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肥大化したラグジュアリーの終焉か ー生き残りに多文化共生主義を目指すべきでは

ラグジュアリー領域とされる市場では、最終消費商品の場合、およそ70%は欧州企業の売り上げであると言われます。マスやプレミアムの市場は米国企業の強みが発揮されていますが、その上に位置するラグジュアリーは欧州企業の独壇場というわけです。

その欧州企業のなかで、この20年少々、巨大資本にモノを言わせて積極的なビジネスを繰り広げてきたのが3大コングロマリットで、フランスのLVMHとケリング、スイスのリシュモンです。彼らは今年前半の落ち込みを、回復基調にある中国を軸とするアジア市場で挽回しようと躍起になっていますが、下記の記事によれば事態はハイピッチで好転しつつあります。というのも、ラグジュアリー顧客のおよそ35%は中国大陸や海外で買い物をする中国人です。圧倒的な購買力を誇ります。 

この記事にある米国のベイン・アンド・カンパニーはラグジュアリー領域の「影の仕掛け人」です。毎年定期的にラグジュアリー市場のレポートを発表し、ラグジュアリー領域の企業へのコンサルタントを行い、かつ各国の高級ブランドの団体のために欧州委員会の文化政策などに関与するロビー活動を行っている模様です。なにせこの領域はEU輸出金額の10%を占め、各国地場産業や都市の文化施設へのインバウンド誘致、ラグジュアリーマネジメントやクリエイティブの高等教育への留学生勧誘など、波及効果の幅がとても広いのです。

そのベイン・アンド・カンパニーによれば、2025年には中国人市場が50%にまで伸びるだろうと予測しているのです。

中国人市場が伸びること自体に、ぼくがコメントすることは何もありません。だが、欧州文化に基づきラグジュアリー領域を開拓してきた欧州企業は中国市場偏重に問題を見ないのか?との疑問は残ります。それも特定の市場に依存するリスクという点ではなく、文化的アイデンティティという観点です。

欧州ラグジュアリーの特殊性

ラグジュアリー領域のビジネス潜在力が発揮されはじめたのは、この20数年です。1990年代半ばからの動向です。欧州の上層にある階級が使う日常品が、中間層にとって「憧れあるラグジュアリー」として受け入られ、それが大量にまわるしかけを上述のコングロマリットは作ったわけです。本来、ラグジュアリーは少数のためにあるからこそ有難味があったのですが、多数のためにある大衆化で経済的恩恵を蒙ったということです。

しかも、その中間層とは欧州の中間層はもとより、米国や日本の中間層を皮切りとして市場が作られました。即ち、かつて栄光を享受した欧州の上層階級という背景を文化的優位性として使うことで、非欧州文化圏の人の購買意欲を誘ったのが成功要因の一つとしてあります。

欧州の政治経済的栄華は20世紀の前半で終わっています。だが、EUの環境政策やルールメイキングが世界の動向の鍵を握っているのを見れば分かるように、社会文化的な優位性は徐々に減退しながらも、21世紀の今も、ただひたすら「転げ落ちていく」ように影響力を喪失しているわけでもありません。その一つの現象が、当該市場の7割を欧州企業が占めている、1990年代以降のラグジュアリービジネスと解釈できます(←ぼくは、これを「肥大化したラグジュアリー」と呼んでいます)。

ただ、その欧州文化に無理がきている。いわば軋みが日常生活者の耳に届くようになっているのが現在の状況です。

欧州の多文化共生とは?

欧州委員会は多文化の共生を方針としてきました。具体的にいえば、欧州委員会の書類は各国言語で揃える、中等教育では母国語以外に外国語を2つ学ぶ(例えば、イタリアの学校ではイタリア語に加え、英語とフランス語を習得するなど)、あるいは積極的な移民・難民受け入れと、それらの人たちの社会統合のための施策とあらゆるレベルに渡って多様性があることを基調としてきたのです。

しかし、「本当に多文化共生が可能なのか?」と問い始めました。この数年における移民・難民急増と、いわば許容量を超えた欧州側の体制の破たんが目にも明らかになりつつあるからです。イスラム原理主義を標榜する人たちの度重なるテロ行為が、その点にスポットライトをあてざるをえなくなったという面もあります。

一方、中東市場もラグジュアリービジネスの重点地域になり、ムスリムの人たちが欧州の街の中でムスリムファッションで歩く風景が一般化することで、2つの現象がでてきます。1つは高級ブランドファッションメーカーも、ムスリムの人たちが楽しめるファッションを提案するようになってきたことです。もう一つは、欧州のムスリムではない(多くはキリスト教徒)の人たちも、ムスリムファッションのアイデアを自ら取り入れるという現象です。

限界とは何を指すのか?

上述のムスリムファッションの普及は一見、多文化共生の象徴のようにも見えます。それはそれで悪くないでしょう。それでは無理、あるいは限界とは何なのか?です。一言で言えば、こういうことです。

白人のキリスト教徒が多数であるのが欧州文化を支える風景であったのが、白人ではない他宗教の人たちが、ある都市においては多数である風景に、白人のキリスト教徒が感覚的に受容できる状態になっていない、ということです。彼ら・彼女たちが多文化共生を頭では支持していたとしても、感覚としてついていけない。それをどう前進に転換させるか?という術が見えないのです。

いわゆる一神教の不寛容が顔を出したとか、他の宗教の考え方との不整合が日常生活で紛争のネタになったとか、そういうことがメインにきているのではないのです。そのような要素がまったくないわけではないかもしれませんが、もっと大きな問題は社会的な統合のイメージと、それに至る方法、それにかける社会と個人の犠牲のもろもろがちっとも見えないからです。

もちろん、そのために行政のみならず、NPOや個人でも身体をはっている人たちをぼくも実際に知っています。だから、ある一定数の人たちは匙を投げていたとしても、しかるべき人たちが皆、無理だと投げ出していることはありません。

今月の16日にパリの中学の教員が殺害された哀しい事件は、その背景がまだ正確にはよくわかりませんが、大きな構図でいえば社会的統合のトラブルと想像できます。

肥大化したラグジュアリーの終焉はくるか?

冒頭に書いたように、今年にはいり米国や欧州市場が大打撃をうけている状況で、欧州高級ブランド企業は中国人市場偏重に動かざるをえず、そのプロセスにおいて、自分たちの商品の価値や意味を猛烈に考えざるをえないところに追い込まれています。

他方、自分たちの足元である欧州においては、商品の価値や意味どころか、自分たちの文化アイデンティティ自体の再考を迫られている。これは、この20数年のラグジュアリービジネスのモデルが八つ裂きにされつつあることを暗示しています。この数年間、この領域の企業が、これから顧客の主流となる若い世代の意識変化に対応すべく、企業の社会的責任や市場の文化的敬意に注視するようになってきましたが、課題の一つは以下になると思います。

欧州文化の優位性、それもかつての貴族的な匂いのする優位性ではなく、社会文化文脈での先進性が、これまでに述べた諸々の不整合をリセットして新しい道を示せるか?です。

つまりは、多文化共生主義が地域を超えた普遍的なポリシーとして支持を受ける土壌をつくりだすべく、それこそ欧州委員会(特に文化政策)と共に歩めるか?ではないかと考えています。最後にまとめましょう。

ラグジュアリービジネスの存在理由が問われています。肥大化したところにさほどの魅力はないが、肥大化したことによる政治力の発揮が社会を良い方向に動く起点になるのであれば、その力の成果を期待したいのです

写真©Ken Anzai




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