「小さくても成り立つ経済」に夢を感じる。
何気なくWWDジャパンのポドキャストを聞いていて、ふと気になるコメントがありました。趣旨としては、原宿のファッションが世界に存在感を示せないなら、日本ファッションが世界に存在感を示せるはずがない、というのです。
話の流れは以下です。
原宿は銀座、池袋、新宿、渋谷などと異なり、鉄道駅の乗降者数が圧倒的に少ない。しかも、原宿や表参道の駅を利用してこの地域に来る人はショッピングを目的としている。つまり仕事のためではありません。その原宿は世界への情報発信地として名をはせてきたが、ここ最近、そのような力を失っているようにみえる、と。
それで冒頭に紹介した気になるコメントになるのですが、「イマドキ、東京のある一区画をコアに発信を考えるわけ?ちょっとずれてない?」と即、ぼくは思いました。
もちろん、原宿が元気であった方が良いだろうし、この談話は原宿というゾーンに絞り込むことに意味がある。そのような条件をぼくなりに理解しながらも、この談話のトーンがいやに古臭く思えたのですね。
というのも、ちょうど同じ日、日本の各地でイノベーションが起きるエコシステムを研究・実践されているリ・パブリック共同代表の田村大さんを囲んだ以下の記事を読んでいました。現在、田村さんは九州をベースに活動しています。
原宿の話と田村さんの考え方の間には、それなりに距離があるようにみえるかもしれません。いや、「直接、関係ない話じゃない!」と言われるかもしれません。ただ、前者は懐古趣味に基づき、後者はまったく新しいビジョンを目指している、その対比をぼくはまず感じました。
2つ目として、前者は日本と世界各地の結びつきが、ある種、中央集権的な枠組みに沿っている。それに対し、田村さんの構想は小さくても成り立つ経済圏に目を向けながら、そこを起点に水の波紋が広がるように、世界各地ともある接点で結びつくイメージがあります。
「夢は後者をベースに語って欲しい」
原宿について語るべきは、田村さんのもつようなイメージのなかで原宿がどういうポジションをとるのが良いのか?ではないか。逆に言えば、原宿をどれだけ多面的を捉えられるか?が、これからの原宿を考えるにあたり鍵になるのでしょう。
この3月に上梓した『新・ラグジュアリー 文化を生み出す経済 10の講義』では、世界にあるそれぞれのローカルでラグジュアリースタートアップが生れつつある現象を紹介しました。ヨーロッパであれば、フランスやイタリアあるいは英国だけでなく、例えば、ハンガリーの企業もそのような舞台にのぼりつつあります。
このフレームで世界を眺めたとき、ノスタルジックに追い求める対象としての原宿よりも、福岡の八女に惹かれるものを感じるかも・・・とのセンスが求められているのでしょう。
雑誌「anan」だって、そっちでしょう?
写真©Ken Anzai