『世界中から人が押し寄せる小さな村 ー 新時代の観光の哲学』を読む。
「あの人は哲学があるね」とか「あの会社の経営には哲学を感じる」という言い方をよく耳にします。およそ、考え方や行動に一貫性があるとか、そういう場合ですね。
ただ、その後に「哲学は感じるけど、ビジネスはどうなの?」という冷めたコメントがつくこともあります。しかし、「商売はまわっているようだけど、哲学がないんじゃない?」と言われるよりはマシかも、との見方はあるでしょう。
さて、「アルベルゴ・ディフーゾ」というイタリア語の言葉があります。神奈川県三浦半島の地域再生を取り上げた以下の記事では次のように説明されています。
このアルベルゴ・ディフーゾは手法に過ぎないのか、手法以上の意味があるのか、つまりは「哲学があるのか?」との問いにヒントを与えてくれる本が島村菜津さんの『世界中から人が押し寄せる小さな村 ー 新時代の観光の哲学』です。サブタイトルに「哲学」が使われています。
アルベルゴ・ディフーゾの起源と現状は?
哲学とは血肉になってこそ、行動に自ずと表れてくる ー 例えば、何百年前の山間の家屋をアルベルゴ・ディフーゾの一つとするとき、古くある壁の煤をそのままにしておくのか?そのままにするのなら、どういう哲学なのか?とのレベルで哲学が出てくるのですね。
当然ながら、有名な哲学者の本をどれだけ読んで、その文章をどれだけ引用できるか?ということではないーーー。
アルベルゴ・ディフーゾそのものの発祥は、1976年、北部フリウリの山間地でおきた震災後の復興プロジェクトでした。空き家が多い、人がいない被災地の苦肉の策です。近代的なホテルが垂直方向にサービスコンテンツが詰め込まれるのに対し、村の水平方向に広がる(ディフーゾ)との言葉を詩人、レオナルド・ザニエールが宿のシステムに適用したのです。
農家の民宿化や従来のホテル法では過疎化に直面したイタリア各地の問題に対処できないと行政が判断し、1984年、サルデーニャ島がアルベルゴ・ディフーゾを条例としたのを皮切りに、2017年にはすべての州が条例化しました。こうした流れのなかで、2006年に協会も設立されました。
しかし、同時に次のデータも見ておかないといけません。
主流というには、あまりにかけ離れている数字です。それにも関わらず、アルベルゴ・ディフーゾというコンセプトには力があり有望、と見られているのです。
それは哲学的な考えが深くにあるからでしょうか?
忘れ去られていた小さな村が注目されたわけ
アルベルゴ・ディフーゾによって世界の主要メディアで紹介され、世界各地から訪問者が滞在している小さな村があります。アブルッツォ州のサント・ステーファノ・ディ・セッサーニオです。人口100人強の村です。2005年以前、約75%がまったく使われていない空き家か、1年に1か月も使われていない都市住民の別荘だったのです。
2005年、ここにセクスタンティオという企業が宿泊業をはじめ、それが起爆剤になり、夏にだけ営業する民宿が1軒あっただけだったのが、今や30軒以上の宿が営業します。
セクスタンティオという企業をはじめたのが、ダニエーレ・キルグレンという人物です。
彼の考え方が抜群に面白いーー。
真っ黒に煤けた壁を指して、キルグレンはこう説明する。
観光地とは往々にして、外の人が小説や映画を通じて抱いた土地イメージに合わせた「虚構」であることへの批判があります。
アペニン山脈の小さな村が文化人を魅了しながらも、新しい時代の観光とは縁が薄かったがゆえに逆に「イタリアの原初イメージ」の舞台道具がそのまま残っていたのが、キルグレンの見いだした場所だったのです。
先進性に基づく新しさと特権階級の文化を好むイタリア人が、それらの中間に沈んだかにみえる山村の農民文化を視界から追いやってきたーーそのことにキルグレンは気づき、土地で古くから農家で使われていた家具や雑貨を探すか再現し、既にその記録が目の前にあれば消去なんてできるわけがないーーだから、壁の煤をそのまま残そうとするのです。
鍵は「歴史の痕跡」、またはマイナーの文化財です。この価値に注目したキルグレンの歴史への見立てや目利きに、主要メディアのジャーナリストにハッとしたのでしょう。そして、それを読んだ読者たちが、ハッとしたはずです。
伝統的なパン作りを教えているディエゴは、次のような指摘をします。
2022年時点でイタリアの世界遺産の数は58。世界一ですから、対象があり過ぎて追いつかない。だからこそ、何らかの手段をとる必要があると気づいた人たちが動かざるを得ないのです。
さらに、自然との調和や地元の食材に拘りー伝統的であるだけでなく、美味しく健康的であることーを知れば、足が自ずとアブルッツォ州に向かうのは止めようがないとも言えます(といっても、ぼくはまだ向かっていませんが)。
古いモノだから保存するのか?
多分、「歴史のあるものは貴重」というフレーズを教科書的に理解している限り、ここまで書いている内容も眠気を誘うかもしれません。
キルグレンがアブルッツォ州で、次にはバジリカータ州の洞窟都市、マテーラでホスピタリティ産業に足を踏み入れたのは、それらがイタリア南部の「貧しい」と見られてきた地域だからです。
GDPでみれば北部よりも南部の方が低い数字です。南部が豊かな北部の足を引っ張るとの構図が散々と引用されてきましたが、キルグレンの目にはこの図式がステレオタイプに縛られているとしか見えないのです。
だからお金のある北部の人が貧しい南部の村に滞在してお金を落としていく、とのストリーに救いを見いだしたわけではない、という点を強調します。
18世紀後半、ナポリ周辺には十分に前・工業社会があった。それなのに19世紀半ばにイタリア統一がされ、英国にはじまった"産業革命列車"の最後の搭乗者としてのイタリアがあり、その牽引役がイタリア北部であったーーとの理解が定着しています。
だが、「その理解がずれている」とキルグレンは指摘するのです。加えて、南部の若い人たちが北部に働きに出たことで、北部の工業化は推進されたーー結果、南部の山村が忘却の対象になってしまったので、それを再生する経済モデルに力を注ぐ意味がある、と彼は説きます。
自身の歴史観があり、その歴史観と整合させる意義を感じるから、忘れられた古い景色や内装や家具、ベッドのシーツやガラスのコップに至るまで再生、再現を試みる。
誰かの借り物の歴史観に依存していないのです。自分の歴史観のエビデンスとして古いモノで揃える必要を感じるのでしょう。または、そうせざるを得ない生理的な衝動もあるかもしれないです。
美意識に従うとは、どういうことか?
キルグレンの美意識もサント・ステーファノ・ディ・セッサーニオの方向性をつくっています。
イタリア文化の対外的なアピールやイタリア人自身の自信の拠り所にもなっている美意識を、キルグレンは否定はしませんが、「適度」に評価すべきだと言っているのです。分かりやすい美意識を適度に評価することで、イタリア人の生活に普通にあった美意識を過小評価してしまう危険を指摘しています。
ここで壁の煤をそのまま残す意味がよりはっきりします。埋没しやすい価値だから、そのまま可視化しておかないといけないのです。
ルワンダにも関わる動機は?
キルグレンは、アフリカのルワンダにも関わります。
ルワンダは1962年にベルギーから独立して経済成長も遂げますが、1992年、今世紀になると映画にもなっている80-100万人の命を落とす大虐殺事件がおこります。
この国に彼はイタリアのホテル運営から得る利益の一部を活用しています。動機を次のように説明しています。
ルワンダで非営利団体「セクスタンティオ」を運営し、健康保険料を払えない人たちを救うため、カトリックのボランティア団体であるカリタスに協力を得て「少しづつ恩恵に浴せる人たちを増やしている」(事務局のロベルト・サンタヴェーネレ)のです。
「トラブル」を経験するトラベル
こうした活動と並行して、ルワンダで宿泊施設も経営しています。地元の人たちの手で藁を編んだ伝統的な家屋をつくり、地元の料理を提供。民族博物館と協力して伝統文化を体験できる新しい観光をつくりあげる理由を、キルグレンは次のように語ります。
アペニン山脈の山村でやっていることをルワンダで同じように実施しており、その動機にどちらも大きな経済論理で窮地に追い込まれる普通の人々の生活文化を「生きられるものにする」というのがあります。
そして、それらは便利さに慣れた現代の人たちにとって、現代に普及された快適さとは距離があるがゆえに、「必ずしも楽ではない」。キルグレンはイタリアのアルベルゴ・ディフーゾを取材にきたドイツのテレビ撮影の際、次の問いを発します。
トラベルの語源、そのものに再び行き着いた感があります。
キルグレンの次の言葉には力がありますね。地域や環境にダメージを与えてきた従来の観光に強烈なパンチを与えています。
『新・ラグジュアリー ――文化が生み出す経済 10の講義』では観光に直接触れることがなかったですが、この島村さんの本のなかでキルグレンが代弁してくれている部分は多いと思いました。以下で書いたような、ぼくがエクスリーム・ツーリズムに関心をもてない理由を、反対側から説明してくれているような気になりました。
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冒頭の写真は、今、ミラノのトリエンナーレ美術館で開催中のガエ・アウレンティの回顧展です。彼女は空間のすべてをデザインすることに拘り、照明器具や家具を単体で量産のためにデザインするのを好みませんでした。その哲学が、この展覧会ではより表現されており、プロダクトが単体で展示されていません。