境界への移動:未来を描く
学びとは変化である
Mistletoeと東京学芸大学との連携による公教育のアップデートを目指すExplaygroundというプロジェクトメンバーと、以前ディスカッションした際に、「学びとは変化である」というキーワードが出てきました。
「成長」でも「向上」でもなく、「変化」です。
生物学においても、「進化」は「変化」であり、能力の向上を意味するものではありません。進化の先にある生き物が必ずしも優れているわけではない、ということです。それは、単に、環境に適応していたから生存しているだけであって、優れた生き物になるために能力を向上させることが進化ではないのです。
同じように、学びもまた、必ずしも向上ではない、というところがとても面白いと思います。学びというものは、必ずしも成長を促すものだけでもなければ、必ずしも善なるものなだけではない。今とは異なる状態へと変化する。そのための営みそもの。その変化を促す支援が教育と呼ばれるのです。
外部との接触
変化とは、先の記事に書いたホメオスタシスとは相反するものです。閉ざされた生活の中で、変化のないように見える日々を送ること。その一見安定的に見える状況は、ゆっくりと崩壊していくように思えるのです。なぜなら、自分は、少しずつ経年変化しているからです。自分が変化しているということは、環境との関係性が変わることを意味します。環境が変化しなかったとしても、関係性が変化すれば、そこに居続けることはできなくなるでしょう。環境に適応できなくなるからです。そして、環境もまた、常に変化しつづけています。
変化を起こすには、自分の外側にあるものに触れることが大切だと思います。内省することで立ち現れてくる新しいものの見方であったとしても、それまでの自分にはなかったものという意味で、外側にあるものと考えられます。
本来、学び舎であるはずの学校などは、生活の中における外部との境界、つまりマージナルな環境なのだと思うのです。多くの人と出会い、多様な価値観に触れ、新しい知に触れることができるところなのだから。それが、保守的な場所に見えてしまう、保守的な運用に閉ざされてしまうというのは、とても悲しいことです。
移動は世界を拡張する
人は歩き、大陸を移動しました。小さな船を作り、海を渡りました。人という種が、世界に広まったのは、移動したからに他なりません。
より生きやすい環境を求めて、移動できること。これは、土地に束縛されない自由さを手に入れる上でも大切なことです。心も、誰に遠慮することなく、自由に広げらることが大切です。社会との関係も、居心地の悪いコミュニティにしがみつかず、どこへで渡り歩けた方が生きやすいでしょう。
そうした様々な意味での移動を、よりダイナミックにするために、様々な技術(テクニックやテクノロジー)が生み出されてきました。
馬などの動物に乗る技術からはじまり、機械化により、その運輸速度と量と距離は劇的に向上してきました。人も物もみな、より早く、より多く、より遠くへと運ばれるようになりました。しかし、人と物が同じように扱われるという状況もまた生み出されました。
一方で、思索のための散歩という移動があります。人は移動しながら、環境からの刺激に反応しながら、内面で思考することができます。移動は、それ自体が目的となる場合があり、単なる手段ではない価値を持っています。
想像力の限界
先の記事で、次のように書きました。
人は、自分の行動によって影響を及ぼせる範囲内で、世界の改変可能性を捉えています。僕たちが、未来は自分の力で変えることができる、と考えるとき、そこに想い描いている未来は、自分の認知と行動の限界の範囲内にとどまります。想像できないことは、思い描けないからです。
もし、この自分の具現化する限界という制約を取り払うことができたら、実現できるかどうかを考えることなく、思い切り未来の姿を考えることができるようになるのではないでしょうか。世界にある様々な技術を、具現化できるかどうかという制約から僕達の想像力を解放してくれるもの、ととらえてみます。
みんな大好きドラえもんのなんでも叶えてくれる未来の便利な道具は、想像力を広げる上でも便利な道具でした。本当に実現できるかどうかはさておき、それができる道具があるとして、その使い道を考える。サイエンスフィクションでしか登場できない道具を、ユーズドテクノロジーフィクションのように捉えて考える。
2000年〜2020年まで、スタートアップやディープテックが脚光を集めました。
そこには、未来の萌芽が確かにあります。僕たちは、その先を想像する時代に生きています。激動する足下の地殻変動に揺さぶられながらも、しっかりと前を向いて歩いていくために、遠くへ、さらに遠くへと目線を向けることが大切だと思うのです。
マージナル
制限とは、重力のように内側の中心にあって引きつけたり、壁のように周囲を覆って閉じ込めたりするものだと思います。
この制約から心を解放するために、境界=マージナルへと向かいましょう。触れたことのない知に触れ、感じたことのない感覚に身を委ね、味わったことのない感情を噛み締め、見たことのない風景を眺め、聞いたことのない心の声に耳を傾ける。それを実現してくれるテクニックやテクノロジーがどこにあるか探してみる。移動することとは、視点をずらすこと、視座を動かすことなのだと思うのです。それは、いつだってできることなんだと思うのです。
その先に、自分が思い描くことのできなかった明日の景色が立ち上がり、その明日の景色の中に立つ自分を想像することができるようになるのだと思うのです。
僕は、カンブリアナイト・カンブリアライジングという活動を通して、そうした遠い明日を見てみたい。多くの人とともに、そうした明日を描いてみたい、と願っています。