「発信」を目標におく- 日本の文化への関わり方の議論から思うこと。
今日、10日間の日本滞在を終えてミラノに戻ってきました。
この10日間、それなりの数の人から聞いた、共通するひとつの台詞があります。「日本の文化を海外に発信する方向に活動をふっていきたい」です。「日本」「文化」「発信」という言葉は揃っています。
「日本の文化」が何を指し、どのポイントを強調したいかは人によるでしょう。それで表現にばらつきがでるわけです。伝統工芸品を外国に輸出したい、日本文化に自ずと染み出る繊細さを海外の人に分かってもらいたい、日本が得意とされるサブカルチャーは市場を伸ばしやすいはずだ、等々です。
こうした台詞で特徴的なのが、上記のような動機を話すわりには、実際に動く具体的な領域や商品などの素材がなく、かなり漠然と日本文化を捉えて海外になんらかの形で繋ぎたいと考えていることです。
ぼくが高校生のとき、ある名の知れた文化人が講演会で「日本は文化受信機は優れているが、発信機は壊れたままだ」と語っていましたから、何十年にもわたって、いや、中国文化伝来の時代からすれば、何百年以上も前から「優れた発信機が完備されていない」状況が続いてきたことになります。
今や発信機を作動させるためのコストもそこで使われる言語にも敷居が低くなっていますが、冒頭にある言葉にある共通な点は「受信には飽き飽きしてきた。もっと自らを開放(解放の方もあるでしょう)したい」との欲求があるようにみえます。自らの文化アイデンティティと整合性をとりたい、との願いもあります。
チョコレートの製造・販売会社を2014年に立ち上げ、Minimal -Bean to Bar Chocolateというブランドをスタートさせた山下貴嗣さんの根底にも、そのような想いがある・・・と思いました。
日本滞在中、山下さんとお会いしていろいろと刺激的なお話しを伺った後、冒頭の三つの言葉の順序を考えました。何を一番優先させるのが良いのか?とミラノに戻る機内でも考えてきました。
もちろん、山下さんにはチョコレートという具体的な食品がありますから、以下は一般的な次元の話です。
多くの漠然とした話は下の左側にある三角形で語られているように思います。発信が手段になっている。政府が日本の文化を海外に向けてアピールするのは当然の政策ですが、民間の人がビジネスかどうかを問わず日本の外で何かに立ち向かうときは、右側の三角形が適当では?と山下さんと話した後に思いました。
「発信」は言うまでもなくコンテンツそのものを含みます。日本の文化は結果として滲み出るという立場をとるのです。あるいは、日本の文化が発信をサポートする。
それなりの期間、海外に住んだ人はお分かりになると思いますが、相当にローカルに馴染んでいると自覚していても、ローカルの人からみれば「やっぱり、どこか日本の人のメンタリティが出ているよね」と思われるものです。「君は、もうローカル人以上にローカル人だね!」というのは、おだてられていると思っておくのが適切です。日本に住んでいる日本語の上手い外国人の話ぶりや振る舞いを思い起こせば、そのあたりのニュアンスが「ああ、そうか!」とお分かりになるはずです。
発信はプロセスやツール以上のものがあります。しかし、単なるプロセスやツールであり、日本の文化の普及促進を下支えすると考えがちです。だが、実はここにひとつ、落とし穴があるのではないか?とぼくは疑問をもったのです。
発信のかたちにはたくさんあり、そのコンテンツを突き詰めるのが発信を優先する、という上図の右側にあたります。加えて、その発信を受け取る受信サイドが「取り入れたい」と自然に思うような条件設定も含みます。それでないと、一方通行を促してしまうことになります。
先月、「復刻版をビジネスのコアにおく企業の存在感が増している - 「デザインプロダクト」を巡る旅で思うこと。」で書きましたが、日本の小さな企業がイタリアのデザインプロダクトを日本市場向けに扱っていても、その思考(あるいは批評)や戦略がイタリア企業の行動に影響を与え、それがイタリアに限らない地域にもインパクトを及ぼしたのです。この日本の企業が、自分ではそこまで気が付かずとも、十分に「発信」していたとある年数を経て明らかになったのです。
また、今月、NIKKEI The STYLEに掲載されたぼくの以下の記事で取り上げているメンフィスも、カテゴリーとしては同じ部類に入る発信になるでしょう。
1980年代、ミラノ発でメンフィスという世界に大きな影響を与えたデザイン活動がありました。エットーレ・ソットサスというイタリア人とオーストリア人の両親の間に生まれた著名デザイナーが中心になり、日本人も含む複数の国の出身者たちのグループが大きな存在感を示しました。
これがイタリアのデザインヒストリーだけでなく、世界のデザインヒストリーの重要な潮流を形作ったのです。この動きが30年以上を経た現在、「イタリアデザイン」の資産として再び脚光を浴びています。
メンフィスは、20世紀はじめから主流とされてきたドイツ発のバウハウスという大量生産時代に合うデザイン表現言語とは違う新しい表現言語をつくり出すことを追い求めました。記事で紹介しましたが、その時ミラノにいたデザイナー、現在では巨匠と称されるミケーレ・デ・ルッキもメンバーの1人として、次のようなことを語っています。「訴える対象として想定していたのが、ポップな文化をリードしていたカリフォルニアに住む気の利く人達だった、その彼らの心を掴むに腐心していた」と。
このメンフィスで生まれた新しい表現が、そして新しい意味が、結局において1980年代のイタリアデザインを輝かせ、それが20世紀はじめの未来派を筆頭とする「イタリアのアートの前衛の歴史」を更に意味深いものとする資産にもなった。
この事実は、新しい文化をつくることこそが、過去のそれまでの文化資産をより豊かにし、かつ、多くの人にも長く顧みられることを教えてくれます。文化というと「継承」との言葉が対応し、歴史・伝統というと「伝統と革新」との表現がついてまわることが多いです。
だが、「発信」を基としてその内容を充実させていくと、そうしたステレオタイプなあり方を脱し、尚、過去の資産を更に磨きかけることになる。異文化の領域で地に足がついたプロジェクトには、そうした視点が大切なように思えます。
次回の訪日では、Minimalのチョコレートの生産現場を見せてもらいたいと考えています。
冒頭の写真©Ken Anzai