努力か環境か?を二択ではなくスパイラルにしていく
本年も大変お世話になりました。メタバースクリエイターズ若宮です。
パーソナリティを務めているVoicyで「#努力か環境か」というテーマがありまして、そこでお話しした「努力と環境」のことについて、文字の記事としてお送りします。
ちなみに2023年COMEMO記事ラストです。今年も60本くらい書きましたよ。では、張り切ってまいりましょう!
奈良美智さんの炎上
「努力か環境か」みたいなことでいうと、先日、現代美術家の奈良美智さんのツイートがちょっと炎上というか、議論になっていました。
おおもとのツイートがすでに消えてしまっているので、ちょっと文脈を補足すると、ある方が「アーティストや作家で成功するやつって結局代々アーティスト家系とかお金持ちのやつじゃん」というツイートをされていて、それに対して奈良さんが、
という引用RTをされたのが発端。
奈良さんとしては、自分はそこまで裕福な家庭ではなかったけれども、努力すれば地方からでも世界に出ることはできた!だから夢は叶うよ!とアートの道を目指す人たちをencourageしたかったのだと思うのですが、「いやいやきれいごといっても、私立美大いってる時点であなただいぶ有利な環境だったやん」「大学すら望むべくもない人はどうやったって無理」というように、「努力すれば夢は叶う」というのは甘すぎる、という批判がたくさん寄せられていました。
Twitter上のことなので例によってちょっと言葉が足りずにすれ違った感もあります。とくに「実態として成功機会って不公平だよね…」という元ツイートに対して「そんなことはない」とばっさり切り捨てたようにもとれるツイートが出だしだったので、「は?環境の不公平はない、って成功者の口で言ってるの?」というように反感を買ってしまったところはあるかと思います。本当は奈良さんの「そんなことはない」は、「不公平はない」という意味ではなく、「それでもアーティストになれないということはない」というところだったわけですが。
努力は大事だが、その土台として「環境」がまず大事
「努力か環境か」という問いに対しての僕の考えは、こう書くとあまりに当たり前ですが、「努力も環境も大事」ということです。
その上で、僕はどちらかというと「環境」の方が先、と考えています。もちろん努力は成功のために必要だし、努力できることはとても素晴らしいことですが、努力だってそれができる環境が土台にないとできないと思うからです。
僕自身も奈良さんと同じく青森県の出身で地方の教育格差というのはとても大きいといまだに感じますし、それほど裕福な家というわけでもなかったので、奈良さんが言わんとしたことに共感できるところもあります。
また、一度就職した後でもう一回大学に行きなおした身で、(当然ですが二回目の大学では仕送りや学費を親に頼るわけにはいかないので)塾講のバイトをして学費をどうにか稼いで苦学生をして大学院までいったので、それでも自分の力で道を切り開くこともできる、という気持ちもある程度わかります(ちなみに自分のお金で大学行くのめちゃくちゃ楽しいのでとてもおすすめです)。
ただ、それにしても「環境」のおかげ、というのはあるかなと思っています。実家も家業が一度は倒産していたりきょうだいも4人で子だくさんだったりもあって幼少期は裕福ではなかったのですが、それでもちゃんと大学に行かせてもらえましたし、(反抗期はあったもののw)家族みんなが普通よりはだいぶ仲いい家庭だったことはとても恵まれていたし、感謝しています。
自ら努力した時期はあったとは思いますが、結論、振り返ると努力できる環境があったからこそ、今の自分がある。でも世の中には機能不全の家庭や虐待があったりもするわけで、努力をするための土台がない環境では「努力」だけでそれを抜け出すのは難しいと思います。
努力か環境か、は二択なのか?
また「努力か環境か?」と二択の問いをしてしまうのは危険な部分もあると思います。この問いを出した瞬間に、「努力vs環境」で「努力があればやれる!」「いや、大事なのは環境だ!」と意見が対立してしまう感じになるのですが、本来はどちらかをあきらめることなく「どちらも」を求めるべきだと思うからです。
たとえば、どんなに才能があったりどんなに努力家だったとしても、今パレスチナのような地域で生まれてしまったら、その力がまったく発揮されずに人生を終えてしまうこともあるでしょう。それは努力が足りない、とは絶対に言えない。
教育の機会がない場合や、生きるために必死な状況では、単純に「努力だけで成功できる」とは言えません。まずは、ちゃんとスタートができる環境が必要です。
もしスタートラインに立ったとしても、そのスタートラインは決して公平ではありません。同じ努力をしても、100m先から始められる人もいれば、100m後ろからになることもあります。
もちろん、マイナススタートでも、人一倍努力して逆境を乗り越えて成功する人もいます。すると環境は関係なく、「努力」で成功できる、という風に見えてしまう。環境に関係なく成功できるんだから、努力「か」環境「か」なら「努力」だ、というわけですね。
しかし、努力だけで成功できるという考え方には注意が必要です。それが生存バイアスを強化してしまう恐れがあるからです。
サクセスストーリーが差別を強化する
僕は、「努力」信仰には生存バイアスに陥る罠があると考えているのですが、それには社会的なものと個人的なものの二つの側面があります。
まず社会的な側面。以前、伊藤穣一さんが「サクセスストーリーが差別を強化する」というお話をされていたことがありました。努力を重ねて成功した「サクセスストーリー」はいいことなのに、それが「差別を強化する」とはどういうことなのでしょう。
たとえば、米国では黒人がビジネスや政治で活躍するにはまだまだ不利な状況があります。しかし人種やジェンダーの差別や非対称な環境があったとしても、マイノリティから逆境を乗り越えて成功する人はいます。
そしてそれは美談になる。しかしこれが美談になりすぎると、「黒人でも努力すれば成功できる」んだから環境が問題じゃないよね、と非対称な環境が是認されてしまう。
「努力して成功する黒人」がいるのだから、成功していない人は「努力していない黒人」なだけ。環境の問題が本人の問題(自己責任)にすり替えられる。そしてその上で、白人と黒人を比べて成功者に黒人が少ないとしたら、それは能力や資質のちがいなのでは?と、差別が強化される。
日本人は自分たちがあんまり人種で差別をしていないと思っているので、この話をきくと、いや、成功者が出たからって環境の非対称性は正当化されないでしょ、それは詭弁でしょ、と思えるかもしれません。
しかし、ジェンダーのことでもほとんど同じようなバイアスと言説がいまだに言われています。女性でも努力すれば成功できる人がいる。じゃあそれは環境の問題ではない。男性と比べて女性の管理職や起業家が少ないのは「やる気がないか向いていない」からだ。そういう現状を改善しようと女性比率を担保しようとするととたんに「能力主義で劣る女性にわざわざ下駄をはかせるのか」とか言われたりする。同じ話です。
「サクセスストーリー」というのは、不公平な環境の中でも例外的に成功できたきわめて特殊な事例であり、だからこそ「感動的な美談」になるのです。なのにそういうレアケースが一般化され、環境の不公平は問題ではない、としたり不公平な状況を正当化する言い訳として使われてしまう。
たしかにどんな逆境からでも努力で駆け上がる人はいるでしょう。しかし公平な土台があれば、もっと多くの人が成功の機会を得られるはずです。社会的な生存バイアスは環境の問題を捨象させてしまうのです。
成功者が苦労を再生産する
もう一つ、個人的にも生存バイアスの罠があります。
努力して成功できた成功者本人が、環境を捨象し、逆境を再生産してしまうのです。
たとえばジェンダーの問題についても、環境の非対称性や逆境に負けずに成功できた女性が、「私は性別で不利を感じたことはない」という発言をすることがあります。本人の実感としてそうなのだと思うのでダメというわけではないのですが、注意すべきは「不利」によって機会を奪われ脱落していってしまった多くの「声なき存在」がないものにされることです。
その不利の中で脱落した人の声が届かず、逆境が致命傷にならずに価値抜けた人しか声をきいてもらえないとしたら、どこまでいっても環境は改善されません。
また、僕たちは自分の「成功」を振り返るとき、当たり前ですが、自ら人生で経験したことをベースにしか語れません。すると、たとえば辛い環境があったとしても、そこで苦労したから「こそ」成功できた、と過去の逆境を肯定することになりがちです。
たとえば、僕らが若い頃には体罰が当たり前でしたし、体育会系では軍隊さながらの精神論が支配していました。その中には「うさぎ跳び」や「水を飲まない」など、今ではスポーツ科学的に否定されているものもあります。しかし、かつての厳しい環境を乗り越えて成功した人は、その厳しい環境が自分を育てたと思い込んでしまい、「厳しさがないから最近の選手は気持ちが弱い」なんて言ったりする。しかしその理不尽な過酷さで故障してしまった人もたくさんいるのです。
子育てにおいても、一世代上の女性が「今の女性は楽ばっかりして…わたしたちの頃は…」というようなことを言って責めることがあります。
過去の世代が苦労して乗り越えたからといって、それを繰り返す必要はないはずです。努力した人が素晴らしいのは事実ですが環境は改善すればいいはずで、押し付けるのは違うと思います。
逆境が人を育てる部分もあります。「環境のせいにするやつは成長しない」というのも、一定真理でしょう。しかし前述のようにそれにも最低限のベースがあって、虐待されて育ったりパレスチナで爆撃におびえながら育つことを是認はできないはずです。個人は(それがたとえいかに不公平であれ)与えられた環境で最大限努力するしかありませんが、環境は再生産されるのではなく改善の努力を続けるべきだと僕は思います。
環境と努力のスパイラルへ
こうした生存バイアスは、「能力主義」「成果主義」において、分断や差別の再生産につながります。
マイケル・サンデル氏が述べているように、能力主義や成果主義によると、成功した人はその成功は自分の努力だけの結果であって「自分たちは努力をしたからよい生活に相応しい」と考え、逆に「社会的に弱者でいる人は努力をしていないからだ」と思ってしまいがちです。しかしそれは、実は親ガチャに当たったからで、たまたま良い環境に恵まれた結果かもしれません。
成功した人がその成功を自分だけの功績と考え、成功していない人は努力が足りないと考える傾向があり、そしてそういうエリートが政治家や起業家など社会を作る側に多くなると非常に危険です。成功者たちは「自分たちは困らなかった」と環境を是認したり放置したりしてしまう。社会は強者やマジョリティに合わせて設計されているので社会の問題点に気づかず、苦しんでいるマイノリティの声については当事者意識が持てず、「努力が足りない」からだと黙殺してしまう。
努力も環境も大事ですが、まず一段階目には環境が大事です。環境があってこそ、はじめて努力が可能になります。だから自分の努力だけで成功できた、と思う人は改めて努力ができた環境のありがたみを考えてみるべきだと思います。そして、成功できたなら、その環境をさらに改善するよう努めましょう。そうすれば、努力できる人がさらに増えていくからです。
僕がメタバースクリエイターズをつくったのも、クリエイターが活躍できる環境をつくるためです。クリエイターとして活躍するには才能やスキルを磨く努力は大事です。しかし環境を整えることで、努力できるクリエイターが増え、産業・文化として育っていくことが大事なはずです。
努力と環境が二択ではなく、チェーンのようにつながり上向きのスパイラルになっていく。そんな社会にできたらいいですよね。