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これからを生き抜くチカラーこれから会社はどうなる?あなたはどうなる?(下)

小学校の運動会の風景。みんなで手をつないで走って、全員一位でゴールという徒競走もあったが、実際の社会はそうではない。よーいドンで走り出し、ゴールで1位2位3位と順位がつく。勝つ子がいれば、負ける子が必ずいる。一位になった子に会場からの拍手とともに、一位から遠く遅れて一所懸命に走る最下位の子に拍手が沸き起こる


勝つことが大事なのか
一所懸命に走るのが大事なのか

勝つことは素晴らしい。オリンピックもそう、勝てば国中が盛りあがる。しかし勝つか負けるかの二者択一の価値基準では、正確に現実の社会を捉えられない

ここで、頑張ったのか頑張らなかったのかを縦軸に、勝った負けたを横軸に、4象限で捉えると

・一所懸命に頑張って走って、勝った人
・毎日のように努力して頑張ったが、負けた人
・生まれつき足が速く、努力もしないでも、勝った人
・努力もせず一所懸命に走らず、負けた人

頑張って勝った人は、みんな、すごいねと評価される。頑張ったが駄目だった、負けた人は、しょうがない、仕方ないねと言う。日本人は、頑張っている人に感情移入する

頑張らないで負ける人がいる。頑張っていないから、負けるのは当然、論外だと言われる。4人目の頑張らないで勝った人は、現実社会にはいる。頑張らない人が勝つと、なんかちょっとずるいと思う。さらに、自分にない、その人の才能に嫉妬したりする

会社のなかには
頑張っている人と、頑張っていない人がいる。成果をあげている人と、成果をあげられない人がいる。器用に効率的に仕事ができる人と、仕事するのに時間がかかる人がいる。給料が高い人と、給料が低い人がいる。会社にはいろいろな人がいる

会社の風景を「やることをやっている」「やることをやっていない」という横軸。「給料が高い」「給料が安い」という横軸の4象限でみてみると

①   やることをやって、給料が高い
  →
それは、当然だ
②   やることをやらず、給料が安い人
  →
それは、仕方ないね
③   やることをやっているのに、給料が安い人
  →
なんか可哀想
④   やることをやっていないのに、給料が高い人
  →なんかずるい

会社は社員全員が「やることをやって、給料が高い」というのが理想であるが、現実はそうではない。会社は1年間だけ短期に事業をして、集中投下して金儲けて、「はいおしまい」と事業を畳むわけにはいかない。2年も3年も5年も10年も50年も100年も、事業を継続していきたい

だから中長期的に事業を継続していくためには、社員構成、年齢構成をバランスさせ、毎年毎年、会社の資産を新陳代謝させ、会社内の知識・スキル・経験をつないで、会社全体でパフォーマンスをあげつづけないといけないと考える

会社が事業をまわしていくうえで、収益を分配する会社の権利と、分配を受ける社員の権利がある。会社はそのバランスをとっていかねばならない。会社が期待する成果を社員があげているのかいないのか、社員が頑張って仕事をしているのかしていないかを評価して、その仕事ぶりへの給料の分配をどうするかが鍵であり、頑張って成果をあげ、会社の利益に貢献している社員と、貢献できていない社員をどうするか?

実力主義の欧米ならば
40歳であっても50歳であっても
実力がなれば
給料は下げられる

日本だと、40歳50歳になって、給料を下げたら
この人には子どもが3人いるから
生活が厳しくなるじゃないか
いろんなことで
不安定な要素を抱えかねないから

実力とは釣り合わないが
給料はそのままにしてやろう
という話になる

日本は特に家族的な関係を
社会的に負担しあうという観点が強い

家庭の問題は家庭の問題で
プライベートだから
そんなこと知るかと言えない

しかしそんな余裕がある会社は
減ってきた

サラリーマンという勤め人は
昔からある職種ではない
昭和20年代
とりわけ30年代以降に本格化してきた

農家だったら
若かろうが、どれだけ経験を積んでいようが
その年その年の天候次第で収穫量は変わり
売上は変動して、収入は安定しない
戦前の労働者の多くは、そういう仕事観のなか生きてきた

戦後、昭和30年代の高度経済成長期から
会社は雇い人というカタチで
労働力として全国から大量に吸収した

この雇い人という昭和発のスタイルが
70年近く経過して
機能不全しつつある

未来永劫の仕組みではなかった

労働組合活動もしぼみ
組合がない会社も増えている

みんなが平等に獲得するよりも
実力がある人間に分配されるべきだ
という考え方が広がりつつある

西武・そごうはストという
社会的なイベントを引きおこして
次の資本家たちに
不容易に年功序列的な体制を解体しないでほしい
とアピールしている可能性もあるが

相手はそう見ていないかもしれない

そもそも百貨店そのもののビジネスモデルが
これまでの延長線上では通用しなくなっている

それらの衰退を飲み込んでおられたのは
昭和40年代から平成のリーマンショックくらいまでの間、そういうものを飲みこめるぐらいの売上げ・収益の増加と効率化でカバーできた

しかし、現在は市場規模が減り、市場構造が変わり、これまでのやり方では売上が減り、利益が薄くなり

現在の分配方式では
昔の形を維持できるとはとても思えない
だから未来に備えて
内部留保する

企業として
資本としての機能である
当面維持できるかもしれないが
そのまえに

働く人の感性が終わっている

いわゆる資本競争力は
今なお有効な部分はあるかもしれないけれど
労働生産力は
大企業だからといって、強いわけではない

すでにITやDXや生成AIに
人は振り回され

労働生産力というのはもう終わっている
もうひとつ大切なことがある
価値創造力が終わっている

お客さまが感じていることに
お客さまが思っていることに
お客さまが求めていることに
気がつけなくなり
感じられなくりつつある

商いとは、お客さまを飽きさせないこと
その肝心なお客さまが見えなくなっている

にもかかわらず
わたしたちは大企業だから
という気持ちの人がいる
相手からすると、白ける
それで、なんなの?

大企業に勤めている人間は優秀だという

時代はもう終わっている

いや、ずっと前から終わっていたのでは
そもそもそんなことは幻想だったのでは

現在を生きるためには
大企業にいるのかそうでないかではなく
社会が、お客さまが現在なにを求めるか
をつかみ、それに応えられるかどうか

お客さまを求める真の事柄をつかむチカラ
その事柄をカタチにできるチカラ

があなたにあるのかどうか
そのチカラを磨きつづけないと
生き抜けないのでは


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