EVを従来の自動車と同列に考えるべきではない三つの理由
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EVを従来の自動車と同列に考えるべきではない三つの理由

別所隆弘

(1)EVは自動車の皮を被った別の何か

今年の2月に購入したテスラのモデル3を、6月9日に受け取りました。それから3日間、起きている時間の大半をモデル3をいじって時間を過ごしたわけです。運転距離は500キロほどなのでまだまだ序の口なんですが、この時点で既に、明確なほどに見えてきたことがありました。ほとんどそれは「違和感」に近い強烈な感触です。その違和感に基づいて今日は記事を書きます。詳細な記事は下に譲って、まず僕がモデル3に乗って三日目に感じた「違和感」の正体を結論として書いておきますね。こういうことです。

EVは自動車の皮を被った別の何かである

ちょっと穏やかな書き方をしたんですが、本音を言うと「EVは自動車じゃない」くらい言いたいのです。いや、もちろん自動車ですよ。四つのタイヤがついていて、アクセルを踏めば車輪が周り、目的とする場所へ搭乗者を連れて行ってくれる乗り物であることは疑いありません。自動車保険にもちゃんと入ることができました。間違いなくEVは自動車です。でも、表面上「自動車」とカテゴライズされているその物体は、あくまでも我々の認知に合わせて自動車の形態を取っているだけで、その中身は別物、あるいは「別の思想」が蠢いていることを直感しました。そしてその「別の思想」をある程度言語化しておくことは、おそらく2022年という、少し遅まきに始まった日本のEV元年にとっては、大事なことだろうと感じたのです。

ところでその「自動車の形態を取っているだけの別の思想」とはなんなのか。本記事はそのことを書きたいわけですが、これがまたややこしいことに「ひとつだけの明確な思想」が中核にあるわけではないと言うことなんです。僕がこの三日間で感じたのは、主に3つの論点でした。以下のようなものになります。

EVとは?
 1.情報の集積端末
 2.車輪のついた電池
 3.自動運転と可処分時間

この三つは、それぞれが別のセグメントの話であるはずなのですが、モデル3を含めたEVは「自動車」という外面を与えることで、この三つの別個のアイデアを統合して考えるべきものとして提示したのです。

一方、これらはやはり、とりも直さず別の論点であるはずなのに、自動車であるという皮を被っているために、統合された問題系列と見做され、そしてそのことによっておそらく一番遅れをとっているのが、既存の内燃機関を積んだ自動車を作ってきた会社でした。日本だけではなく、海外でもVWやGMなどの超大手の自動車会社も含めた、既存の「すべての」自動車会社が手間取ることになりました。彼らが手間取ってる間に、テスラはEVのペインポイントを全て潰していき、その結果、テスラ一社の時価総額が、それ以外の全ての自動車会社の時価総額を足しても追いつけないほどに、独走を許すことになったのです。これらが起こったのが、せいぜいこの数年であることを考えると、驚嘆の念を禁じ得ません。

こうした事態はもちろん相場の加熱を反映した異常事態ではありますが、それでもテスラの中には、あるいはイーロン・マスクの頭の中には、この三つの論点のそれぞれに対する明確な事業意図があります。ある意味ではテスラは、一社の中に「世界最高のテック企業」がいくつも存在しているようなものなんです。だからこその、この異次元の時価総額を達成した訳です。でも他の自動車会社は(中国のいくつかの会社を除いて)、主たる一つの事業の顔だけでテスラに対抗しようとしている。それは最初から、無理ゲーというものです。

というわけで、本記事では上の三つの論点を、この三日間テスラに乗って感じた筆者の感触を中心にお伝えしながら、今後どうなっていくかの予測、そして日本の自動車企業への期待と不安を書いておきたいと思います。その前に、僕のスタンスを明示しておきますね。

1.全く自動車の専門家ではありませんので、ちょっとその領域のトンマナをわかってないかもしれません。その際はごめんなさい。
2.テスラの車を買いましたが、テスラやイーロン・マスクを盲信しているわけではありません。問題も多い企業だと思ってます。
3.ガソリン車も持ってます。日本車です。ガソリン車も大好きですし、EVも大好きです。いつか引退するときは、子どもの頃の憧れポルシェ911ターボを「最後の車」にしたいと思ってるんですが、多分もう叶わない夢だろうなと半ば諦めてます。

という立ち位置です。あくまでも僕の主観と私見と三日間の経験のうちから出てきたお話を書いていきます。よろしくお願いいたします。

(2)情報の集積端末としてのEV

「テスラは車輪のついたスマートフォン」という表現を目にしたことがある人は、割と多いかもしれません。テスラのデジタルガジェット的な性質を言い当てた、絶妙の表現の一つです。ですが、実際に乗ってみて感じたのは、確かに一見スマホに似てるけれど、根本的に違うなということでした。「情報集積」のあり方が、全然違うんです。

スマートフォンというのは、やることを加速度的に追加していきながら、我々の人生の効率をどんどんと上げていきます。そしてそれに付随して蓄積していくデータが「ビッグデータ」としてAppleやGoogleなどに吸い上げられている、というのが「情報端末としてのスマートフォン」の姿でしょう。

この時、「情報」の観点からスマートフォンを見たとき、あくまでも人間が端末を使って、例えば仕事であったり写真を撮ったりスケジュール管理をしたりといった、主たる別の目的を達成する「付随物」として発生したデータが、スマートフォン経由で吸い上げられます

一方、モデル3をはじめとするEVに我々が乗るとき、基本的に我々はA点からB点へと移動するという以外は、EVを使ってやることがありません。EVで写真は撮れないし、心電図のデータを取ることもできない。もちろん、そのうちできるようになるかもしれないですが、出来るようになったとしても、スマートフォンほどの圧倒的な可変性はEVにはありません。EVはあくまでも輸送機ですので、スマートフォンのように多様な行為をやるわけではないです。この時、この状態をスマホと同じく「情報」の観点から見ると、EVにとって最も大事なデータである「移動データ」は、EVに乗る我々人間がやることと、ほぼ全的に一致しています

言い方を変えると、我々人間の方こそが、EVの情報集積のための「オペレーター」のような立ち位置なんです。もちろんスマートフォンもその傾向はあります。僕らは単純に、ビッグデータの流れの「ノード」(結節点)のような存在と見做されます。それでも、スマートフォンでは、写真を撮ったらその画面を友達に直接見せることもできますし、流れてくる音楽のイヤフォンを二人で共有して、同じ音楽を二人で聴くなんてアオハルなこともできますが、それはスマホ側の知ったことでは無いわけです。こうした一連の動作の多様性の全てはビッグデータにはなり得ず、情報は抽象化されて、その一部が取り込まれるに過ぎないでしょう。

一方、EVが取り込む全テータは、我々がそのEVに乗ってやったことのほぼ全部と一致しています。つまり、情報集積端末としての「純度」は、スマートフォン以上に圧倒的で、その純度の濃さゆえに、車の本質であったはずの「移動」の意味さえ変えてしまうほどであると感じました。僕らはまるで「情報を提供するために走っている」かの如くなのです。

(3)車輪のついた電池

だからこそ、EVは「車輪のついたスマートフォン」というよりは、むしろその純度の高さゆえに「車輪のついた電池」とでもいう方がしっくりきます。そして「電池」こそが、EVの最初のボトルネックになり、その部分の勝者が今後のEVの覇権を握ることになるでしょう。現状アメリカのテスラと、中国のBYDがEVの先頭を走っている二社と考えるべきですが、この二社はともに「電池」がEVの最大課題であると最初からわかっていました。というよりもBYDはそもそも電池の会社でしたし、テスラもまた、事業計画の一番最初に最も多くの投資をしたのが、高機能電池の開発とその獲得の安定化でした。それに加えて、充電のシステムそのものへの理解も大切になってきます。

この「電池」への強烈なコミットメントこそが「内燃機関としての車」と「電気機関としてのEV」明確に切り分ける点です。内燃機関としての車を考える時、「ガソリン」を発想の根本に据える人はほとどいないでしょう。潤沢なガソリンスタンドやその供給元の安定性があるために、まず「車としての性能」とか「足回り」のような、「自動車」の文脈で発想する環境が整ってしまっている。こういう状況でEVを考えようとしても、そもそも発想が制限されているんですね。日本の自動車業界や、海外の超大手でさえ苦しんでいるのは、「電池」を最初の発想の基盤に添えているというその一番最初の部分にようやく今頃になって追いつき始めているからなんです。

電池に関して象徴的な出来事の一つが、トヨタのEVであるbZ4Xのバッテリー表示が「航続可能距離」のみの表示で、バッテリーの残量表示がないことでした。

記事から引用します。

でも、航続可能距離はルートの勾配や走り方で変動する相対的な目安でしかありません。ドライバーが確かな数値としてバッテリー残量を把握するには、SOCの%表示が必要です。
バッテリーの情報をドライバーに見せないのは、トヨタがbZ4Xを「新しいEV」ではなく「新しいトヨタ車」として作り上げた、象徴的なポイントだと感じます。(上記記事より引用)

EVsmart "気になるトヨタの電気自動車『bZ4X』/バッテリー残量の%表示なし【編集部】"

航続可能距離が見えればいいというのは、バッテリーはあくまでも車の本体の価値観にとっては「従属物」と考える発想の延長線上にあります。これはしかし、仕方のないことかもしれません。これまで誰も「ガソリンの正確な残量を知りたい」なんて考えてこなかったわけですから、その環境が当然の場所では「バッテリーの正確な状況をドライバーが知りたいだろう」などとは考えないですよね。

しかしモデル3などの業界を先行するEV勢たちは、まさにその、かつてのガソリンに当たるところの「充電電池」の部分にこそ焦点を当て、その正確な制御と高密度大容量化に苦心して、それをEV事業の最初の核心に据えたわけですから、その発想の延長線上で「正確なバッテリー残量の表示」という視点になるわけです。だからこそ、EVというのは「充電電池に車輪がくっついている」と表現するべきでしょうし、今テスラやBYDが成功しているのは、その上にこそ他の全ての要素を乗っけていっているからではないかと思うのです。

(4)自動運転と可処分時間

最後の一つは、自動運転の問題です。先日私はこんな文章を投稿しました。

事業かとしてのイーロン・マスクのキャリアを振り返って、彼が一体何を目指しているのかを考察した記事です。その中で、テスラという企業が目指すのは「可処分時間の増大である」と書きました。

完全な自動運転が達成された先には、車での移動時間が「移動」として単純に消費されてきた行為は、例えば音楽を聴いたり映画を見たりミーティングをしたり書類を書いたりといった、別の行為に代替されることになるでしょう。例えば僕の本業の一つはフォトグラファーですが、風景写真家の車での移動時間というのは、それはもうハンパないです。1日に1000キロ移動とか普通にやるような「距離ガバ勢」が集まっているクラスタなのですが、そのクラスタの「移動時間」が、完全自動運転が達成された暁には「可処分時間」へと変換します。もちろん写真家の時間だけではありません。最も車での移動に時間を割いているのは、おそらくはトラックの運転手さんたちやタクシーの運転手の皆さんでしょう。車に専従的に乗っている人々の時間が、全てただの「移動時間」から解放されて、それが別のことをすることが可能な「可処分時間」へと転換した時、世界は変わるはずです。大きく変わります。社会学者のアラン・コルバンが指摘しているように、産業革命以降の人類が目指してきたことの一つは「余暇」の増大ですが、電車やバスと違ってプライベート空間として成立する車での移動が「自動」になれば、人類はまた大きく社会的な進化を遂げるはずです。そういえば産業革命以降で余暇と一緒に重視されるようになったのが「プライベート空間」でした。22世紀に向けて、歴史はまた繰り返すのかもしれませんね。

こうした未来における革命的な時間の使い方を愚直なまでに目指しているのが、人類最強のワーカホリックであるイーロン・マスクであり、彼にとっては24時間はおそらく足りないんでしょうね。もっともっと時間がほしいはずなんです。そういう彼の精神の形がそのまま形を取ったのが、まさにモデル3をはじめとしたテスラのEVなんです。

(5)問題は三つの論点そのものではない

というわけで、僕がこの三日間モデル3を触り続けて感じたことを書きました。ただ、実はここまで書いてきたことの内容自体は、問題じゃないんです。上の三つの論点は、ただの私見です。多分偏っているし、間違った想定も含んでいますので、後からどんどんこの中身の「論点」はより精査されるべきでしょう。でもそれよりも注意すべきは、最初に書いた「違和感」の方です。もう一度書きますね、僕はモデル3に三日間のって、ほとんど確信に近い以下のような感想を持ちました。

EVは自動車の皮を被った別の何かである

そう、EVは自動車じゃないんです。あのモダンなフォルムの中には、19世紀以来の内燃機関によって移動を加速させてきた「自動車の思想」は、ほぼ入っていない。その象徴が、空っぽのフロントトランクですね。普通はそこにあるべき見慣れた「エンジン」がそこに無いという絵面は、何かこう、何度か見ても少し不安になるほどの「欠落」です。これ本当に大丈夫?って思います。

ただ、その「欠落」を埋める、たくさんの「未来に向けられた視野」がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。それをイーロン・マスクやBYDの経営者たちはわかっている。でも日本や欧州、テスラ以外のアメリカのの自動車産業が作っているEVには、それをあまり感じないんです。むしろ旧来の自動車の延長線上にEVを作っているように見えることは、上のbZ4Xについての言及で書いたことです。その様子は、同じEVとされている機械であるにも関わらず、あたかも「違う話」をしているかのような印象さえ受けます。それを示す象徴的な記事が以下のものです。

記事の最後を読んだ時、これが現実なんだろうと感じました。上記記事から引用します。

上海の土木技師、リー・フアユアンさんは昨年、保険料込みの29万元でBYDのセダン型EVを購入したが、日本車やドイツ車は真剣に検討しなかった。
 「米国のブランドだとテスラしか目を引かない。私から見れば、他のブランドは比較対象にすらならない」とフアユアンさんは語った。

世界最大のEV市場である中国において、中国勢の躍進というのは当然なのですが、これまで自動車業界を支配してきた日本、ドイツ、アメリカの車は全く眼中になく、唯一テスラのみが比較対象になるという現実。そしてこの現実が、本当のリアリティとして世界を席巻した時、日本は再びiPhoneの時にやらかした失敗を、今度はもう、取り返しのつかないレベルで喫してしまう不安を感じるんです。ガラパゴスに閉じこもって、反撃するいとまさえ与えられずに全フィールドをAppleに押さえられてしまった、14年前のドコモの姿を覚えている人も多いはずです。

今こそこの記事を読むと、いかに「見えている視野」がAppleとズレていたのかがわかります。タッチスクリーンなんてものはただの「外面」であり、スマートフォンの根源は、人のビッグデータを集約的に集めるための端末であったということが、今では明確になっています。単なる電話ではなく「一度入ればそこから逃れられない情報エコシステム」を作り出すための尖兵がiPhoneだったのです。まさに今、EVが「自動車という外面」の内面に、先進的な技術を詰め込んでいるのと瓜二つの状況です。EVで同じことが起これば、もう日本は再起できないほどに経済的なダメージを受けそうで怖いんですよね。

とはいえ、不安ばかりでもありません。例えば日本でもソニーとホンダが共同してVision-Sを作ろうとしています。これには期待をしています。ソニーはやはり、日本では一番発想が柔軟な企業の一つですし、企業として多面的な顔を持っているのも、ある意味では「社内多企業」のテスラに似ていると言えます。

また、下の記事を読むと、今からEVで戦おうとしている旧来の企業たちが、少しずつ「戦い方」を変えているなというのがわかりますね。

記事の中の方に、ボルボがLiDARセンサー大手のルミナー社や、自動運転の支援のためにNvidiaと提携していることが書かれています。流石に欧州です。彼らは「足りていない場所」を見つめて、そこを埋めるためならば、自社だけの開発に拘らない柔軟性があります。さすが欧州という感じです、伝統を重視する癖に、いざとなったら動きが効率的でラディカルです。

日本もこれから、ソニーとホンダの提携のように、これまで全然あり得なかったタッグでのEV開発が進んでいくはずです。というか、その方向を模索しないと、今からテスラや中国勢に追いつくのはおそらく無理だと思うんです。期待も込めて、日本からすごいEVが出てくることを願っております。そんなEVが出たら、僕は全力で応援しますし、自分でも買います。やっぱり買ってなんぼですよね。

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別所隆弘

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別所隆弘
フォトグラファー, 文学研究者。滋賀、京都を中心とした”Around The Lake”というテーマでの撮影がライフワーク。 Twitterはこちら https://twitter.com/TakahiroBessho