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偏差値が5ポイント以上下がった日本

「わが大学の大学入試偏差値は驚くほど高い。他大学との相対的に見たらそうかもしれないが、大学の絶対的偏差値があるならば、この10年で、5ポイント以上はさがったという実感がある」と、知り合いの大学の教授。

それは、大学だけではない。会社も同じ。企業偏差値という指標があるとしたら、会社の偏差値は5ポイント以上下がった、という実感がある。会社だけではない。政治もサービス業も建築も芸能も芸術もそうではないか。反論は大いにあるだろう

問題は、なぜ、そういう声が出てくるようになったかである。

1.ウチのなかだけで群れている

上海の大手日系企業で勤めていた中国の友人から聴いた。「日本から来られる日本人幹部は、社内で日本人としか話されない。その幹部は、新聞も雑誌も、日本ものしか読まれない。休日も、北京に駐在している日本企業の人たちとだけで過ごされている。私たち中国人従業員とは、ほとんど話をされない。中国にいるのに、まるで日本にいるような環境で過ごされ、2年も経てば、何事もなく日本に帰られる」と、日本の大学に留学したことのある日本好きな若い友人が言っていた。

この2年半、同じ感染対策の専門家が、毎日のように、テレビに登場する。ずっと同じような新型コロナウイルスの状況や対策ばかり話をしている。状況が変わっても、1年が経ち、2年が経ち、2年半が経っても、日本以外の国々の状況がどんなに変わろうと、同じようなことばかり話をしている。SNSで最新情報が入ってくる。だからいつしか彼らの話に耳を傾けなくなった。

理工系の大学の先生たちと、デジタル情報と社会をつなぐプロジェクトに参画している。先生たちと議論していても、発展がない。彼らは技術だけを見て、社会を見ない。専門分野は詳しくても、専門分野外には関心がない。専門分野の人たちとは関わるが、専門外の人たちとは関わらない。専門外の人とは議論がかみ合わない。専門外の人に反論されると、気分が悪い。突拍子ない意見が出てきたら、面倒くさい。専門外の人といると、時間が無駄。お互い、そう思いあっている。

だから専門外の人を入れず、専門分野の人だけで議論しようとする。まちづくりの会議は建築系の関係者だけが集まり、商品開発の会議は技術系の関係者だけが集まり、教育の会議は教育系の関係者だけが集まり、事務局が用意した「答え」を予定どおりに導いて、時間通りに予定調和に終える。ウチだけで群がり、ソトは排除する。この日本独特の会議を繰り返して

チカラが落ちていった

2. えべっさんを愛した日本のこころ

「たらちねは いかにあはれと思うらん 三年に成りぬ足たたずして」

(平安時代 歌人 大江朝綱)

イザナギとイザナミの不具の子が葦の船に乗せられ、海に流された。摂津の国に流れ着いたヒルコを、摂津の浜の人たちは「可哀そうに」と救った。1700年もたった今も、えべっさんとして、篤く信仰している
 
立派な神様がやってきたから、その神様を祀る国は多いけれど、弱者だから大事にしてあげないといけない、弱者を神様にするような国は、そうそうない。五穀豊穣とか商売繁盛とか家内安全とか合格祈願とか病気平癒にと手を合わすだけでなく、ヒルコを「可哀想に」と祀ってきた日本人心持ちはどんなだっただろうか

日本の神話には、強者の神話・物語よりも、敗れていく人たちの物語が多い。日本は弱者を大切にする風土であった。源平合戦、南北朝、戦国時代、関ヶ原の戦い、戊辰戦争、で、逃げていく人たち、弱者・敗者たちを優しく、労わった。

               (人形芝居えびす座 提供)

えべっさんを信仰するなかで無数の「救い」があり、全国に広がっていった。えべっさんは海運の神から、市の神、商売の神、農耕の神、芸能の神になり、全国区になっていったが、「商売繁盛で笹もってこい…」という商いだけで、えべっさんをとらえてはいけない。

えべっさんが背負ってきたストーリーが大事。日本人が「なにを信じて、どう生きてきたのか。どう救われてきたのか。いかに守られてきたのか」ということに、思いを致すことが大切。日本人が承継しつづけた、えべっさんの物語に

寛容と融和

という日本人の心を観る。おそらく物語の源となったエピソードがあったのだろう。不具の子どもも、受け入れた。戒という字から、渡来人も受け入れた。日本人は、外から来た人々も、寛く受けいれ、つつみこみ、混ざり合っていった。日本人は

大切なことは
外から、異なる形で、やってくる

ということを伝えつづけてきた。現在、SDGsが国際社会の目標であるが、日本はずっと昔からその本質を実践してきた。ずっとそうしてきた日本が、それを忘れてしまいつつあるのではないだろうか。

3. スマホが変えた大きなこと

ある経済団体の会議に出席した。議論が膠着したところで、企業の委員が新たな問題提起した。すると、委員である大学の先生が、スマホで、瞬時にその言葉を検索して発見したいくつかの情報を繋ぎ合わせ、さも自分の意見のように、滔々と「独創的」に語り、場を仕切ろうとする。

別の大学の先生も、同じく鮮やかにスマホで検索して取り出した情報の数々を数珠繋ぎにして他の委員に「差別化」しようとする。オンライン参加の大学のもう1人の先生は、ずっと下を向いている姿が画面に映る。その先生もスマホで検索している。スマホで検索したワードで発言。学生には「スマホを使うな」と言っていったりするが、先生たちは堂々とスマホを使う。

3人ともスマホで検索したとは言わない。スマホのなかから、耳障りのいい、見栄えのいい、肌触りのいい、カッコいいワードで、存在感を示そうとする。瞬時に上手に取り出せるスマホ検索術と、検索ワードを繋いで語る編集術が論点となった。

「先生」の智慧は
スマホから出るようになった

しかしその説は、自らが動いて考えだした智慧ではない。他人が時間をかけ努力して生み出した智慧のタダ乗りだから、対話が成り立たない、議論が深掘りしない。原典の全体を読まず、スマホ検索で気に入った他人の「智慧」を切り取り、中抜き、いいとこ取りだから、意味が支離滅裂となる

なにがいいたいのか
さっぱり分からない

スマホ時代に入り、天才と呼ばれる若い学者や、新進気鋭と称される若いオピニオンリーダーがやたらチヤホヤされているが、なにを言っているのか分からない。こちらの勉強不足かというと、そうだけではない。

彼らの「論説」は、現場・現物・現実から導かれた思想ではなく、スマホをソースとしたキーワード検索繋ぎで構成されていることが多いから、脈絡なく、表層的で、観念的で、意味不明なのだ。難解な言葉が多く難しそうに話すが、マスコミによく出てくる人だから「すごい」と思う人もいるが、彼らの言葉は響かなく、世の中は動かない

このように、日本社会は

         スマホが「知識」ソースとなった

本を読まない。読むとしても、仕事に関係する本、自分の専門の本、話題の本が中心。答えがすぐ見つかる本を選ぶ。新聞も雑誌も全ページ読まない。多忙だから全ページを読む時間がないといい、関心がある記事、写真や図表で目立つ記事くらいからしか読もうとしない。ニュースは、スマホで見たらいい。無料で読める範囲で十分。最新ニュースは、スマホが随時教えてくれる。それで十分。

動画は、YouTubeで。スマホで、いつでもどこでも好きな情報を見ることができる。トレンド情報は、Twitterで。みんなの反応は、スマホで掴める。時間も金もかからなく、とっても便利。現場に行くのは、面倒くさい。本人に会いに行って話を聴きに行くのも、面倒くさい。電話もしなくなった。スマホで検索して、誰かが書いた情報が手に入れば、それで十分。その情報が半年前の情報、1年前の情報かもしれないが、いつ書かれたのかどうかは、詮索しない。正しいのか正しくないかを確かめようともせず、検索して出てきた情報がすべてとなった。情報・知識・教養のソースは、スマホとなった。こんなに便利なモノはないが、それだけに頼ると

チカラが落ちる

どうしたらいいのいか。これからどうなるのかを次回に考えたい。


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