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アートの3つの力 〜 『超分別ゴミ箱』プロジェクトにみる①異化、②価値の転換、③触発の場

お疲れさまです。メタバースクリエイターズ若宮です。

今日はちょっとアートの話を。


東京ビエンナーレの『超分別ゴミ箱』プロジェクト

10月の頭から、東京ビエンナーレという芸術祭がはじまりました。

東京ビエンナーレは、地域発で、まちから立ち上がる芸術祭として個人的にも注目し、応援しています。

日本でも芸術祭がだいぶ増えましたが、芸術祭って、地域振興や観光促進として開催されることも多く、そうすると有名アーティストが選ばれてコンテンツとして実は似たり寄ったりということもあるんですよね。

そんな中東京ビエンナーレは、下町の雰囲気が残る東京の東エリアで、地域をアート活動に巻き込みながら行われ、まちのにおいが感じられます。


さてその東京ビエンナーレの中に、メディアアーティストの藤幡正樹さんが仕掛ける『超分別ゴミ箱』という面白いプロジェクトがあります。

先日、「超分別ゴミ箱」のプロジェクトのオープニングレセプションに行ってきました。

アートはやはり現地で直接体験していただくのが一番なので詳しく説明することはしませんが、ざっくり説明すると、このプロジェクトはプラスチックゴミをテーマにしたアートプロジェクトで、「ゴミ」というものの存在について改めてとらえなおし人間のみが生み出すゴミを「分別する」という行為を通じて読み解いていくものです。(「超分別」という名称も「超・ぶんべつ」ではなく「超・ふんべつ」なのも興味深い)

自然という概念は、そもそもWild Nature(原始自然)からTamed Nature(人間によって飼いならされた自然)へ、そして都市のような完全なArtficial Nature(人工自然)へと広がって行ったという。現在問題になっているのは、この人工自然の中の生態系だ。そもそもWild Natureの中にはゴミという概念は無く、すべては無駄なく循環していた。そこにゴミとそうでないものの境界を作ったのは人間の側である。つまり、ゴミは人工自然の中にしか存在しないのであり、これは人間側の問題だ。

『超分別ゴミ箱2023』公式ページより(強調は引用者)


①透明化したものに気づかせる「異化」

藤幡さんは日本のメディアアート界での先駆者。「メディアアート」と聞くと、コンピューターやハイ・テクノロジーを使ったアートを想像する人が多いと思いますが、必ずしも最新のテクノロジーだけが「メディア」ではありません。

このプロジェクトは、日常的なゴミの分別を極端に推し進めると、それはある種のアーカイブになり、情報になるという考え方から始まりました。

『超分別ゴミ箱2023』公式ページより

とあるように、今回のプロジェクトでは「ゴミ」を新しいメディアとして捉えています。これは単にアート作品の素材に「つかう」だけともちがって、ゴミそのものをメディアとして読み解き、再解釈・再定義するというアプローチが面白いです。


ここに1つ目のアートの力があります。それは「透明化されたものに気づかせる」ということです。

ゴミは日常の中で毎日のように僕たちが生産し、触れない日は無い、生活に不可欠なものですが、ゴミになったその瞬間から関心を失うものでもあります。

先ほどのテキストでもあったように、よく考えればなまの自然界にはゴミというのはないわけで、ゴミとは人間的な・あまりに人間的なものです。また、ゴミがいつ、どのようにゴミになるのか、ゴミとは何かというのは考えてみるとそれがまったく自明ではないことに気づきます。

例えば、コンビニで売られていた食品は数分後にはゴミになることがあります。しかし一度「ゴミ」とされても、誰かが食べればやはり食品です。プラスチックの包装紙も徐々に分別が進んできましたが、適切に分別されればそれはゴミではなく資源になるわけです。

またそこにはつくる責任・つかう責任もあります。先日ドイツに行ってきましたが、ドイツではPfundという、消費者が飲み物を買う際にはペットボトルの代金も含めて支払い、リサイクルするときにそれを払い戻してもらう仕組みがあります。

日本では生産者は売った時点、消費者は捨てた時点でゴミのことを忘れてしまいがちですが『超分別』ゴミ箱はそのゴミについて「ゴミはどこから来たのか、ゴミは何者か、ゴミはどこへ行くのか」を考えさせてくれます。

美学用語では「異化」と呼びますが

異化(いか、 ロシア語: остранение, ostranenie[1])は、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法。知覚の「自動化」を避けるためのものである。

このように日常で透明化されていたものに気づかせ、まったく新しいものとして体験し直させてくれるのがまさにアートの力だと思っています。


②価値の転換

2点目は「価値の転換」です。

普段僕らが見過ごしているゴミは、価値がないと考えられることが多いでしょう。それどころか「あいつはゴミだ」と言われるように「悪いもの」として言われることも多い。

今回のプロジェクトでは、ゴミの中でもプラスチックがテーマになっていますが、プラスチックは最近、SDGs的文脈で悪者にされがちです。しかし、それはもともと人間の工夫や技術によって生み出された素晴らしい資源でもあります。(象牙の代用品として象の乱獲を防ぐためにつくられた、そもそもは自然保護のための素材だったという説も)。

会場にはプラスチックを聴覚や嗅覚も含めて「味わう」ことができる作品が並んでいます。またそれは現代の生活から生まれた「モニュメント」でもあります。

来場者は作品としてプラスチックを味わう中で、悪者、と思考停止してしまうのではなく、その価値や「質」を改めて問い直すことになります。資源としてリサイクルされるにしても、通常ゴミの価値は「利用可能性」によって付与されるものですが、それとはまったく違う美的・鑑賞的な次元での価値づけが起こります。

千利休が「見立て」によってモノに新しい価値を与え、「楽焼き」というそれまでの中国由来の茶器とはまったくちがう、「泥」のような朴訥としていびつな美を見出したように、既存の価値観とは異なる「価値の転換」を体験させてくれることはアートの大きな力の一つです。


③オフグリッドな触発の場

3点目に、アートが開く「触発の場」があります。

実は、この超分別ゴミ箱のプロジェクトには、多くの企業がパートナーとして参加しています。僕もいくつか企業をご紹介したりしたご縁でプロジェクトの初期からのプロセスに立ち会う機会がありました。

その中には、コンビニ大手のセブンイレブンやファミリーマートなども参加しています。通常は「競合」であるこれらの企業が展示用のゴミの分別ワークショップに参加し、一緒に対話する。

これもまた利休的なアートの作用だと感じます。千利休の茶会では、外に出れば殺しあう戦国時代の武将たちが刀を置き、そこは共に茶を楽しむ場として機能していました。

こうしたことが可能なのは、アートが「現実の利害からオフグリッドされた別次元の価値の場」を開くためだと思います。カントはかつて美的趣味判断について「uninteressiert」であることを挙げました。「無関心性」と訳されますが個人的にはどちらかというと「無利害性」という感じかなとおもっていて、現世的な利害を超えてそこからオフグリッドされた鑑賞/観賞/観照を可能にするアートの力なのだと思っています。

よく「アートには正解がない」といわれたり「アートは問い」であるといわれたりします。ゴミをテーマにするといっても、このプロジェクトの意図はゴミを減らそう!という単純なメッセージなわけではありません。そこに単純な答えはなく、ゴミの存在について深く考えるための疑問符としておかれたアートを目の前にし、僕たちは日常の価値や利害からオフグリッドされ、無重力的な価値の場に入るのです。
そしてそこに立ち会うことで、参加者のうちに価値の問い直しが起こり、アートを媒介としてそうした触発が伝播されていきます。


今回の東京ビエンナーレでの『超分別ゴミ箱』のプロジェクトは、アートの①異化、②価値の転換、③触発の場という3つの力を感じることができる面白いプロジェクトです。東京ビエンナーレの中でも馬喰町にある無料エリアにありチケットなしでもみれますのでぜひ(東京ビエンナーレには僕は来週行く予定なので、またそのレポートも書く予定です)


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