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【後日譚】「ジェンダーギャップなイベントの登壇をお断りすることにしました。」のその後

お疲れさまです。uni'que若宮でごす。

先日、こんな記事を書いたところ、

ぷちバズりいたしまして、起業家やアート思考とかよりも、いまや「ジェンダーの人」みたいになってしまいました。

これをきっかけに新聞社からテレビ番組まで取材もいただいたのですが、記事公開後の世間からの反響について興味を持たれている方が多いようです。

TwitterではRTやリプライをたくさん頂いていましたが、無駄にメンタルを消耗しないためにインターネット三密を避けることにしているので、実はリアルタイムではちゃんとご意見を拝見していませんでした。すみません。

そろそろほとぼりも冷めた頃かと思うので、当該記事に関していただいた反響や反論、その後考えたことなど、後日譚として想い出風に書きたいと思います。


想像以上に多くの反響に恐縮したよ。

もともとはごく個人的な宣言であり、界隈の友人やイベント主催者にスタンスの表明&事前の業務連絡のつもりで書いたものだったので、正直まずその反響の大きさに驚きました。

noteでは自分史上最多の1,000以上のスキがつき、数千円ものサポートを何件か頂き、直接メッセージまで…。中3のバレンタインデーに6個もらったのが最多なのに四捨五入して10個もらったと言い張っている僕からすると、これはあれかな?モテキかな。

Twitterでも1,000以上のいいね、500以上のRT、リプライでもたくさんの賛同をいただき、いかに関心、というか今の状況に関して沢山の方が色んな思いを抱えていたのか、ということを改めて実感しました。


Twitterでもっとも多かったのが賛同や応援の声でした。


こういった賛同の声はTwitterに限らずDMなどでもいただき、ありがたく思う一方で、徐々に複雑な気持ちも湧いてきました。これほどに応援いただける、というのはこれまでいかに女性が忸怩たる思いをしてきたか、ということの裏返しでもあるからです。

言ってしまうと、僕の宣言は別に画期的なことでもなんでもなく、女性の皆さんは当然にこれまでもジェンダーギャップについて違和感を感じ、発信されてきたわけです。でも「女性の自分がこういう発信をするとすぐクソリプが沢山飛んでくるので、男性から言ってくれてうれしい」というようなご意見もいただき、今更ですが、「そうか、、、女性からいうと炎上するのか…」と。。。

電車とか道端で女性にだけイキるおじさんとかいますがそれとおんなじで、同じ発言をしても相手をみて女性だと強めに当たる男性がいるのはまじで恥ずかしい気持ちになります。。。

とにかく、ツイート一つとってもこれほど非対称というか、(あえてこういう言葉遣いをすれば)「僕は強者の側にいるのだ」と改めて実感しました。


実はちょうどこの記事を書いた日、日経COMEMOでは同じくキーオピニオンリーダーの古市優子さんの記事がピックアップされていたのですが、

古市さんはイベント主催者としてずっと前から具体的に行動を起こし悩みながら何年もそれを実行してきているのです。そこへ来て「単に宣言しただけ」の僕が注目されるというのはすごい恐縮だし、また「それくらいレア」だというなのもやっぱり恥ずかしく、恐縮がすごいというか、複雑な気持ちになりました。


男性からは反論もあったね。

バズったり表にでると当然反論もあるわけで。

Twitterでは「フェミニスト」を助長する「名誉男性バカ」なんて言われたりもしましたが、私は元気です。起業家やってるとバカだと言われるのはまあ慣れているのでスルーするとして、ちょっと考えてみたいのはこちらのご意見です。

ジェンダーギャップの話をすると受け取る反論の中でおそらく最も多いものだとおもうのですが、いわゆる「能力主義的公平」というやつです。


先日、こちらのインタビューでもお答えしたのですが、

公正、公平なはずの世の中でなぜジェンダーギャップが生まれているのかというと、原因というか、3つ問題があると思っています。


1)恣意的操作問題
医大の件にみるように、人事登用や評価の際に意図的な操作が行われている

これはもう論外だし、上記のリプライをくださった海外さんはこんなことしていないと思います。ですが、一部ではこれは横行していて、その結果、現状機会の不均衡が意図的につくられているのも事実です。

2)評価軸問題
評価そのものが男性軸で作られているため、いかに能力がある女性でも評価者がその能力を見えていない

この辺からアンコンシャス・バイアスな感じになってきますが、これ、結構多いと思うんです。たとえば「足が速いひとがすごい」と思う人だけでつくった競技があるとしたら、「足が遅い人は能力が低い」となりますよね?でも、足が遅くてもドリブルが上手い人とかディフェンスが上手い人ってすげえ能力ある。(当たり前過ぎて何を言ってるんだって感じですが)

足が速い人だけを集めてもゲームに勝てないように、「多様な能力を評価できる軸がない」のではやっぱり名監督とは言えないと思います。いまはまだ、そんな風に能力の多様性を見えていない監督が「能力主義」といっちゃっている危険性があるとおもうのです。(実際、日本政府のコロナ禍の対応や大企業の配慮のない広告などをみていると「能力」の軸が少なく想像力がないために成果を狙って失敗し、全部台無しになるどころかマイナスになるようなことが頻発しています)

3)特権問題
スタート地点がそもそもちがい、しかもそれはまったく本人にとっては偶然的な理由である。「公正」とはなにか

これについては、奥田浩美さんのこちらの記事がめちゃくちゃわかりやすく名文なので、できれば記事中の動画も合わせて御覧ください。(そしてよかったらシェアしてください)

https://www.okudahiromi.com/blog/20190629/3423


いま日本ではギャップが減るどころか格差が徐々に広がりつつありますが、そういう分断を考えるにつけ、ほんと「能力」とか「努力」で「評価」するって気をつけないと危ういな、と思うのです。「能力」といいますが、ぶっちゃけすげえお金がある家庭に生まれたらいい学歴とか就職先が買えるのが日本です。スタートが大きくちがうのにゴールの早さを測っても、それってほんとは本人の能力とも努力とも関係ない。

そしてさらにもっとよくよく考えるとアイデンティティにかかわることですら実は「本人のおかげ」ではないのです。金持ちの家に生まれるように、スポーツが出来るように生まれるのも、賢く生まれるのも偶然でしかありません。僕が菅田将暉的なイケメンなのも髪の毛がふさふさなのも完璧な人格なのもほんの偶然にすぎないのです。努力が意味ないともいいませんが、出発点のアンフェアさと「たかだか偶然にすぎない」というのを忘れると危ういと思うんですね。


以前、伊藤穰一さんから「サクセスストーリーの危険性」という話を聞きました。それはこんな話です。黒人や女性、あるいは貧乏な出自から大成功すると、それがUSではいわゆる「アメリカンドリーム」的な美談として書かれることが多い。それはたしかにgreatなことなんだけれども、そういう事例がキラキラストーリーとして書かれれば書かれるほど「マイノリティも頑張れば成功できる」という幻想が根付く。そうするととても皮肉なことに「成功できないのは、マイノリティは能力が低いから」とか「努力していないからだ」という言説が生まれる。結果として、その人種の成功者が少ないのは、やはりその人種の方が能力が劣るからだ、という結論が導かれる。これは明らかに誤謬推論でバイアスなんだけど、その認知のゆがみに気づかない。これが怖い。


「いやまあそういう国もあるだろうけどニホンはそういう差別とかないし公正で公平だしょ」とおっしゃる方もいるかもですが、日本人は謎の欧米崇拝&アジア蔑視とかだっていまだになくなりません。女性への不公平性も現としてあるわけです。安宅和人さんの名著『シン・ニホン』からデータを貼っときますね。

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「でもそんな簡単じゃないの。」

また、「総論賛成」とは言っていただきつつも「ジェンダーギャップってただ比率を合わせればいいわけじゃない」という気づきもいただきました。これは本当に勉強になった。

たとえば、報酬のこと。


ダイバーシティのアリバイ作りやエクスキューズのために駆り出されて辟易している、という声もありました。

個人的にはなんとか頑張って出ていただきたいとおもいつつ、大企業時代の経験からいうとこういうことも本当にありがち。「呼ばれる」のに辟易しているということはイベントに出ても利用されているというか「外面上フィーチャーされている」だけで実は評価や敬意がともなっていない、というのが根本問題だと思うので、本質的にちゃんと評価や敬意を伴ったイベントがもっと増えたらと思う。


同じように「リスペクト問題」だと思ったのが、しおたんさんからいただいたご意見。

これは本当にショックだった。なにがショックだったってまたも自分が前科者だったことだ。登壇イベントではないけれども、企業で働いていた時、たとえば取引先との飲み会だったり、自社の「えらい人」との飲み会の時に女性に声をかけて参加してもらって、その場ではやっぱり接待要員みたいになってしまっているケースがあった。下手すると気づくと「偉い人の両隣に女性を」とか、幹事としてむしろやったりしたことがある(あああああ)。

男女半々で対等になればこんなことはなくなるだろうけど、本当に気をつけなくてはいけないと思う。


それでも、一歩ずつ進んでいこう。

それからもう一つ、本質的な問いとして考えていかなければいけないのは「ジェンダー・バイナリー(性別二元論)」の危険性だ。

女性が/男性が、と語る時、そこにはカテゴリー化の力が働く。榎本さんがおっしゃっているように、「見た目」だけで女性/男性と分けると、「男性性」「女性性」というラベリングで、LGBTQも含めその間にあるグラデーションを捨象してしまう危険性がある。

これについては本当に丁寧に考える必要があるとおもう。ただ、誤解を恐れずに言うと、僕自身はそのリスクがあってもやはり一歩進むべきだと思っています。もちろん危険性はあるのだけど、そこで元に戻ってしまってはいけないと思う。

僕は今の社会はまだモノクロ(白黒)だと感じています。そもそも世界はカラフルなわけですが、モノクロームな社会ではピンクも水色も濃いか薄いしかわからず、彩度が同じならおなじグレーになってしまうのです。強いとか大きいでなく、カラフルな社会にしたい

とはいえ、映画が白黒から手作業の色塗りを経て、赤緑の二色に進歩し、そのあとでテクニカラーが生まれたように、カラフルになるのは一足飛びにはいきません。「女性」だけをいうとそれ以外がなおざりにされる、という懸念はその通りなのですが、白黒からまず、赤色だけでも足すことが前進だとおもうのです。フルカラーや微細なグラデーションはその先にしかない。だからこそ、まずは1色、そして2色と足しながら一歩一歩進んでいくしか無いのでは、と思っています。


たくさん仲間ができたね。

と、ここまで賛否両論、いろいろいただいた話を書いてきて、なんとなく男性サイドからはみんな反発されたかの印象があるかもですが、そんなことはないのです。

むしろ、個人的に今回記事を書いて一番よかったことは、男性からの賛同も多数いただいたこと

女性のみなさん!こんなに沢山、応援してくれる男性がいるんです!


正直いうと、今回記事を書いて実態を知り、同性ながら「男女平等ってもう半世紀やってるのにまだそこまでヒドイか…」とずーんんんってなったり恥ずかしくなったりしたことも結構ありました。でも、少なくとも僕の周りには女性に対して敬意があり、能力や機会に対して誠実であろうとする「ジェントルなおじさん」も沢山いるんです。

まだまだ辟易することもあるかもしれないけれども、遅々としているけれども、男性も必ず変わっていくと誓います。だから改めてこれに懲りずに、一緒にこれからを考えていただけると幸いです。


そして男性のみなさん!とくに、この話を最後まで読んでくださったような、ジェントルな男性のみなさん!!

僕らは幸か不幸か、いまなう特権を手にしている既得権益者です。それを否定したり言い訳するより、活用しませんか。その使い方によっては社会を大きく変えられます(実際、僕の小さな宣言だけでも、イベント主催者やメディアの方からの依頼時にはジェンダーギャップを考慮した企画がくるようになりました)。僕らの子供の世代にニホンがまたリスペクトされるように、いま行動をおこしませんか。

この記事は「後日譚」となっていますが、実際はまだプロローグくらいのところにしか来ていません。本当に行動し変革していくのはこれからなのです。


次回また詳しく書こうと思いますが、僕はいろんな異質性の「正客」でありたいとおもっていて、

majorな中にいながらmarginalであろうとすることが世の中を変えるとおもっています。みなさん一人ひとりが動くと(majorだからこそ)大きく変わることもあるはずです。一緒にやりませんか。


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2020/9/15追記:こちらの投稿をきっかけに受けた取材など

■CS TBS NEWS『Dooo』9/5前編, 9/12後編放送


■朝日新聞 9/6朝刊


■Business Insider Japan 8/12


■President woman 8/5



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