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行動する人は葛藤を知り、葛藤を知る人は行動する人である、というお話

お疲れ様です。メタバースクリエイターズ若宮です。

今日は、行動と葛藤の相関関係について書きたいと思います。

行動すると誰かに迷惑をかけることも

先日、リスペクトする方とごはんをしている時に改めて思ったことがあります。

それは「行動する人は葛藤を知っている」ということ。

というのも、(起業家もそうですが)行動する人はときおり他人に迷惑をかけてしまうことがあります。
行動力とか実行力というのは基本的にはポジティブな要素ですし、それにより変化が生まれます。しかし、変化が起きることで助かる人がいる反面、困る人がいることも避けられません。

例えば、既得権益を持つ人たちにとっては、社会の変化はその権益を失わせてしまうことがあります。既得権益とはいかないまでも現状がよいと思っている人にとって、行動によってもたらされる変化は、時に迷惑です。

例えば、選択的夫婦別姓の議論やジェンダーの問題などでも、そうした抵抗が起こります。

次こそ部長になれるとおもって頑張ってきた男性にとって、女性管理職比率の引き上げは、自分の昇進の機会が減ると思えるかもしれません。はんこ屋さんにとってはDXが推進され、印鑑が不要になると売上が下がるかもしれません。


「あなたの起こした行動のせいで私たちの生活はめちゃくちゃですよ!」そう苦情が寄せられるかもしれません。

行動や変化というのは、全員にとって好ましい、ということは原理的にありえません。誰かは痛みを伴うのです。

では変化しないほうがいいのか?というとそうではありません。ここで大事なのはスコープの取り方です。

まず、時間的なスコープ。短期的にはマイナスに思えても、長期的に考えるとプラスになることがあります。
そして空間的なスコープ。自分にとってマイナスにみえても、その変化で社会全体にとってはプラスになるかもしれない。

中期的や長期的に、社会全体がという大きなスコープで考えれば、一時的に損失と感じた人も最終的にはプラスになる可能性があります。


行動によって傷つけたり傷つけられることもあるから、行動する人は葛藤する

いずれにせよ、行動する人が必ずしもポジティブな反響だけを得るわけではないということを理解しておくことが重要です。

むしろ、行動すると葛藤が増えると言ってもいいかもしれません。


彼らの行動には、時には否定的な意見も寄せられます。実際に、自分の行動によって困難な状況になった、という痛みの声であることもあります。そういった反応が返ってくると、自分の行動が正しかったのかどうか、疑問を感じることもあるでしょう。だからこそ行動する人は「葛藤」を必然的に抱えるのではないでしょうか。

先ほど述べたように、変化というのは「少なくとも短期的に・誰にでも」好ましいものではありません。

起業家や社会活動をする人が社会課題の解決に取り組むときであろうと、そこには必ず反対意見が生まれます。もちろん、その変化で困る人たちの気持ちをないがしろにしてしまってはいけませんが、といって全員が賛成になるのを待っていると変化が起こせないので、「今は理解してもらえなくても仕方ない」と割り切らなければならないこともあります。

よかれと思っての行動でも、それによって痛みを受ける人たちがある。そして痛みを感じる人がいることを知った上で、それでも行動を起こしていく

行動する人たちには、こうした葛藤を抱えながらも実行に移す勇気が必要なのです。


葛藤をもたない傍観者、評論家

反対に、「葛藤を感じない人」は「行動しない人たち」なのではと思います。。

なにか課題をみつけても見て見ぬふりで傍観したり、評論家のようにただ安全地帯から正論をいうだけで行動を起こさなければ、誰かに迷惑をかけることもありません。


行動してもがく人を遠くから冷笑的に批判だけしていれば、リスクも有りませんし楽です。それどころか傍観者や評論家の中には、行動する人よりも自分が優れていると錯覚したり、周りからもそう錯覚されていることが少なくなく、そういう人は「行動する人」を次から次へとやり玉に上げることで自分の優越をつくります

こういう人がもてはやされると社会からは行動する人が減ってしまうでしょう。みんながそうなれば、誰も当事者意識を持って行動せず、社会は現状維持に陥ってしまいます。

僕はとくに大人こそ、評論家や傍観者になるのではなく行動を起こしていくべきだと最近ますます思っています。なぜなら僕らは社会を形成し、それを次世代に引き継ぐ責任があるからです。しかし、大人になるにつれ知識が増えて賢しくなってついつい「評論家」になったり、積み重ねたものを失うのが怖くなり「傍観者」になりがちなので、注意しなければいけません。


インターネットコオロギの攻撃性

「批評家」は自ら行動を起こさないため人の苦しみを引き受ける経験が少なく、傷つく人の痛みへの想像力を欠いて他人を無責任に傷つける行動に繋がってしまうことがあります。

こうした感覚に麻痺について示唆的なある実験があります。それは、「インターネットコオロギ」と呼ばれる実験です。

その実験ではコオロギを3つのパターンで育てます。1つ目は複数のコオロギを一つの大きな箱で育てる方法、2つ目は一匹ずつ別々の部屋で育てる方法、そして3つ目は、コオロギがお互いを見ることができる透明な部屋で育てる方法です。

それぞれのコオロギが成長した後で、みんな一緒の集団生活にすると、どのグループが一番攻撃性が高まるか?

隔離して飼育したコオロギは、集団生活で飼育したそれよりも激しい攻撃性を見せたのです。さらに、その隔離方法によっても攻撃性は変わり、最も凶暴化するのは、透明なケースで他の仲間との接触を絶ち、触覚以外の視覚や聴覚などの情報は与えて育てたコオロギで す。それは「インターネットコオロギ」と名付けられました。

実は一番攻撃的になるのは、接触なく情報だけ与えられたコオロギだというのです。


同じ部屋で一緒に生活していると、自分の行動が他者にどんな影響を与えるのか、リアクションも直接にかえってきて実感できます。誰かを攻撃すれば、自分にも痛みが帰ってきます。

これに対し、仕切られて育ったコオロギは他者との痛みの交換の経験がありません。とくに、透明な間仕切りの場合、他のコオロギの存在は認識できます。いわば「情報」だけが得られ、間仕切り越しにちょっかいを出すことができても、自分が痛みを引き受けることはありません。

痛みを知ることのない評論家や傍観者は、インターネットコオロギになってしまうかもしれません。



今日お伝えしたかったのは、「行動する人は葛藤を知り、葛藤を知る人は行動する人である」ということです。

行動を起こすと、誰か他人に迷惑をかけるかもしれません。それに伴いネガティブな反応を受けることもあります。しかし、それによってこそお互いの痛みを実感することができます。

一方、他人に迷惑をかけることを恐れて「行動」をしないようにしていると、徐々に「痛み」がわからなくなってしまうかもしれません。「評論家」や「傍観者」になり行動しないでいると、「インターネットコオロギ」のように人の痛みがわからなくなり、かえって安全地帯から傷つける人になりかねません。

皮肉にも、ひとに迷惑をかけるのを恐れて行動しないことがかえって、人を安易に傷つける人を生み出すのです。「痛み」がわからなくなるから。

行動を起こすと賛否どちらものフィードバックが自分に返ってきます。それを経験し、都度考え、それでも行動することが大切だと思います。正論や傍観だけでは社会は前に進まないからです。

行動するのは面倒ですし、いいことだけではありません。でも行動することで誰かの痛みや葛藤を知った人は、きっとまた社会を変えるべく行動を起こしていくでしょう

だから僕は万能で完璧な人や聖人君子よりも、「葛藤を知る人」を応援したいのです。


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