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いい塩梅を求めつづけるニッポンに。

気がついたら、世の中が変わることがある。突然、潮目が変わることがある。ちょっとだけ前の世の中の空気は、GAFA時代だ、彼らにこれ以上離されるわけにはいかないと言っていた。DXを進めないといけない、AIの学び直しだ、大学にはデータサイエンス学部に行かねばと言っていた。いつまでも昭和の経営をしていたらいけない、中小企業の経営者はMBAの学び直しが必要だ、と言っていた。あれだけデジタルだ、データサイエンスだ、AIだ、MBAだといっていたのが

生成AIで、がらっと変わった


1 生成AIは、なにを変えようとしている?

最近、友人の弁護士と話をした
「今ではほとんど生成AIで仕事をしている。仕事の生産性は10倍、いや30倍進んだ。1年前に話題になった頃は、まさかそこまではいかないだろうと思っていた。しかし本当に、弁護士・裁判官・会計士・税理士はいらなくなるのと違うだろうか?裁判官の判決も、生成AIで書けるようになるかも」

友人の大学の教授と話をした
「研究にも、論文作成も、プログラミングも、大学の先生も学生も、みんな、生成AIを使っている。この1年で、一気に進んだ。チャットGPT‐4で、さらに進む」

友人のマーケティング会社のマネジャーと話をした
「部下の一人になった。生成AIに褒めて質問したら、良い答えをしてくれる。つっけんどんに質問すると、ちゃんと答えてくれない。生成AIは気を遣ってあげると、いい同僚、部下になる。もう生成AIなしには仕事をできなくなった」

生成AI一色となっている

面倒くさく難しいことが、生成AIですぐできる。あれだけデータサイエンスだ、DXだと言っていたが、がらっと変わった。Aと言っていたことが、Bだというようになった。これだと言っていたことが、あれだと言い出している

2 いい塩梅を求めた日本

「あんばい」という言葉がある
物事の具合や様子、身体の具合や様子、料理の味加減を「按配(あんばい)」という。ちょうどいい按配という言葉は、日本料理の塩と梅酢で味の加減をしていた「塩梅(えんばい⇒あんばい)」からきている
 
日本料理は、一年中、変わる
器が季節で変わる。土物の陶器から、石物の磁器や硝子器に変わる。料理の順番が変わる。冬は温かい料理からはじめ、胃を和らげていく。夏は冷えたビールをのど越しに飲めるよう、香ばしいパリッとした食感のある揚げもの料理からはじめる。季節や旬の食材ごとに、味付けを変える。男性・女性ごとに、年齢ごとに、お客さまの体調にあわせて、味付けを変える
 
料理に使う醤油と塩の配分を変える。冬の料理では7:3だった醤油と塩の配分を、初夏には4:6の配分として、夏には3:7と逆転させる。日本料理は塩加減が肝心で、塩梅がなによりも大事

日本料理の真髄は、塩梅の妙

それが料理本やネットのレシピに料理ごとの調合・配分比率で、1年間、同じ味つけするようになっている。季節や食べる人のコンディションによって、「美味しい」と感じたり、感じなかったりするはすだが、それが分からなくなった

いい塩梅がなくなっていく

3 日本の流儀がなくなりつつある

それは料理だけではない
前につくったやり方で、もう一度やってやると、同じものになることもあるが、同じものにならないことがある。なにかをつくるときに、1回で「これだ!」というものができあがることなど、そうそうない

こうしたらいいのか?この方がいいのか?なんどもなんども「いい塩梅」を求めて、良いもの、美味しいものをめざして、つくるのが

日本の仕事の流儀だった

現在の日本のモノづくりや商売開発や人材育成で、この流儀がなくなっている。マニュアルやガイドブックに書かれたノウハウやレシピの「何対何」が基準となって

それを疑いもせず
受け入れるようになった 

なかには、「本当にそれでいいのだろうか?」という事柄もあるが、「王様の耳はロバの耳」をおそれ、みんなが「これでいいのだ」と言うようになったので、「ちがうのではないか」といえなくなり、ついにはそれが当たり前になる。そういう話がいっぱいある

4 行ったり来たりする社会

コロナ禍一色のころ、みんなマスクしているなか自分だけマスクをしていないと、居心地が悪かった。電車のなかで、大きな声で喋ったり、電車のなかで咳をしたら、みんなから冷たい目で見られた

 暗黙のうちに
社会的な統制がかかった

自由主義の世界では、アダムスミスの「神の見えざる手」がはたらく。ある方向に行きすぎると、反動力がでてくる。左に傾いていたものが突然右に傾く。行ったり来たりするが、どこかでバランスする。それが自由主義をささえていた

自由主義というメカニズムは
行ったり来たり

自由に生活することへの反作用的な不利益がでてくると、その自由はおのずと統制される。ある一定の制約が社会のなかに形成されるのが、資本主義社会での自由競争を支える考え方だった。それが自由と統制のバランスだった。それが崩れつつある

自由が行き過ぎたら、抑制される
統制が行き過ぎたら、解放する

これを繰り返す。ただ繰り返したあとの姿は、元の姿には戻らない

5 これでいいと思った瞬間、これでいいのか?と問う

モノづくりは、「塩梅を求めつづける」工程だった。塩梅を求めたトライ&エラーでつくりあげバランスした状態を固定したものと考えるのではなく

常にバランスを求めていく
スタイルをとってきた

何度も何度も工夫してバランスしたからといって、その状態を固定的に考えるのではなく、常に「バランスを求めよう」としてきた

「これでいい」と思った瞬間に
「これでいいのか?」を問い始める

「これでいいのか?」というのは、「これでいいが実現していない」といえない。「これでいい」という状態があってからの「ズレ」を「これでいいのか?」と問いつづけるのがプロである

現代の問題は
「これでいい」ができていない
ことから、おこっている

「こんなことでいいのか?」と問う前に、「これでいい」ということを実現しないといけないのに、それができていない人・会社が多い。「これでいい」ができたうえで、「これでいいのか?」と問いつづけなければならない

「これでいい」がないのに
「これでいいのか?」はない

自転車の運転もそう
自転車はバランスをとりつづけて運転する。走り出して、これで大丈夫と固定したら、転(ころ)んでしまう

バランスをとりつづけて自転車を漕ぐのは、「塩梅」を求めつづける姿そのもの。右に倒れないよう、左に倒れないよう、両手でハンドルをとりながらバランスをとりつづけないと転んでしまう
 
私たちが失くしつつあることはこれ。1回できあがった「バランス」を固定的に考えるのではなく、「これでいいのか?」「次はこうした方がいいのではないか?」と、つねに

「塩梅」を求めつづけたい


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