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「死の選択」と「サービスの無機質さ」 〜『PLAN 75』からSociety 5.0を再考する

お疲れさまです。uni'que若宮です。

カンヌでのカメラドール特別賞受賞でメディアでも公開前から話題になっていましたが、6/17から公開になったのでさっそく早川知絵監督『PLAN75』を観てきました。

とても良い映画でした。

ぜひ色んな方に観ていただきたいのですがネタバレになってもいけないので、日経COMEMOでは映画の評論や感想ではなく、「Society 5.0」のような政府主導の社会システムの発想について、『PLAN 75』を観て改めて考えさせられた、死と意思ということ、そしてサービスの無機質さについて書きたいと思います。


死の意思

映画は「PLAN 75」という、75歳以上の人が自ら安楽死的に命の終わりを選ぶことができる国の制度を巡って展開していきます。「PLAN 75」制度はもちろんフィクションですが、日本を始めとした超高齢化が進み、財政を圧迫している国ではもしかしたら(皮肉にも)「ソリューション」としてあり得る未来かもしれません。

2019年の『ミッドサマー』でもある年齡に達した老人が自ら命のおわりを選ぶさまが描かれていましたが、それはペイガニズム的な異教信仰のカルト・コミュニティでの出来事であり、それがある種の「ホラー映画」として成立したということ自体が、「死を選ぶ」ことを特異・異端的な行為として捉える西洋的な価値基準をネガとして浮き彫りにしています。

自ら命を断つ風習は、西洋的・近代的な人権精神からすると非倫理的であり、残酷なことだ、と感じます。しかしもう一歩踏み込んで考えてみると、果たして死を選択することは本当に残酷なことなのか、と僕はわからなくなってしまいました。

日本映画には『楢山節考』がありますが、『ミッドサマー』とはちがいここでは「棄老」という風習はホラーではなく、生活の中にあるものとして描かれています。日本にもかつてそうした習慣が存在し、そこには生命倫理的な是非を超えたある種の美学すらあったでしょう(これは冒頭のシーンで青年から語られる言葉にも通じます)。こうしたいわば「棄老の美学」を持ち合わせる日本から『PLAN 75』が生まれたことにある種の必然とともに、自らもそうした日本的な身体性をもつものとしての機微とゆれを感じながら映画を観終えました。


ところであなたは、

①命の終わりは自分の意思で選びたい
②命の終わりは意思ではなく不意に訪れてほしい

の、どちら派でしょうか?どちらがより「自然」な命のあり方だと思いますか?

一般に動物は、命の終わりを自分で選ぶことはできません。不意の事故であれ病気であれ老衰であれ、「死にたくない」と思っても死は訪れますし、逆に「死にたい」と願ったからといって自然に命は終わってはくれません。

『PLAN75』にはこんな台詞が出てきます。「PLAN75」の政府広報用PVの中で、PLAN75の「利用者」が語る言葉です。

「人は生まれてくる時を選ぶことはできない。だからこそ、死ぬ時は自分で選択したい。」

人間は有史以来「不老不死」を願い、生をなるべく引き延ばそうとしてきました。「アンチ・エイジング」や「延命治療」の技術が進み、寿命は延びました。しかし劇中の老人たちのように、長く生きることが必ずしも(本人にとって/社会にとって)本当に望ましいことか、というと実はよくわかりません。

(生死にまつわる意見を言うこと自体がとても難しく、誤解を招きかねないデリケートな問題であることに注意しつつ、自分自身の率直な気持ちを言えば)僕自身は、たとえば認知症や半身不随になったりして家族に負担をかけてまでは命を延ばしたくはないと思っています。
(こうした意見を目にするだけでも、現在認知症や不随の症状を抱える方、またそのご家族の方にとっては不快かもしれません。もしご気分を害された方がいましたらお詫びします。これは主張でも一般論でもなく、あくまで僕個人の「現時点の気持ち」を正直に書いておきたいためとご理解いただければ幸いです)


生物はそもそも生の始まりも終わりも選ぶことができませんし、永遠に生きられる動物もいません。そして(それを望む人がいることは理解できなくはありませんが)本当に永遠に生きられるとしたら、僕自身にとってはそれは苦役のようにすら思えます。

こう考えると、死のタイミングを選択できない方が「自然」なことにも思えます。こうした価値観の中では、にもかかわらず死のタイミングを選ぶ、というのは「自殺」という悲劇的で特殊なことだ、ということになります。

人は死を意思するのではなく「生きる」ことを意思する、そう信じられています。生死に関して、人がもし選択し意思するとしたら「生」を意思するのが「自然」なことだ、と。「死」は意思するものではなく、「生きる意思」を阻害するものです。

しかし今、人は自らの生を本当に意思できているでしょうか?

100年前、1920年には日本人の寿命は女性43.2歳、男性42.06歳だったそうです。それが2020年には86.99歳、80.75歳になり、2060 年には女性が90.93歳、男性が84.19歳、女性の平均寿命は 90 年を超えることが見込まれています。たった100年で実に2倍以上に伸びているのです。これは「自然」なことでしょうか?

医療の進歩によって以前は治らなかった病気が治るようになり寿命が延びた、それ自体は素晴らしいことです。しかしこうした技術によって、本来人間の力では維持できない命を機械や薬の力を使って無理に延命する、ということも可能になってきました。ここには「意思したわけではない生の延長」も生まれているのではないでしょうか?

さらにその一方で、たとえば格差や貧困によって、生を意思し続けること自体がつらくなるような現実もあります。こうした中で命を絶つ人がいたとしたら、それはその人の「意思」なのでしょうか?環境や外圧によって「意思させられた」だけなのではないでしょうか?

そう考えると、映画の中で「PLAN 75」を選択する人が、本人の「意思」で死を選択している、と簡単にいうことはできない気がします。

早川監督はさきほどの記事のインタビューでこう語っています。

超高齢化が進む日本で75歳以上の国民の死を選ぶ権利が認められ、支援制度が導入される。そんなSF的なディストピアを庶民の視線で淡々とリアルに描く。
「自己責任ばかりが強調され、社会はますます不寛容になった。SNS(交流サイト)のわかりやすい声が大きくなり、人々の潜在意識に刷り込まれている。困窮は自業自得と思ってしまう。空気がそう仕向ける。誰にあらがえばいいのかわからない」

延命技術によって生の「おわり」が、時には意思によらないほどに延期されている一方で、そうした延長の先に安寧な老後があることも保証されてはいない。自分の望む生活は送れず、社会にとってお荷物のように扱われ、「自己責任」や「空気」によって疎外されつつ、それを終わらせるには「死を意思」するしかない。この時の死の意思は、本当に意思なのか。

死を選びたくなる社会ではなく、生を選びたい社会を、というのが理想かもしれません。しかしそもそも人はどこまでも生きてはいけないのですから、「おわり」をきちんと選べることも必要かもしれません。Society 5.0など社会保障を考える時、(「長生き」を盲目的な善とするのではなく)本人や当事者の意思や希望、幸福について改めて問うてみる必要があるのでは、と感じます。

「サービス」の無機質さ

またもう一つ強烈に印象に残ったのは、「サービス」というものの持つ不気味さです。

『PLAN 75』のポイントは、安楽死を選択する権利が法改正で認められた、という容認的なものではなく、さらに一歩突っ込んで国が高齢者の安楽死を推進する、という積極的施策であることです。

「お申し込みありがとうございます」
「PLAN 75をお申し込みいただいたいた方は10万円の支度金が支給されます」
「短い間ですが、私どもがサポートしていきますので」

こうした「カスタマーサポートの言葉」を伴って、「死」が「行政サービス」として提供される。「サポートしていきます」とは死ぬことをサポートします、ということ。この場合のカスタマーサクセスはカスタマーが死ぬことです。

ここでは「死」は、職業紹介や生活保護と同じく「行政サービス」になっています。(いくつかコースがありますがどうされますか?就職でも、生活保護でも、PLAN 75でも、どうぞお選びください、みたいな)

そして「サービス」になると、人は「死」ですら淡々と扱うようになります。

早川監督はインタビューでこんな風に言っています。

「国が掟(おきて)を作ったら、非常事態でも淡々としていそう。あす世界が終わるのに、会社に行っちゃうように。恐ろしいシステムが存在するが気づかない。あるいは見て見ぬふりをする」

ここにある不気味さ。「サービス」や「システム」になった時、「ある人個人の人生や死」ですら「案件」になり、淡々と扱われる。

サービスや仕組みをつくることは大事です。しかしサービスが機能的なものになり、オペレーションとして洗練せれればされるほど、無機質になり、体温がなくなる。こうしたことが福祉や扶助の制度の中で起こっていないでしょうか。


「機械じかけの神」たる人間のこれからの生と死

ノヴァル・ユア・ハラリは『ホモデウス』で、人間は生物工学とサイボーグ工学、AIというテクノロジーによって「神たる人間」になろうとしているのだと述べました。

しかし、不死になることは果たしてよいことでしょうか?それはユートピアでしょうか?デストピアでしょうか?不死は、我々の生を冷たいものにしないでしょうか?

死を選べないことは、生を選べないということなのではないでしょうか。

『PLAN 75』を観ながら、そんなことを色々考えました。

答えは出ていません。

高齢化という社会課題を扱っているので社会派映画と言われたり、あるいはSF的な映画として紹介されたりもしていますが、『PLAN 75』は「死」という機会、老いと若さ、命とお金、オペレーションと人間、格差と分断、働くこと寄り添うこと、などなど、人間と「生きる」ということそのものについて考えさせてくれる映画です。

言葉や説明が少ない分余白があり、「死を選ぶのは是か非か」という問いかけは観る人に委ねられます。音楽も素晴らしく、台詞のないシーンで何度もはっとさせられ胸をつかまれます。観た方と語らい映画なのでぜひ劇場で多くの方にみていただきたいなと思っています。

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