人間関係で気をつけている3つのポイント
お疲れさまです。メタバースクリエイターズ若宮です。
今日は人間関係について書きたいと思います。
人間関係において、過去の失敗から学んだり、反省して、意識するようになったポイントが3つあります。
人間関係のポイント① みんなに認められようとしない
まず一つは、「誰にでも認められようと思わないこと」です。
当たり前のことのように思えるかもしれませんが、昔は必ずしもできていなかった気がします。
誰にも八方美人的に愛想よくする、というタイプではなかったのですが、自意識だけは高かったので、心の中ではやっぱり嫌われたくない、いやむしろ評価されたい、とか思っていた気がします。大企業に勤めている頃はいっちょ前に出世レースも頑張っていたので、どこかで相手に阿ったり合わせていたりしたところがあったなあと。
アート思考的では価値を生む主体として、個人それぞれの異なる「歪(いびつ)」さが大事だということをよく言います。芸術家はしばしば、自分の歪さや「癖(へき)」のようなものを結晶化させるように作品を生み出しますが、「歪」が「正しさ」の否定であるように、それは万人にとっての「正解」ではありません。
作品のもつ歪さに対して好意的な反応を示してくれる人もいれば、気持ち悪いと思う人もいるでしょう。しかし、気持ち悪いと思われたら嫌だと思いそれを抑え込んでしまうと、作品の独自性や魅力も出てこなくなり、丸く強度のない作品になってしまいかねません(歪さをどう作品として、世界との接点として昇華できるか、というのがアーティストにとって重要な能力だという気がします)。
しかし、結局は自分らしくしかできない、というのがアート思考的なゾーンでもあるので、万人受けを目指すより自分に正直でいる方が、ウェルビーイングかなと思っています。
これは新規事業を長くやってきた経験からも実感しています。サービスや事業でも、みんなに好かれようと思うと誰にも愛されないサービスになってしまうことがあります。
特に初期にはそれが少数であっても共鳴度が高い人を大切にし、その少数の熱量があるからこそ、いずれ伝播し多くのひとにも理解されるようになるのです。
仕事でも自分らしさを曲げてまで受けようとはしなくなりました。そうして無理に合わせても自分らしいパフォーマンスはでませんし、相手のルールに合わせると旧い価値観を再生産してしまうこともあるので、無理に合わせず、今ご一緒するべきひとではないんだな、という感じに思っています。
人間関係のポイント② 距離感
二点目は、「距離感」。
100人の人がいればそれぞれが異なる捉え方があるので、反対意見を持つこともあります。
若い頃は、なにか自分の意見に反論を受けたりした時には、近づいていって説得をしようとしていました。自分とはちがう意見をそのまま見過ごすことができず、自分の意見を伝えて、納得してもらおうとしたわけなのですが、今にして思えば、それは意見の押しつけでもあったと思います。
ちがう意見の人をそのままにしておけず、わざわざ近づいていって説得しようとしたので、かえって相手を頑なにしたり、こじれて空気が悪くなることもありました。
最近では、誰にでも向かっていけばよいのではなく、共鳴度の高い人とは近くに、共鳴度の低い人とは適度な距離感を持つことが良いのかなと思うようになりました。
また、「距離」という意味では空間的な距離だけではなく「時間的な距離」も大切です。
先程も述べましたが、新規事業をやっていると、どんなサービスや事業でも、最初から100人中100人に思いが伝わることはありません。どんなに良いサービスでも一部の人には理解されなかったり拒絶されることもあります。
いずれはその価値を受け入れてくれるポテンシャルユーザーであっても、時間をかけて徐々に価値が伝わることもあるし、特に多数派は遅れて価値に気づきます。最初から全員に理解してもらうのは原理的に無理ななので、まずは共鳴する人たちと行動を起こしていきながら、その時に説得することにこだわらず、彼らが後からついてくるのを待つようになりました。
こうして時間的な余裕を持つようになったのには、オードリー・タンさんからの影響もあります。オードリーさんは著書でこんな風に語っています。
考えを改めたり行動を変化させるのには、一定の時間がかかります。育児でもそうですがその場で説得し、相手の意見を変えようとするのではなく、、一定の時間をかけて考えてもらう方が良いと思うようになりました。
意見が違う人と無理に近づこうとせず「空間的な距離」を保つだけではなく、すぐに同意を求めない、という「時間的な距離」も大事かなと思っています。
人間関係のポイント③ グラデーション
三点目は、意見の違いをグラデーションやスペクトルで捉えることです。
最近は、意見の違いをデジタルな感じで0か1かのように捉えるのではなく、意見の違いを色々な要素が混ざり合ったスペクトルで考えるように心がけています。
例えば、朝ごはんは「ご飯派」か「パン派」かという話をする時、本来はただそれぞれの選択肢があるだけで、反対意見ではありません。しかし「ご飯かパンか」という二者択一になると、相手の意見は自分への否定と捉えてしまいがちです。
思想的な議論でも、一人の人が左寄りの要素や右寄りの要素の双方を持つことがありますから、本来は中間色やグラデーションなはずです。人は完全に左派100%や右派100%ということは稀で、左派90%と右派10%のブレンドや、左派80%と右派20%のブレンドといった形で捉えられます。表面上は違う主張をしているように見えるかもしれませんが実は地続きなのです。「白か黒か」でなければ対立はなく、微妙なブレンドの中でつながっているイメージを持つ方が良いのかなと思っています。
さらにいえば本来はグレースケールなだけでなく、色々な色があるスペクトラムです。
ある人の意見が自分とはまったく反対のようにみえようとも、それがすなわちこちらの意見の否定というわけではないでしょう。青は赤の否定ではありませんし、敵でもありません。どちらにも等しく存在事由があり、それはつながって円環をなしています。
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振り返ると、かつての僕は、
ように思います。
しかも余白があまりなかったので、人間関係がギスギスしがちだったり、自分も苛立ちがちだった気がします。
ようになったことで、だいぶ人間関係が楽になったように思います。
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