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「差別はしていない、区別してるだけ」に潜む誤解と罠

こんにちは。

メタバースクリエイターズ若宮です。今回はちょっと「差別」について書いてみます。


自分は「差別」していない?

あなたは差別していますか?
差別したことはありますか?

と、改めて聞かれたらどう答えますか?

「自分は差別なんかしない」と多くの人は答えるかもしれません。

しかし実際のところ、差別を全くしない人はほとんどいないのではと僕は思っています。人はみな偏見を持っていますし、偏った見方によって無自覚に差別的な行動をとっていることもあります。なのに「自分(だけ)は差別していない」と思うのはむしろ危険なことではとおもうのです。それが「無意識」のものだからこそ怖いのです。

たとえば「普通はこう」という言葉を使う時や「生理的に無理」と拒絶する時、差別が発動しているかもしれません。差別はみんなが思うより日常に潜んでいるので、「差別していない」と思うより「自分自身も差別をしているかも…」と常に我が身を振り返るよう心がける方がよいと思っています。

人は神ではないので(少なくとも同時には)ある一つのパースペクティブからしかものを見ることはできませんから「偏見」があるのは仕方がないことです。偏ったものの見方を避けることは原理的に不可能に近いので、問題はそうした偏見が固定化し、行動が固定化しないようにする、ということです。

つまり「差別」の問題はつまるところ「外形キメツケ」と「扱いの差」にあるのではないでしょうか?


「下にみてない」は差別じゃない?

「差別=見下すこと」と思われることが多い気がしますが、僕はこれは誤解ではないかと思っています。


「自分は差別していない」という言葉も、「下にみる気持ちはない」という意味で言われることがあります。
たとえば以前、森元首相の発言が物議を醸したことがあります。森さんは「女性が会議に参加すると時間がかかる」と発言し、女性蔑視だと批判されました。

で、その後批判に対して謝罪する際、森さんは「家で女房と娘にさんざん怒られた」みたいなことをおっしゃった。これは典型的に「下に見てないから差別してない」と誤解している事例ではないでしょうか。

なぜことさらに奥様やお嬢様の話を出すのか?というと、「おれは女性を蔑視しているわけではないよ」ということをアピールしたいわけです。ここがややこしいところなのですが、森さんはたぶん本心から女性を下に見ていないと思っているのですね。
どこがだよ!という怒りの声がありそうですが、ちょっとだけ落ち着いてください。実はここ、けっこう大事なんです。
いったん、森さんもある意味では愛妻家で女性に敬意も払っている、とします。じゃあなぜ今回みたいな発言になるか、というと、それは「役割を決めつけてしまっているから」だと思うのです。
(中略)
今回の発言の背景にもこのような、仕事や社会は男性の役割、女性は家庭を司るもの、という古い分担の価値観があるわけです。

森さんにはいまだに、「会議」という「男の仕事の場」に本来「家庭を司るべき女性」がわざわざ出張ってきた、という感覚があるのではないでしょうか。そしてこういう価値観は「昭和のお父さんたち」の中にもう無意識レベルで刷り込まれているので「女性蔑視!」と指摘されても「いや、家庭では女性を尊重してるよ!」という今回のような噛み合わない答えしか帰ってきません。

先ほど述べたように、問題は偏見の固定化です。「下にみてない」としても勝手に役割を固定してキメツケているならそれは「差別」ではないでしょうか。

そもそも「差別」というのは、関係性の上下だけに限られません。たとえば企業ではよく「差別化」という言葉が使われます。それは戦略的にそれは「他と違うもの」と認識してもらうことを指し、決して「うちの商品をもっと下に見てほしい」と思っているわけではありませんよね。



外形的な「キメツケ」

問題は「キメツケ」にあるわけですが、こうしたキメツケは往々にして外形的な属性にもとづいてされがちです。

「女性だからこう」「おじさんだからこう」という偏見が固定化し、その人個人の資質や能力を見る前に「キメツケ」してしまうと差別につながります。いま話題のNHK朝ドラ『虎に翼』でも、能力に関係なく「女性だから」という理由で検事や裁判官になれないとキメツケられるというシーンが出てきますが、これは今から考えると「差別」だとはっきりわかりますよね。


「そうはいっても、こういう属性の人たちはこういう特徴を持っていることが多いという偏りは実際にあるではないか」という意見もあります。そうしたデータをもとに判断するのは客観的で正当なようにも一見思えます。『虎に翼』の時代には多くの男性が統計的傾向として女性には裁判官は向いていない、と思っていたかもしれません。

統計的傾向は実際にありますし「セグメンテーション」もそうですが、ある程度の類型化は便利なところもあります。統計的なデータでみて、たとえば日本の人と欧米の人を比べれば朝ごはんに米を食べる率は日本の人の方が高いでしょう。

ここまではファクトです。しかし、そうはいっても日本人にだって「朝ごはんはパン」という方もいますよね。そこで、「いや、日本人なんだから米をたべなさいよ」といったら差別でしょう。


同じように「ある人種の方が犯罪率が高い」というデータがあったとしても、だから「○○人は危険」と「キメツケ」たとしたらそれは差別です。統計的な類型は便利ですが、そうした外形的な情報「だけ」で判断することで終わらず、一般的にこういう傾向はあるかもしれないけど、個人としてのその人はどうだろうか、と類型をいったん脇において考えることが大事ではないでしょうか。

(セグメンテーションでも性別や年齢などデモグラフィックな属性「だけ」でセグメントすると顧客理解が浅いものになってしまいます。さらにその先の心理的属性や行動属性まで想像力をもってインサイトを探ることが重要です)


実際、メタバースにいるとその人の外形的な情報はほとんど見えないので、物理世界で人に会う時とは人の認識の仕方がだいぶ異なる感覚になります。物理世界で人に会うと年齢や性別、国籍、見た目、などで話す前から人となりを想像してしまったり身構えてしまったりしますが、メタバースではそうしたことがほとんど意味を成しません。

そもそも、性別や見た目、もっといえば学歴や職歴なども、本人の選択や意思によらずに決まってしまう偶然の要素が多いものです。そうした外形的なことで「キメツケ」をしてしまい、内実を見ないようになってしまう盲目性が差別を生むのではないでしょうか。


区別してるだけで差別はしてない?

よく、「差別はしてない、区別しているだけ」という言葉も聞きます。

であれば、差別と区別の違いについてちゃんと考えてみることも重要でしょう。

「差別」という言葉を引いてみると

あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。「両者の—を明らかにする」
取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。「性別によって—しない」「人種—」

とあります。


一点目はほとんど「区別」と同義な感じで説明されています。そして、2点目には「取扱いに差をつけること」とあります。そういう意味では1を前提として、2をしている場合、「区別」を超えた「差別」だということができるかもしれません。

「区別」は単に分類することですが、「差別」はその分類を元に扱いに「差」をつけること、不平等な扱いをすることを指すわけです。

前述の内容と紐づけるなら、統計的や特徴や傾向でセグメンテーションするところまでは差別ではないといえます。しかし、その分類にしたがって扱いを変えると「差別」になるわけです。

企業の「差別」化というのも、究極いうとこれを戦略的に目指しているといえるかもしれません。商品をパッと見ただけで他との違いを認識でき(「外形的なキメツケ」)、それによってその商品だけを買ってもらう(「扱いの差」)ようにする。

逆にいえば、差別をしないようにするには、①外形的なことだけでキメツケず個体を丁寧にみる、そしてその上で②短絡的に扱いに差をつけない、ということを心掛けることになります。


このように書くと「そんなのめんどくさい…」と思うかもしれません。そう、企業で「差別」化が目指されているように「差別」にはある種、便利で効率的なところがあるのです。そしてだからこそ危険で、つい無自覚にそうしていないかを常に注意する必要があるのです。

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