ってまで伝えたいことがあって音楽活動をしている。その真剣さと改めて向き合うべきだとも感じた。

改めて提起するが、音楽をする人が、抑圧する力に加担してどうする。その音楽で「何者」になり、誰を「救いたい」のか。強者になることでしか生き残れない社会において、誰かを犠牲にしてまで「強者」になっても、その音楽には救いがあるのだろうか。


記事を読んでくださりありがとうございます!いただけたサポートは、記事を書く際に参考しているNew York TimesやLA Times等の十数社のサブスクリプション費用にあてます。