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「ラグジュアリー観光」と「テリトーリオ」は繋がるか?

学生時代から海外に旅に出かけ、30年以上、イタリアに住んでいるので、それなりの数の国や地方に滞在したことがあります。でも、だからといって「旅、大好き人間か?」と問われると、「う~ん、どうだろう・・・」という答えをしがちです。

旅とは「冒険」なのか?

旅が嫌いなわけもなく、旅に行けば行ったで心を躍らせる数多の経験をしてきました。それでも何となく口をもごもごさせるのは、基本、ぼくの旅の動機は「誰かに会うため」だからでしょうか。建物や風景を目指すこともありますが、人ありきってところがあります。

昨年6月、海底に眠るタイタニック号に潜水艇で迫り乗務員と客が命を落とした事故がありました。その後、Forbes JAPANの連載で中野香織さんがエクスリーム・ツーリズムをどう考えるべきか?とのテーマを提起をしました。「非日常で贅沢な冒険こそが『究極のラグジュアリー』なのか?」です。

そこでぼくは、それを受けるかたちでトリノで働いていたときのボスの言葉を紹介しました。

「マリーザとよく話すのは、最も大事にしたいのは、日々の生活のなかにいかに冒険を持ち込むか? 持ち込めるか? ということだ。日本に行けば、高級な料亭で接待を受けることも多い。しかし、自分たちのまったく知らない領域に足を踏み入れ、ちょっとでも何か前進したと実感したときに食べる一杯のラーメンが何よりも美味い。この瞬間のために生きている」

エクスリーム・ツーリズムが悪いとは言わないけど、日常生活における冒険がぼく自身の関心でもあるため、エクスリーム・ツーリズムには「だからどうした?」という気になるのですね。以下に記したことは、ぼくの率直なコメントです。

深海だ、極地だ、ヒマラヤだ……と足を踏み入れても、「日常生活に手をつけていないじゃない」とぼくの目には映るのですね。自分の家庭のなかにどんどんと違った文化の人を受け入れていく現実と比べると、楽をしている感じが否めないのです。

「体験」が拓くラグジュアリー観光

この見出しは、山口由美さんの『世界の富裕層は旅に何を求めているか』のサブタイトルです。冒頭、フリカの野生動物と生活を共にする旅のありさまが続きます。南アフリカのシンギ―ダの紹介です。

ぼくの欧州の周囲でも、このような旅を熱く語る友人たちがいるので、それはそれでアリなのだろうと読み進めます。

しかし、本書の要点は必ずしもそこではない。「経験」が重要な売りですが、それをあらためて説いているだけ、と思うと早とちりです。

山口さんはバリ島などにある何とも気持ちの良い、日本の人にも受けの良い「裸のラグジュアリー」としてのアジアンリゾートの次に、サファリロッジが注目されていることを言いたかったのですね。彼女自身、30年以上、サファリロッジに大いにハマってきたようですが、そのタイプがどんどんとアップデートされている。

一方、日本へのインバウンド増加から「お金に余裕のある人たちに満足してもらえているのか?」との声が騒がしい。そして「一泊、何十万円の部屋がどのくらいの数、供給できるのか?」みたいな話で議論されます。

いやあ、そういう話ではないでしょう、とぼくはいつも思うのですが、山口さんも「そうではない」を第一に強調したいのでしょう。(欧州の伝統的高級ホテルに加え)いつまでもアジアンリゾートの「裸のラグジュアリー」をモデルとして頼ると勘違いしますよ!と警告を出しているのです。

それにはラグジュアリー領域の変化を掴まないといけない。

というところで、ぼくと中野さんとの共著『新・ラグジュアリー ――文化が生み出す経済 10の講義』が引用されているのですね。同書で我々はこの数年、コンシャスラグジュアリーという表現がでていたことを取り上げました。環境や社会を強く意識するよう求められているのを「コンシャス」と表現しています。

(このコンシャスを「意識高い」とすると誤解を生むので「意識の深い」とあえて中野さんは訳したのですが、山口さんは声を大にするために「意識高い系」と表現を変えています。一言、背景説明しておくと、山口さんの本が我々の本を引用していることを中野さんが読書中に偶然知り、それでぼくも読んでおこうと日本滞在中に読んだ次第です)

トラベル領域における新ラグジュアリー

ぼくが、新ラグジュアリーの動向はそうだろうなあ、と思ったところがあります。エピローグです。

ILTM(International Luxury Travel Market)という商談会があるそうです。毎年12月、カンヌに集まるだけでなくアフリカ、アジア太平洋、ラテンアメリカ、北米と地域ごとの開催もあります。2013-1017年は日本でも開きました。

昨年のカンヌについて、次の説明があります。

コロナ禍を経て2023年12月のILTMカンヌは、前年にも増して盛況に開催された。参加国は83ヵ国、2100人余りのバイヤーと2291の出展者が参加した。

とりわけ目を引いたのが、日本の出展者が63で、アジア太平洋地域で最多数を占めていたことである。JNTOや東京観光財団などが共同出展を募ったことも背景にはあるだろう。

出展者は、いわゆるDMOと総称される観光客など、地域ごとに観光を促進する組織と大都市のホテルが多いのが特徴だった。京都、東京、大阪の都市ホテルが全体の3分の1近くを占める感じだろうか。

世界の富裕層は旅に何を求めているか

これを読めば、日本の観光関係者の「周回遅れのラグジュアリー市場開拓」の様子が想像つきます。この業界の人に言わせるとILTMは「マスラグジュアリー」志向が強く、新ラグジュアリーとは距離がある。

山口さんが冒頭で紹介したような南アフリカのシンギータは参加しておらず、シンギータは「Do not Disturb」に参加しているというのです。規模としてはILTMの15分の1,140あまりの出展者と140あまりのバイヤーが集るものです。

「Do not Disturb」を調べてみると以下です。今年11月、南イタリアのプーリアで開催されます。ここに映像があります。

スノッブで気取った風を感じさせない様子をうかがわせる映像です。クラシックカーや自転車で遊んでいるのは「イマドキ」です。クラシックカーをノスタルジーのためではなく、「歴史と遊んでいる」ようにみえる。

この団体が「究極はプライベートだ」と言います。その点には、ぼくもいろいろと言いたいところはあります。ただ、エクスクルーシブの意味合いが「排他的」よりも「私的」「個人的」に重心が移っているのが確かです。ですから、この「私的」「個人的」をコモンズの大切な要素としてみる視点があるかないか?が大きな分かれ道でしょう。

例えば、アートでいえば、プライベートのアートコレクションではなく、社会的な共有財産としてのコモンズのアートコレクションのあり方が求められるます。

そのコモンズが語られるに相応しい「私的」コンテクストを「Do Not Disturb」が少しでも次の方向として語る空間であるかどうか?です。

結局、テリトーリオにワクワクする?

実はですね、ぼくが興奮するのは、一度は衰退した農村や都市の再生なんかのシーンなんですね。以下で紹介したように、アマルフィー周辺の地形の厳しい場所でのブドウ品種の選択と栽培に心躍ります。

イタリアに「テリトーリオ」というコンセプトがあり、行政や自然土壌の区域だけでなく、景観・歴史・文化・伝統・地域共同体をカバーしたアイデンティを共有する空間の広がりをテリトーリオと称します。

ここで、アレッ?と思います。

Do Not Disturbって、このテリトーリオにかなり理解をしている人たち(This is Beyond というイベント管理会社)が企画しているのでは?と。

よく知らないで買いかぶってはいけませんが・・・。

人文知の視点から考える 新しいラグジュアリー オンラインプログラム』という講座をやっていますが、6月15日からスタートする今回はスリランカでアユールヴェーダのホテルを経営する伊藤修司さんやガストロノミーツーリズムなどに関わる齋藤由佳子さんにもゲスト講師をお願いしています。これらの方たちにお話いただくことと、Do Not Disturbの趣旨と実践にどのくらいの共通点と相違点があるのか、これから探索してみます。

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冒頭の写真は森美術館の「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」で展示されているアーカイブの一部の再現です。シアスター・ゲイツは都市再生をアーティスト活動の一部にしているのですよね。

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