「ワーケーション」をアート思考から再考してみた。〜「身体」と「余白」を媒介にした「触発」と「異化」
お疲れさまです。uni'que若宮です。
先週、長崎県の五島列島に行ってきました。
今年は毎月一週間ずつ全国いろんな地域にお呼ばれし、お返しに現地の自治体や企業、個人のメンタリングする「メンターケーション」というひとり企画をやっているのですが、8月は『一般社団法人みつめる旅』さんにお招きいただきまして、
『みつめる旅』さん主催の「五島ワーケーションチャレンジ」というワーケーション・ウィークに合わせて滞在し、地元の方に加えワーケーションにいらした方の相談にも乗りながら一週間滞在しました。
(五島でのワーケーション、とても楽しかったのでおすすめです。「五島ワーケーションチャレンジ」の秋募集も7/開始されたらしいのでぜひどうぞ)
アート思考からみる「ワーケーション」
期間中、こんなトークイベントも現地で開催いただいたのですが、
トークテーマとして「ワーケーションの効果とは?」というお題をいただいたので、(↓ビジネス観点からはたとえばこんな記事もありますが)「ワーケーション」について「アート思考観点から」改めて考えてみました。
まず、「アート思考」は課題解決型思考ではなく、「自分らしさ」(=いびつさ)を起点にしてユニークバリューを生み出すことです。
しかし、この「自分」らしい「いびつさ」はしばしば、常識や社会的コード(「他分」と僕の用語では読んでいます)によって隠されてしまっています。
舞踏家・土方巽のことばを借りれば、「飼いならされて」しまっている。
芸術家は作品制作の過程で、この「他分の殻」をuncoverしながら自分らしさに出会い直していくのですが、日常では僕たちは「他分」の方を自分だと勘違いしてしまっていたりして、「自分」のユニークさって実は自分が一番わかっていなかったりするんですよね。
ではどうするか、ということでアート思考が求められているわけですが、たとえば僕は↓こんなあたりがポイントだと思っています。
「身体」と「余白」を媒介にする
①)身体
上記スライドの真ん中に「・身体性・余白(媒)」とあった通り、アート思考で「自分」に出会い直すには、媒体としての「身体」と「余白」が大事です。
まず、アートの制作や鑑賞においても「身体性」が言われるように、アート思考では「身体」が重要です。なぜかというと「身体」には論理的思考にはないゆらぎや個のちがいがあるからです。
しかし近代的な仕事においては、身体性は思いっきり遮断されてしまっています。多くのオフィスでは音を出してはいけない、匂いを出してはいけない、食べたり体を動かしたりすることは「ノイズ」として禁じられ、「無菌室」のような状態にされています。
使えるのは「視覚情報」のみ。↓の写真の左上のような感じで、ほとんど身体性が排除されてしまっている。
これではインプットにおいてもアウトプットにおいても多くの部分が捨象されてしまい、想像力も乏しくなってしまいます。
佐々木健一『美学辞典』の「想像力」の項を引きます。
まず、「想像力」というのは「身体に媒介されている限りでの精神の働き」なのですよね。それに対し、「精神が身体の影響を遮して、純粋に思考しようとするとき、その思考は抽象的・一般的・論理的」と言われている。これはまさに近代的なオフィスや仕事の環境です。
この環境下ではそもそも想像力が発揮されづらいわけですが、さらに「身体との関係に即して思考するとき、その思考は具体的・具象的」と言われ、「想像力の思考のもつ一般性や論理性は独特なものとなる」と言われています。「抽象的・一般的・論理的」な冷えた思考(=ロジカル思考)とは対照的な、「具体的・具象的」で「独特な」思考。「独特な」とはまさに「ユニーク」ということであり、身体のもつ個別性・具体性を通してこそ自分らしいユニークさとの出会いがあるわけです。
②)余白
次に、媒介として「余白」も重要なポイントです。
「余白」とは「あそび」とも言いますが、この「あそび」の感覚もアート思考には必要だからです。
↓のスライドのように、
「遊んでないで仕事しなさい!」と言われることがあります。そこではつまり「遊び」と「仕事」が背反するものとして捉えられているわけですよね。
計画的に・再現性高く・仕事をしようとするとマニュアル化され偶然性が入り込む余地や余裕がなくなります。そうすると余白もなくなり、想定外の価値は生まれなくなってしまいます。
20世紀的な働き方においては敵対していた「仕事work」と「遊びplay」。ですが、実はアートにおいては背反するものではなく、相補的なものとして一緒に使われることがあります。たとえば
・音楽作品workを演奏playする
・演劇作品workを上演playする
というような感じですね。
この場合、workとplayの関係がどうなっているかというと、workの方がより抽象的(色んな演奏がされても「作品」は同一)のに対してplayは個別的、あるいはworkは不変的(「完成」しており変わらない)のに対してplayは一回的であると言えます。あるいはウォルター・オング流にworkは「文字の文化」的で、playは「声の文化」的といってもよいかもしれません。
両者はこのようにちがいますが、背反しているのではなくむしろ相補的な協力関係にあり、どちらもあってはじめて、作品体験は生き生きと立ち上がるのです。
ワーケーションの「あそび」「余白」は、オフィスにはないplayの要素をもたらし、仕事を生き生きとしたものにしてくれるでしょう。
そこから起こる「触発」と「異化」
③「触発」
アート思考には「触発」という概念があります。
ロジックやデザインは基本的にみんなを同じ方向に導くものあり(誰でも同じ結論が出るのが論理学であり、デザインのアフォーダンス理論は無意識に企図された行動をさせる)、だからこそソリューションに向いています。これに対し、アート思考の「触発」はなんらかのエネルギーは与えるけれども、触れたものをそれぞれ違う方向に動かします。
だからこそ「触発」は個のいびつさやユニークさを露わに(uncover)する契機となるのです。
ワーケーションは(その身体性と余白を通じて)、あたかもアート作品に出会う時のように「触発」として訪れる人々に働きかけ、それぞれが改めて自分のいびつさに気づくことができるでしょう。
④「異化」
さきほど「飼いならされている」と書いたように、僕たちは「他分」を自分ととりちがえてしまい、「自分」のユニークさに気づけていません。
この日常の「慣れ」の首輪から解放されるためには、ちょっとした非日常の仕掛けが必要です。これが「異化」です。
絵画や俳句に触れることで、日常の風景やいつも通り過ぎていた道端の花がまったくちがったものに見えることがあります。
千利休の「見立て」もそうですが、コンテクストや背景のずらしによって「自動化」されスルーされていたものの価値を改めて見出し直す力、それが「異化」です。
ワーケーションもまた、いつもと異なる環境や文脈へと自分を置き直すことで、「慣れ親しんだありふれたもの」として「自動化」されていた「自分」と、新しく出会い直させてくれる効果があるでしょう。(ちなみにこれ、観光旅行ともちがう気がしてます。観光の場合は【環境:非日常、自分:非日常】ですが、ワーケーションは【環境:非日常、自分:日常】という「ずらし」があることでより異化的だと言えるでしょう)
今回のワーケーションではお子さん連れや家族でという方がとても多かったのも素敵でした。家族が働きながら旅をする(これがほんとのリモートワーク)ことで、家族も「異化」され、それぞれの「自分」に気づくことができるかもしれません。
「まち」にとってのアート思考的効果
こうした「触発」や「異化」は、ワーケーションに訪れるひとびとが「自分」に出会い直す効果をもたらしますが、それだけではなく「まち」にとってもアート思考的効果があるかもしれません。
過去のメンターケーションでもほぼ毎回感じることとして、「まち」は自分たちの価値やユニークさをあんまりわかっていないことが多い。というか正確には、「慣れ親しんだ日常的な事物」になってしまった結果、わからなくなってしまった、という感じでしょうか。
こうした「まち」にとっても、他の場所から入ってくる人の視点は新たな「触発」となります。それは、外向けの観光的なお化粧した顔ではなく、自分らしい「すっぴんの魅力」に気づく機会になるのです。
また、「まち」を主語に考えれば、外部からの人と交流することはやはり「環境:非日常、自分:日常」という「ずらし」の中での「異化」でもあるでしょう。
「身体」と「余白」に媒介された「触発」と「異化」。
訪れる人もそのまちも「自分」に出会い直していく旅。それこそがワーケーションの魅力なのかもしれません。
↓五島市ワーケーションは本当に楽しかったです。ちょうど7/12〜秋の募集も開始されたようなのでぜひ(託児サービスやアウトドアスクールもあったので子供連れでもおすすめ)
↓「ワーケーション」に興味が出たけど実際どうなの…?という方向けにはこんなイベントも