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「デザイン文化」をデザインするーミラノデザインウィークの変遷

「文化」と「デザイン」の2つの言葉はお互いに仲が良さそうです。しかし、「デザイン文化」にせよ「文化をデザインする」にせよ、今どきのホットな関心の的になっているわりに、「文化は扱いにくい」との理由で真正面から論じるのは案外、敬遠されています。ただ、この数か月間、「新しい常態」とか「変化し続ける常態」という表現が出回っている(つまりは文化の変容の必要性を議論している)なかで、このテーマから、そうそう逃げてばかりいられません。

7月3日、武蔵野美大ソーシャルクリエイティブ研究所の主催で「ソーシャルイノベーションと文化のデザイン」と題するオンラインイベントが開催されました。最初に同大で教えていらっしゃる山崎和彦さんが「エクスペリエンスと文化のデザイン」について話されました。その次に、ぼくがソーシャルイノベーションによって、公共財である文化をどうデザインし定着させるか、との話をしました。ちょっとした冒険です。最後にコニカミノルタの神谷泰史さんも加わり、一緒のディスカッションです。

1990年に旧ソ連から独立したバルト三国の一つリトアニアでのデザイン文化、ミラノデザインウィークのはじまりと進化、ラグジュアリー領域の新しい意味、これらの3つのテーマを「文化」を鍵に話したのですが、ここではミラノデザインウィークについて話したことをまとめておきます。   

デザイン文化とは何か?

さてデザイン文化とは?です。ソーシャルイノベーションの第一人者であるエツィオ・マンズィーニが著書"Politics of the Everyday"で書いている、「日常生活のなかで、人々が自分の進む道の選択肢を自分でつくりだし、それを自ら選択できる文化」との趣旨を使うことにします。

この十数年間、目標を事前にきちんと決めて実行プログラムを丁寧にこなす、いわばエンジニアリング的な行動パターンが通用しないケースが多くなりました。よって曖昧性のある状況のなかで前進するに、自らの手で状況に対処する方法を探るアプローチが求められます。そのアプローチがデザインの一般適用編と言えるので、前述の文化をデザイン文化と呼びます。

下記はマンズィーニ"Design, When Everybody Designs" にあるチャートにぼくがメモを書き加えた、プレゼンで使ったものですが、縦軸の下部にあるエリア(diffusion design)が「デザイン文化の特に効く部分」といえます(上部は既にデザインの専門家の領域として確立しているため。一応 笑)。

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マンズィーニは次のように言っています。「デザインの能力は誰にでもある。誰もが歌を歌えるのと同じだ。上手い下手はあるが、練習すれば誰でも合唱ができる。それと同じことがデザインについても適用できる

このようなデザイン文化が(皆があると思っている)ミラノにあるのか?あるとすればどのような変遷をもって説明できるか?です。拙著『「メイド・イン・イタリー」はなぜ強いのか?: 世界を魅了する〈意味〉の戦略的デザイン』で紹介した 「意味のイノベーション」を得意とする土壌を語ることにもなります。

まず、家具見本市であるサローネのスタートとその後の進展をみてみます。

ミラノデザインとサローネのはじまり


イタリアのデザインというと、ファッション、クルマ、インテリアなどの分野が挙げられる場合が多いです。そのなかでインテリア、つまり家具や雑貨はミラノとその周辺が発信地となっています。第二次大戦後、経済高度成長期の1950年代のブリアンツァ(ミラノから北に20キロほどいった県です)に、家具メーカーのスタートアップが続々と誕生し、起業家精神旺盛だった若き経営者たちが、挑戦することを厭わないミラノの建築家たち(その頃はデザイナーとの名称では呼ばれていなかった)に同時代性のある家具のデザインを依頼し、試作品から量産品へと繋げます(この頃、この業界でロイヤリティ形式の契約が標準になり、企業とデザイナーがお互いにリスクを取りあうシステムができあがったのです)。このゾーンにスタートアップのエコシステムがあった(か、誕生した)証であり、少なくても70年前からデザイン文化が既にあったと言えるでしょう。

1950代末には国内市場に製品が行きわたり、各社は輸出に活路を見いだそうとしますが、独自に海外の客とのチャネルを確立するのは個々の企業のサイズからいって力不足です。そこで1961年、同業者が手を組んでミラノ市内で見本市を行ったのがサローネ(家具見本市)の1回目です。出展社数328、入場者数はおよそ1万2千人でした。4年後の1965年には輸出額がおよそ2倍になります。コンテンポラリーデザインの家具を展示するスペースも見本市会場のなかで他のクラシック家具と区別され、ミラノデザインに相応しい舞台が用意されます。

1966年には輸出金額3倍となり、1967年には名称もミラノサローネ国際家具見本市と「国際」がつきます。この年から国外企業の出展も受け入れるようになるのです。この年、国内企業数1319、国外企業数63となり、初めて入場者数が6万人を超えました。その翌年には輸出金額も1回目の年と比較して5倍にも達します。

その後、毎年の開催を経て来年は60周年になります。今年は中止になりましたが、この数年、6日間の展示におよそ40万人が約180か国から来る大イベントになっています。同時に1998年よりサローネサテリテという35歳以下のデザイナーたちが自らのコンセプトを展示するスペースを見本市会場の隣に設置しています。

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サローネサテリテは、後述するフオーリサローネと呼ばれる見本市会期中に市内で多数実施されるイベントの「もう一つの選択肢」としてできました。若手デザイナーには自作を発表したいが、市内の一般の(レンタルフィーも安い人出の少ない)場では量産を引き受けてくれるメーカーとなるビジネス当事者にアピールしずらいので、発表の機会を創って欲しいとの希望がありました。サローネ主催側がそのリクエストを受けた結果、スタートしたのです。個人や大学単位で参加し、これまでのおよそ20年間に1万人以上のデザイナーがここから巣立っていきました。そのため創立者のグリッフィンは「デザイナーのマンマ」と呼ばれています。

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一方、サローネの新たな取り組みを象徴しているのが2018年に発表されたマニフェストです。昨年、今年とキーワードが追加されています。ミラノのデザイン文化を支える言葉が並んでいます。つまり、ミラノのデザイン文化は(終戦直後から数えて)70年以上を経て、人々がより自覚的にみる対象になったと考えられます。

一般に欧州の文化や政治の新しい行動指針としてマニフェストがつくられます。それが60年近くの年数を経てマニフェストが出されたのは2つの理由が推測できそうです(ビジネス活動にマニフェストは馴染まないとの理由以外に、です)。

1つはサローネの代表を務めるルーティがサローネのブランド力が足りないと考えていること。彼はファッションのヴェルサーチェを社長として大きくさせた後、家具メーカーのカルテルの経営に携わり、8年前からサローネの代表を兼任しています。ファッションの世界を生きてきた人にとって、サローネのブランドには手を加えるべき点が多いと感じたのでしょう。

2つ目は、市内でのフオーリサローネの動きがますます盛況になり、かつそのカバーする範囲もインテリア分野だけでなく、テクノロジーなどあまりに広範囲となったため、「我々はビジネス拡大のためのサローネに集中する。その他の動きは勝手にやっていることで、我々は関知しない」と言い続けるのが難しくなったのでしょう。

以上のサローネ主催者の時々の判断から想定できることがあります。サローネは一貫してビジネスの拡充との「必要」を追求してきましたが、自分たちのビジネスコミュニティのインフラ整備が、より幅広いミラノ全体のデザイン文化の深化と文化一般の向上に貢献すると確信していたと想像できます。つまるところ文化の錦の旗をあげるだけが、文化創生者のあり方ではないと考えていたのです(←この部分、これからも取材を続け、さらに裏をとっていきます)。

フオーリサローネの誕生と発展

前述しましたが、サローネの会期中、市内でフオーリサローネと呼ばれる「番外編」が行われます。1970年代にはじまったイベントですが、はじめからフオーリサローネとの名前があったわけではありません。もともと2つの動機があり、こうした「番外編」が発生します。

1つは、見本市出展メーカーが見本市会場の終了以降の時間帯、つまりはおよそ夕方6時以降でも商談の機会を増やしたいとの狙いです。それらの企業は市の中心地にショールームを構えているところもあり、夜の時間帯もオープンし商談できるようにしたのです。もう1つの動機は、建築やデザインの出版社の目論見です。メディア側のコンテンツ充実を図るに、この「番外編」を盛んにするのは理にかなっていました。即ち、両者の「必要」がフオーリサローネを盛り上げたのです。

1983年、雑誌「アビターレ」が初めてフオーリサローネとの言葉を持ちいて、この特集を組みました。1991年からは雑誌「インテルニ」がフオーリサローネのイベントをカタログ化して、無料配布をはじめます。この時、「ミラノデザインウィーク」との表現が使われ、「番外編」の正統化がじょじょに図られていきます。サローネだけが正統ではない、とアピールする意図があったと思われます(←この部分も、これから裏どりします)。

このフオーリサローネが一挙に拡大していくのが、1990年代末から今世紀はじめです。トルトーナ地区という、それまで工場や倉庫跡でやや荒廃していた中心から2-3キロ離れていた地域をフオーリサローネの(中心地のショールーム街とは別の)「もう一つの核」として利用していこうとの動きです。ここに2人の人物が関わってきます。1人はボリオーリです。

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彼女のキャリアはファッション関係のメディアからはじまり、デザインにも関わっていきます。彼女の旦那さんが「ヴォーグイタリア」などの数々のメディアを立ち上げた実力者で、1983年、トルトーナに夫婦で写真スタジオを構えたのがこのゾーンとの縁のはじまりです(東京でいえば、昔の汐留あたりの動きかなと思い出しました)。

2000年、スーパースタジオと名付ける夫婦で買い取ったトルトーナの広いスペースのオープニングで、前衛的な家具デザインで知られるカッペリーニの新作発表が行われます。ほぼ時を同じくして、「トルトーナをファッションだけでなく、プロダクトデザインにも利用して活性化を図れないか?」との打診から動き始めたのがフォイスです。この地域の情報を整備してフオーリサローネ期のビジネス利用への転換を図りました。

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彼はイベントプランナーですが、今、ミラノ工科大学デザイン学部でも教える立場にあります。彼が以下のように話します。

ミラノにはブリアンツァの家具スタートアップの例を見るように、もともとデザイン文化があったと見て良いと思う。それが時間をかけて成熟してきたとも言え、「ミラノのシステム」とも称せるボトムアップの文化だ。デザインウィークだけでなく、2015年のEXPO2015の成功も、このシステムの機能を物語っている。

このボトムアップ文化については、主催者側の自己満足の言葉ではなく、外部の人の声としても聞こえてきます。例えば、デザイナーでありデザインブロガーのベッリーニです。

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彼女はデザイン関係の人気ブロガーであり、トスカーナに住んでいます。彼女は、こう語ります。

世界でもフオーリサローネほど民主的なボトムアップのイベントは珍しい。この成功の要因は「デザイン」をテーマにしながら、「カジュアル」につまりは楽しく対話する場があり、しかもそれは「人を巻き込んでいく」力がある。

さて、話をヒストリーに戻します。「必要」と「違和感」を起点としたデザイン文化の進化を深堀します。

1990年代末からフオーリサローネのデジタル上の情報整備がはじまります。インターネットが普及しはじめた時期、どこのフオーリサローネのパーティのカクテルが美味しいとか、どこが魅力的かとか、こういうことに力を使い始めたのが、当時ミラノ工科大学でデザインを学んでいた「フオーリサローネ・オタク」のカザーティです。彼は卒論もフオーリサローネをテーマとします。彼は仲間とその後、事業化も行います。

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2007-8年から2010年にかけて生じたのは、トルトーナ地区の成功に学び、中心ではない地域にフオーリサローネの地区が分散(あるいは多極化)したことです。トルトーナと同じような工場跡地が集まる地区だけでなく、商業地区もあります。下記は、プレゼンで使った資料です。カザーティの事務所で作成した地図に、ぼくがメモを書き加えています。

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これらは決して「のれんわけ」ではなく、トルトーナ地区のプランナーとも対話を交わし、そのあとに独自の路線が取られています。個人的な「自分だったらこうする」という想いと、各地域の商店の意見などをヒアリングした結果など各種の要素が絡み、いわば「目的地変更」を行うわけです。これまで述べてきた「必要」を起点とする動きではなく、「違和感」を起点とする動きです。下図です。言うまでもなく、「必要」と「違和感」が個々に独立しているわけではなく、相互作用がありますが、どちらかといえば「違和感」はセンスメイキング(意味形成)に結びつきやすく、文化の多様性と深化を推進しやすいと言えるでしょう

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もちろん「違和感」だけでなく、ブレラ地区のデザイン拠点化を図った(先にプラットフォーム化を推進した人間として紹介した)カザーティは、ちょうどミラノ市の都市開発の計画でブレラ地区が対象になったことで2010年から動き始めます。ブレラ美術館やマスメディア本社あるいはアートギャラリーが軒を連ねる既に文化地区としてブランド力もあるゾーンを、更に充実させることになるわけです。その結果、2010年当時70軒あったデザインのショールームは、この10年間で120軒まで増えます。因みに、昨年ベースでミラノ全体でフオーリサローネのイベント箇所は500を超え、イベント数では1200-1300と見られています。

ブレラ地区が他の地区と異なるのは、10月にブレラ・デザイン・デイズとの期間を設け、展覧会、デザイントークセッション、セミナーを開催しています。それもテーマがプロダクトデザインだけでなく、サービスデザインやコミュニティデザインなど多岐に渡るアップデイトされたデザインを対象にしています。残念ながら、今年のデザインウィークは中止になりましたが、カザーティが率いるチームは6月15日から10月までデザインコンテンツを配信しています。

例えば、石巻工房の芦沢啓治さんのトークが配信されています。2011年の東日本大震災をきっかけてとして彼が仲間とスタートさせた石巻工房は、起業家精神やコミュニティデザインなど多角的に評価できると思いますが、本記事でのテーマからすると、石巻にデザイン文化を普及させ、かつその活動が世界各国の人々から注目されていると表現できます。そういえば、芦沢さんもサローネサテリテに2008年から3年連続で出展したデザイナーです。

これまでに述べてきたことをまとめると、下図になります。

石巻

我々は目的地へ到達するためのプロセス改善を行っているのか?我々は目的地そのものを変更としようとしているのか?との2つの問いを常にしていくことが、大事です。上図の左側は問題解決ゾーンであり「必要」を起点としていますが、常に右側の意味形成ゾーンを意識し、それも4象限の「文化活動」のありかに貢献することに自覚することで、文化の多様な局面を浮上させていくことができるでしょう。「必要」や「改善」は夢のないつまらない話なのではなく、それらを意味形成につなげる「楽しさ」「巻き込み」(ベッリーニ)が不可欠なのです。それらをきちんと一つ一つのプログラムを目標設定・実行するのではなく、盛り上がる対話が生じやすいような環境条件の設定とその微調整に注力する点がエッセンスです。この観点からミラノデザインウィークに参照すべき点は多いです。


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