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「消費」から「培養」へ 〜枯渇しないためのアートのすゝめ

どうもこんばんは、恥ずかしながらまた歳を重ねてしまいました、uni'queの若宮です。

僕は昨年からアートの「正客」になるべく活動を加速しておりますが、1月からschooさんで「アート思考」の講座をすることに持つことになりました。

最近ちまたでも徐々に注目ワードとなっている「アート思考」。しかしまだメソッドや理論として確立はしておらず、「耳にはするけどなんのこと?」という方も多いと思うので、講座の1回目では「アート思考」の概説をし、2回目以降はアート界の豪華ゲストを迎えてお送りしていきたいと思っています。


「アート」の3つの特徴

詳しくはschooでの講座もみていただけたら嬉しいのですが、僕が「アート」をビジネスパーソンにもおすすめするのには主に3つの観点があります。

1.アートは価値を革新する。
2.アートは多様性にひらく。
3.アートは身体を励起する。

この中で、今日は1つめの「アートは価値を革新する」という観点と「消費」という経済活動について書きたいと思います。


「消費」における価値のシフト

昨今、「モノ消費」から「コト消費」、そしてその先に「モノガタリ消費」や「ストーリー消費」という事が言われるようになってきました。

要は消費者が”なににお金を払い、なにを買うのか”が変化してきた、ということです。買い物という行為が、「モノ」との価値交換だけでなく、イベントやそのモノを通じて楽しめる「コト」との価値交換となり、さらには創り手の想いや背景などの「ストーリー」も含めた価値交換となってきた。

たとえばAKB48は新しいアイドルビジネスの形をつくりましたが、これはまさにこの新しい消費に当てはまります。

・CDを買うだけではなく(=「モノ消費」)、
・CDを買うことでメンバーと握手ができたり、(=「コト消費」)
・総選挙でメンバーの頑張りや想いを知り、投票する(=「ストーリー」消費)

ここで重要なのは、AKB48が「音楽」アーティストでありながら、ファンが求めているのが「音楽」そのものやその「アーティスト性」ですらないということ。CDだけの単体商品であれば、いくらAKBファンであってもここまでの購買意欲はなかったでしょうし、ましてや(音楽的欲求のためなら1枚、コレクション欲のためでもせいぜい2枚買えば十分なので)同じCDを10枚以上も買うということは起こらないでしょう。

マーケティング的にいうと、モノだけでは差別化が難しくなった結果、付随的事象やコンテキストなど「モノの外縁」にも価値の範囲が拡大してきた、ということができるでしょうか。あるいは価値の範囲は純粋に拡大したのではなく、「モノ」自体の価値は下落してちょうど「ドーナツ化現象」のようにその周縁へと価値の所在が移動した、というべきかもしれません。


「アート」における価値のシフト

実は、こういう変化はアートにおいてもありました。近代までは作品の美しさやその技巧に価値があるとされてきたアートですが、マルセル・デュシャンの「レディメイド」を皮切りに、「ミニマリズム」「ポップアート」など、20世紀のアートは、作品自体や作者性以上にその作品文脈や観客との関係性へと価値をシフトしてきたのです。(多分「美」や「技巧」が必須ではなくなったこのあたりから「アートってよくわからん!」ってなってきた方もいるのではないでしょうか)

たとえば、フェリックス・ゴンザレス・トレスの「無題(気休めの薬)」という作品があります。

床一面に敷き詰められた銀色の包み紙に包まれたキャンディ。観客はそれを見るだけではなく、自由に持ち帰ることができます。この作品は敷き詰められた状態が完成形ではなく、持ち帰ることで観客が作品に関与することを要請しており、すでにこの価値が「モノ」にないことは明らかです。しかも(僕がこれをみたのは2001年の横浜トリエンナーレだったのですが)、その時点では作者はすでに亡くなっており、敷き詰めるという制作行為やその技巧に価値があるわけでもない。これはある種「コト消費」や「ストーリー消費」に似てはいないでしょうか。


先日活動休止を発表した西野カナさんの件についても以前書いたことがあるのですが、アートの世界で起こったことが、数十年おくれて経済活動としておこってくることがあります。


実はアートに触れていると、世の中の流れを先んじてつかむ訓練ができるような効果もあり、それだけでもアートに触れることは面白いのですが、今日の本題からは外れるのでそのあたりはまたぜひschooの講座を御覧いただくか、東京画廊代表の山本豊津さんのこちらの本をお読みいただけたらと思います。


「消費」とは「なくす」こと?

「モノ」→「コト」→「ストーリー」への変化は、(アート界においてもあったように)市場の飽和/成熟と受容者の意識/権利の拡大によって起こる流れとして考えるとよく分かります。しかし今回の記事では、「何」を価値の対象とするのか、という消費の変化を取り上げたいのではではなく、むしろ「消費」という行為自体に対して感じる危機感について書きたいと思います。

「消費」という言葉をググってみると、下記のようにあります。

しょうひ【消費】
1. 《名・ス他》(金・物・労力などを)使ってなくすこと。 「電力を―する」

「使ってなくす」。

「消える」「費やす」という漢字、そしてcon(完全に)+sume(取る)という言葉が示すように、「なくす」ということが消費の本質です。

消費するとなくなってしまう。「モノ消費」の場合、買って使い、摂取したり壊れたりすればもちろんモノはなくなります。では「コト消費」や「ストーリー消費」の場合はどうでしょうか?いったい何がなくなるのでしょうか?


ここでもう少し「消費」について考えてみましょう。「消費」の対義語は「生産」であり、消費のプロセスには「消費者」と「生産者」の二者が登場します。

”「生産者」から提供される価値を「消費者」が受容し、それを使い尽くしてなくす”

これが「消費」の流れです。「消費」では「生産者」から「消費者」に価値が流れ、「消費者」が使ってしまうことで、この分の価値はなくなります。関係のベクトルを合成すると下向きの矢印になるように、消費者が価値を「消費」することで、それはなくなり、価値の総量は減ります。


「コスパ」が起こす「悪循環」

コスパ」という言葉があります。ビジネスでは「ROI」といったりしますが、要はかけたお金に対して得られる効果の比率、その効率性のことです。そしてこの”効率化”は価値の総量を減らす方向に拍車をかけるのです。

「コスパ」の怖いところはそれが未知の価値を試す道を塞ぎ、わかりやすい既存価値に集中させるところです。どういうことかというと、お金を払うという意思決定をする時点で一定の効果を担保しようとすると、もともと確立されている価値=既知の価値にしかお金を支払わなくなるのです。未知の価値に対しての支払いはひょっとするとゼロリターンになる可能性もあるので、相対的に「コスパ」が悪い、ということになってしまう。

さらに、この効率性は消費者だけでなく、生産者にも作用します。生産者がROIを考えると、消費者にもっともウケるものに価値をチューニングしたほうがリスクが少なく、ROI的に有利になります。これにより一度ある価値が消費者に受け入れられて価値として確立されると、それを反復して価値が再生産されるのです。

「コスパ」という行動原理により、消費者は確実性の高い既知の価値に集中し、そしてその集中によって「より確立された価値」をめがけて今度は再生産が行われ、さらにそれを消費し…、デフレ・スパイラルのようなこの循環の中で価値の総量は徐々に目減りし、やがて枯渇しすかすかになるまで蕩尽されてしまいます。

消費論理が肥大化したものに「マス消費」がありますが、たとえばテレビ番組をみるとこの悪循環がよく分かります。

民法テレビにおける原作ありきのドラマ、そして映画化。そしてその映画化のコスパを上げるための出演タレントの飽きるほどの番宣出演。あるいはほとんど思考停止したようなゴシップばかりの情報番組。「コスパ」を求め「消費」を最大化した結果、TV番組は似たような番組ばかりになってしまっていまいました。「視聴率至上主義」とテレビ局を批判する声もありますが、もちろんこれは作り手ばかりの問題でなく、視聴者が番組の質よりも「有名タレント」や「視聴率」「評判」など既知の価値で番組を選び「消費」してきたことの結果でもあります。

さらにテクノロジーによって「既知のものを複製・反復するコスト」は大きく減ったため、高速化した「価値の消費」→「価値の確立」→「価値の再生産」→「価値の消費」のループによって、「陳腐化」が加速度的に進み、自家中毒を起こすように価値は枯渇するようになってしまいました。「モノ」から一歩進んだ「コト」や「ストーリー」でさえ、その価値が多くの人に反復的につかわれ「消費」されていくと(増えることなく)減ってきてしまう。

「一発屋」と言われるタレントが毎年現れ、突如人気になってはすかすかにされて消えていってしまうように、コトやストーリーの価値も「消費」の反復によって、枯渇してしまうのです。


「消費」から「培養」へ

しかし本来、「消費者」である我々は「消費」するだけでなく、文化をつくる成員、つまり価値を増やす側でもあるはずです。

先にみたように、「モノ」であれ「コト」であれ「ストーリー」であれ、「消費」という経済活動が向かうところは、確立された既存価値の反復であり、さらにそれが「コスパ」によって強化されすごい速さで価値を「なくす」ことになっている。

そこで、僕が「消費」と対比し、これからのあり方として考えたい活動のモードが「培養」です。

急に生物学みたいなワードが出てきてびっくりするかもしれませんが、同じくググると、下記のようにあります。

ばいよう【培養】
《名・ス他》
1. 1.手をかけて草木を育てること。「―土(ど)」。転じて、事物の基礎を養うこと。 「実力―」
2. 2.細菌・細胞・組織⑵や漁業資源などを人工的に生育・増殖させること。 「―検査」

先ほどの「消費」の定義と比べてみると大きな違いは、(「培う」「養う」という語が示すとおり)「なくす」のではなく「増やす」ということでしょうか。

ここでポイントなのは、価値がもとの時点よりも「増える」という観点です。そして「消費」においてはそのスタートにおいて価値が確立していたのとは異なり、「培養」においては価値はスタート時点では確立されておらず、徐々に変化していくのです。


「アート」は「培養」?

ここで、アートの話に戻ります。というのも、僕はアートこそ「培養」的な価値活動の典型だと思っているからです。

以前こちらの記事でも書いた様に、↓

アートというものは常にそのありようが変化しており、既知の価値を壊しながらユニークな価値を産んでいくような活動です。

冒頭で「1.アートは価値を革新する」といいましたが、それが「価値を革新する」ものであるために、初めてそれが生まれた時には既存の価値観では「???」となってしまい、その価値が評価できない、ということが起こります。どんなにすぐれた作品であっても、(皮肉なことにそれが革新的であればあるほどに)既存の枠組みでは評価できず、一見ゴミのように扱われることがあるのです。

さらに、アートというものは「鑑賞者」がいなければ価値をもつことができません。故にアートはアトリエにおいてそれが生まれた時には価値は全く確立されていず、アートは鑑賞や批評という行為を通じて他者との関わりの中で「価値化」され、価値が増大していくべきものなのです。

「革新」であるために評価できず、「鑑賞」を得てはじめて価値が生まれてくる。それゆえアートというのは、スタート時点ではよちよち歩きの赤ちゃん、否むしろ「未熟児」のような価値しかありません。「鑑賞者」という他者の介在によって少しずつその価値が「増やされ」ていくのです。(この図式におけるベクトルの合成は上向きの矢印になります)


「未知の価値」を「死滅」させないために

このようにアートは、つくられた時点では実は価値は確立されていません(それ故、この時点では確立された価値を受容する「消費」には向きません)。「未熟児」に保育器が必要なように、この価値は「培養」によって育てられる事が必要なのです。

(この、いまだ確立していない価値に賭け、それを育てていく、というスタンスは、実は「イノベーション」を起こすことにおいても非常に重要です。「コスパ」だけを求めていくと「未知の価値」の種は育つ前に死んでしまうのです)


ところで、「培養」は、英訳すると「culture」という言葉になります。このcultureという言葉はとても面白い言葉で、色々な意味があります。

1. 不可算名詞 教養,洗練. a man of culture 教養(のある)人.
2. 不可算名詞 [具体的には 可算名詞]
 a(ある国・ある時代の)文化,精神文明 《★【類語】 civilization が物質的な面に重きを置く語であるのに対して culture は精神的な面に重きを置く語》.Greek culture ギリシャ文化.
 b(伝承される信仰・伝統・習俗などの総体としての)文化,カルチャー.
3. 不可算名詞 訓練,修養. physical culture 体育.
4a不可算名詞 養殖,栽培. culture of cotton 綿花栽培.
b不可算名詞 培養.
c可算名詞 培養菌.

cultureとはいうまでもなく「文化」です。そして他には、「教養」「修養」などの意味もあります。共通するモードは「養」。ともにラテン語の「耕すcolere」を語源とするように、文化にとって重要なのは「消費」ではなく「培養」のスタンスなのではないでしょうか。

そして文化のレベルというのはこのような未知の価値に対する「培養」がどれくらい行われているか、ということではないでしょうか。「コスパ」を優先し、確立された既存の価値のみを優先する場所では「消費」が支配的となります。そして化石燃料がすでに地球から枯渇しつつあるように、文化資源も「消費」し続けると枯渇してしまう。それを避けるには「培養」が必要なのです。


デフレスパイラルのような「消費」の連鎖を脱し、「培養」による価値の増加へとシフトするにはどうしたらいいのでしょうか?

大事なのは「確立された価値」にばかり囚われず、「コスパ」から自由に、「あそび」をもって「未知の価値」にも触れるきっかけをつくること。そしてまだ確立しておらず無価値にすら思えた価値を培養(culture)し増やす、という協働的な経験を経て「未知の価値」に対するマインドセットや勘を養う(culture)ことにつながります。

既知の価値を「消費」するだけでなく、アートに触れ、よくわからないながらもその価値化に協働的に関わり、作品の価値とともに自分をもcultureする。

価値を枯渇させず、増やしていくモードにシフトするための「アートのすゝめ」でした。


あっ、そして最後にもう一つ宣伝です(笑)。実はいまこんなアート・プロジェクトをやっています。これから活躍が期待されるアーティストも多いのでまだまだ「未知の価値」だとは思いますが、面白そうと思っていただけたら、ぜひ「培養」のためにもご支援・シェアをしていただけたらうれしいです!


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