円はもう購買力平価には戻らないのか~「成熟した債権国」が持つべき視点~
PPPを見る意味は構造的に薄れている
昨年来のnoteでも再三論じてきました通り、ドル/円相場はやはり徐々に水準を切り上げてきました。2023年のドル/円相場の展望に関する筆者の基本認識については過去のnoteをご参照頂きたいと思いますが、やはりFRBの政策姿勢とこれに伴う米金利動向だけで円相場の動向をある程度読める時代は終わったように思えてなりません。この点は昨年9月のnoteをご覧ください:
もちろん、この先、FRBの利下げ転換という重大な局面を控えているため、その際にある程度は円高・ドル安に振れることは避けられないでしょう。しかし、重要なことはそこで騒ぎ過ぎないことだと思います。あくまで中長期的な円安相場の中での押し目というのが筆者の目線です。
なお、ドル/円相場の購買力平価(PPP)がいずれの物価基準に照らしても「過剰な円安」という状況にあるため、「円高への揺り戻しを心配しなくても良いのか」という照会は断続的に受けるものです。確かに図で示されるように、PPPに照らしたドル/円相場の実勢水準は歴史的に見ても異質な乖離を見せています。ここからの円高圧力を心配する声も理解はできます:
しかし、この点も過去のnoteでは何度か解説しておりますが、PPPに照らした「過剰な円安」は、それが日本から海外への輸出数量を押し上げ、貿易収支の黒字が拡大し、これに伴ってアウトライトの円買い(外貨売り)が増え円高が進むから、結果的に最初のレートについて「過剰な円安」だったと言えるのです。現状の日本ではもはやそうした経路は作用しません。
以下の図でも確認できるように、2013年以降のアベノミクスも、2022年以降の「史上最大の円安」も日本の輸出数量を顕著に増やすような効果は見られませんでした:
ひとえに、円安を受けて輸出数量を増やすような生産設備はもう日本には無いからです。円安による輸出増加を起点として実体経済が焚きつけられるという伝統的な経路はもはや昔話です。PPPを見る意味は構造的に薄れているように感じます。
貿易黒字拡大の代わりが第一次所得収支黒字拡大
周知の通り、貿易黒字が復活しない代わりに、現在の日本は莫大な第一次所得収支黒字を稼ぐようになりました:
2022年の第一次所得収支黒字は約+35兆円で、このうち約65%に相当する約+23兆円が直接投資収益です。ちなみに10年前(2012年)の第一次所得収支黒字は約+14兆円で、このうち直接投資収益は約29%に相当する約+4兆円にとどまっていました。これらは本邦の企業部門において海外への対外直接投資が劇的に増えたことの結果であり、日本が通貨安を武器にした財輸出で稼ぐ国ではなく、投資の収益で稼ぐ国になったという事実を明示しています。このように、いわゆる「成熟した債権国」としての構造変化を遂げた今、PPP対比での「過剰な円安」が修正する(円高に振れる)としても、それは輸出増加を起点とする貿易黒字由来の円買いにはなり得ないはずです。
しかも、直接投資収益をより細分化して見れば、外貨のまま再投資される部分(再投資収益)の割合が時代と共に増えている。貿易黒字と引き換えに増加してきた感のある直接投資収益ですが、そこに由来する円高圧力を期待するのもまた難しくなっていると私は考えています。
ちなみに最初の図を見れば分かるように、ドル/円相場がそれまで上限として機能していた企業物価ベースPPPを上抜けて常態化し始めたのが2012~2013年でした。これはちょうど日本の貿易収支が趨勢的に黒字を稼げなくなった時期と一致します。やはり貿易黒字と第一次所得収支黒字を両方稼ぐ「未成熟な債権国」から、貿易赤字だが第一次所得収支黒字で稼ぐ「成熟した債権国」へ移行したことが円高への揺り戻しが起きなくなったことと大いに関係があるのではないでしょうか。
そのことに目を向けず、いつまで経っても米国の利上げ回数や幅、単月の基礎的経済指標の結果を元にドル/円相場のストーリーを語ろうとするのはポイントレスであるように筆者は思います。
今後はPPPの水準が実勢相場に接近してくる可能性も
今後、実勢相場とPPPの乖離は放置されるのか。そうとも限らないでしょう。これまでは実勢相場がメルクマールであるPPPに収斂されることが常々に想定され、歴史的にも実際そうなってくることが多かったです。日本の物価が諸外国対比で殆ど動かなかったので、PPPが円高を示し続けるという地合いが続いてきました。そして長年、巨大な貿易黒字国の通貨だった円は必然的に円高に収斂していきました。
しかし、円の実質実効為替相場(REER)が半世紀ぶりの安値を漂う中、日本経済は海外からインフレを輸入するような状況が続いています。それは資源を筆頭とする財輸入が分かりやすいですが、訪日外国人観光客(インバウンド)を招き入れることに伴う一般物価(象徴的には宿泊・飲食サービス価格など)の高騰もあるでしょう。このような動きが極まっていけば日本でも諸外国に見劣りしない物価上昇が起きる可能性が無いとは言えません。その時はPPPが円高を示し続けるということも当たり前ではなくなるでしょう。
言い換えればPPPが円安に振れることで実勢相場に接近してくることもあり得るということになります。筆者はどちらかと言えば、そのような未来に向かってドル/円相場は推移し始めているのではないかと思っています。これまで100~120円というレンジでやってきたものが、120~140円などのレンジにシフトアップしているのではないか。そうしたイメージを抱きながら中長期的なドル円相場のストーリーを描いていきたいと考えております。