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話が面白くない人たち

1人で流暢に話すことはできても、知らない人との会話が成り立たない—マスコミによく登場する学者やオピニオンリーダーと呼ばれる人にも多い。自分の世界のなかでの一人語りはできても、議論が嚙み合わない有名人もいる
 
意図せず、自分が好きなニュースや情報空間に毎日過ごしてしまう。フィルターバブルやエコーチェンバーの弊害をもたらすといわれだして久しいが、自分の関心のある情報ばかりを意図せずに集めて、自分にとって都合の悪い情報を排除する傾向が強まっている。自分と異なる価値観や考え方に触れなくなり、世界観が狭くなっている
 
それだけではない。「心理的安全性」という言葉が流行り、自分に合う人や自分に都合の良い人ばかりで群れようとしている。自分の考え方とは違う人、自分の世界のなかにはいない人とつながりを避けてばかりいて、発想が内向きになっている


1 雑談をしなくなった人たち

いろいろなことが便利になった。たとえば電車。いままでだったら乗り換えが必要だった路線がどんどんつながり、乗り換えなしで、目的駅に一気にたどり着く。とても便利
 
「乗り換え」「振り替え」「溜まり」「休憩場所」がなくなって、もしもの時の対応力がおちている。事故が発生した場合の対応が長くなり、影響度が大きくなった。レジリエンス力が落ちている。なぜか?
 
様々な場で、健全なボトルネック・不便さが無くなったが

なにかとなにかをつなぐ
「遊び」がなくなっているのだ

「遊び」とは急激な力が入るのを防ぐために、部品の結合にゆとりをもたすことだが、「ハンドルの遊び」のようなモノ・コト・場が社会、地域、企業、生活の場からどんどんなくなり、いままではあり得なかった不具合が発生している
 
技術の進展に伴って、利便性・効率性が追求され、いろいろなボトルネックが解消されていくが、想定しない問題が発生して、対応が遅れる
 
会社のなかでも、そう。どんどん効率化、生産性はあがっている。ネット検索、生成AIによる情報収集、オンライン会議が増えて、便利になった。会議開始時間直前に、会議参加メンバーがいろいろな所から集まり、目的のテーマだけを議論して、会議時間が終了したら一気に退出する

会議前や会議後のメンバー間の
なんとなくの雑談がなくなった 

雑談のなかで、本来の会議の議論よりも大事なヒントを発見したり、目的外の議論に発展したりしたことがあった。会社のなかに確実にあった

偶発的な出会い
「邂逅(かいこう)」が減り
会社のチカラが落ちている

資料作成も、そう。なにかを調べるのに、手間も時間もかかっていた。さまざまな人に訊ねにいったり、さまざま資料を読んでいるプロセスのなかで、新たな事柄を見つけたり、思いもよらない事柄を着想したりした

寄り道をするなかで
知識が拡がったり、深みが生まれた 

その知的な寄り道をしなくなった

読む本が決まらなければ無作為に選ぶ「ガチャ」をひくと「きょうの1さつ」としておすすめの本が表示される。スタンプやコメント機能で読んだ本の感想をシェアできる。「友達が読んでいる本に興味を持つ児童が多い」(お茶の水小学校)という

「子どもの読書をサブスクで ゲーム感覚、気軽に習慣づけ」

「ガチャ」がいい、おすすめの本がいい。好きな作家、好きなテーマを追求するのはいい。しかしなにかに固定することなく、乱読もいい。乱読がチカラをつける、多様性が新たな世界を拓くことがある

2 技術に使われる人たち

ある大学の講義で、「家に百科事典がある人、いますか?」を訊ねると、100名中2名しかいなかった。百科事典ってなんですか?という質問もあった。たしかに40年前でも、私の家の百科事典はインテリアだった。国語辞書、英和辞典も、同様だった、少なくとも20年前までは、国語辞書や英和辞典はボロボロになるまで使っていた
 
電子辞書やパソコンやスマホが登場して、消えた。わからない言葉があったら、知りたい言葉があったら辞書をめくって調べるというスタイルがなくなった
 
今のスタイルは違う。調べたい言葉に、スマホで、即座に到達する。答えてくれる時間は瞬時なので、ストレスはない。ダイレクトに「答え」がいっぱいだしてくれる。生成AIで、もっと便利になった。問いかけ方で「答え」が変わる。期待外れの答えをだしてくることもあるが、生成AIを持ち上げて質問をしたらとても良い答えもだしてくれる

友人のマーケティング会社のマネジャーと話をした
「部下の一人になった。生成AIに褒めて質問したら、良い答えをしてくれる。つっけんどんに質問すると、ちゃんと答えてくれない。生成AIは気を遣ってあげると、いい同僚、部下になる。もう生成AIなしには仕事をできなくなった」

note日経COMEMO(池永)「いい塩梅を求めつづけるニッポンに。

かつては調べたいコトがあれば、10巻も20巻のある百科事典や辞書のページをめくって、時間をかけて、答えにたどりつけた。目的のコトを調べているうちに、別のコトが気になったり、まったく関係ないコトに出会ったりした。いろいろ寄り道をして、別のいろいろなコトを読んで

知識が深まった 

調べるのに時間がかかっていた。調べている途中に、いろいろなコトを考えた。別の気になる情報が目に入るので、それも読むので時間がかかった。もともと調べようとしていたキーワードの前と後ろの言葉が目に入ったりした。このような「寄り道」と「前後」で知識を広げて深めたが、一日のなかから

寄り道と前後が減った

技術が、人の寄り道と前後を奪った
たとえば新幹線。江戸時代は、江戸から京の東海道53次(492km)を15日間かけて歩いた。「早く、遠くに移動する」ことを目標化した企業は輸送技術を進歩させ、到達時間をどんどん早めていった。今では東京から京都は2時間10分で着く。リニア中央新幹線が開通すれば、東京と大阪を約1時間でむすぶ。技術の進歩は、移動時間を短縮させつづけている。技術は人々を便利に楽にしているが

時間の概念と時間の感覚を変え
人々の「思考時間」を減らした 

車窓からの風景を眺めたり、駅弁を食べたり、切符の改札があったり、ホームで立ち食い蕎麦を食べたりといった

「プロセス」がなくなった 

東京駅から新大阪駅に着く。途中の浜松駅や三河安城駅は通過して消えた。

技術で得られることと、技術で失われることがある。なにが得られて、なにを失うのかという両面をおさえ、生活・学び・仕事をしていかなければ、

「技術」に人が使われる
「技術」は人が使うもの

これまで、寄り道をして、いろいろなものを見たり、考えたり、前と後を見て、違ったものが発見した 。その遊び、その余裕がなくなり、見えない「なにか」が増えている。その「なにか」の存在に気がついていない

3 話が面白くない人たち

知り合いのアメリカの外交官から、こんな話を聴いた

「大阪の人はオープンで、親切でユーモアがある。よく笑い、ビジネスも上手。しかもたいへん長い歴史がある。いろいろなものや人がこのまちに集まってきた。いろいろな人を受け入れて、歓迎してきた歴史を持つ。外国人にとって心地よいまち。ただし日本人の友人に、『大阪の文化とはなにか?』と訊ねたが、その人はうまく答えられなかった

表面的にはフレンドリーだが、自らの都市の歴史が語れないのは残念だ、と。こんな話も聴いた

日本人は「源氏物語を紫式部が書いた」ことは知っているが、「なぜ彼女がそれを書いたのか?その頃の時代背景はどうだったのか?」という質問に答えられない(今ならNHKの大河ドラマの「光る君へ」で語れる人が増えているだろう)。また幕末の安政の大獄や寺田屋事件のことを訊いても、「年号と事件名」は答えてくれるが、時代背景やストーリーを語れない。そんなことには関心がなさそうだ

note日経COMEMO(池永)「紫式部は、なぜ源氏物語を書いたのか?」

今の日本人は、コンテンツは語れても、「それはなぜか?」「なぜそうなのか?」というコンテクスト(背景・文脈)を答えることが苦手である
 
朝活や夕活が増えている。
テーマはハウトゥーものが多い。実務直結の知識取得型はいうが、時間がないと見送る。自分の担当外、専門外のテーマには関心がない。教養テーマには見向きはしない。教養を身につけないといけないと口ではいうが、時間がないと見送る

本もそう。ハウトゥー物が中心で、専門特化の短い本が選ばれがちで、分厚く、難解そうな、自分の専門外の本、原典は敬遠される。ユーチューブを見て、ネットやXを読んで、生成AIに問い合わせて瞬時に出てきた答えらしいモノで、知ったつもり、理解したつもりで、満足する

だから話に厚みがない
話が面白くない
だから議論が広がらない

「学び」が不足している。自分とはちがう、異なるものからの学びが弱くなっている。一見関係ないモノ・コトに触れたり、本論以外の関係ない雑談する場や時が減っている

機械に使われてはいけない
機械は使うもの

要約で分かったつもり満足しないで、本文を読む原典を読み、全体像を五感でつかむ。スマホをちょっと閉じて、パソコンのある席からちょっと外に出て、知らない場所に行って、寄り道をして、誰か知らない人と雑談したら、もしかしたら、一生の師や友に出会えたり、見えないモノやコトに出会ったり、あっと思うアイデアが浮かんだりするかもしれない

そんな邂逅を大事にしたい


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