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「はたらく」とは、自分との出会い直しの動的なプロセスだとおもう。 #私にとってはたらくとは

お疲れさまです。uni'que若宮です。

「#私にとってはたらくとは」という投稿企画が出ていたので、今日は「はたらく」ということについて書いてみたいと思います。


「はたらく」は「お金をかせぐ」こと?

「はたらく」や「仕事」は資本主義においては「お金」を「稼ぐ」ことに強めに結びついて捉えられてきたところがありますが、必ずしも「お金」と関係ない「はたらく」もあります。

典型的には「無償労働」と言われる「家事」や「育児」、そして「介護」などの家庭内のケアがあげられます。その対価に金銭の授受は発生しませんが、家事は「はたらく」には当たらない、という人はいないでしょう。お金を得ていなくても、ある活動によって誰かの役に立っているならそれは「はたらく」だと言えますし、「家事」「育児」「介護」は無償にみえても、アウトソースすればお金がかかることからわかるように、家族同士だからと金銭換算されていないだけで「はたらく」の価値としては同じです。

これまでの資本主義では「お金」がとても強い価値評価軸でした。「年収」が高い仕事のほうが価値として高い、というような考え方もされてきましたが、シェアリングエコノミーやベーシックインカム、コモンズ型の協働、DAOなど、必ずしも「お金」だけを基準としない「はたらく」が増え、そうした働き方の価値がより重要になってくるでしょう。


「はたらく」はプレゼントである

僕は仕事や事業をよく「プレゼント」に例えるのですが、「はたらく」ということは基本的に誰かへの価値提供であり、社会や他者に対してプレゼントをあげるようなものだと思っています。人や企業が社会に対してなにか価値を提供し、それに対し価値を受け取った人たちから「ありがとう」と返ってくるものの一種がお金です。

もちろん価値へのお返しは「お金」だけではありません。感謝の言葉やお礼にモノやなにかの作業を手伝ったり、色々な価値の「お返し」の仕方があります。

また、必ずしもお礼は同時にされるものばかりでもありません。投資だったり育成だったり、少し先の将来に返ってくるものもあります。


「はたらく」は対等な価値の交換である

そして、「プレゼント」のようなものとして考えるとわかりますが、「はたらく」ことは本来、提供側と受け取る側に上限関係があるわけではありません。

「はたらく」ことを通じた価値の提供とそれへの返礼は基本的には等価な関係での交換契約のはずです。20世紀型の資本主義ではお金を持っている側やお金を払う側が偉そうにするケースがありましたが、そうした慢心や勘違いをしている企業や人は徐々に人気がなくなり、淘汰されていくのではないかと思います。

そして提供価値の等価な交換という観点から考えるとこれから「ユニークバリュー」というのがますます重要になってくるように思います。

なぜかというと、ユニークバリューがなく他と「取替可能」な価値しか提供ができないと、どうしても相手側の立場が強くなってしまうからです。仕事でも仕入れでも恋愛でもそうですが、「まあこっちは他でもいいんだけど?」と言われてしまうと立場が対等ではなくなってしまい、過当競争で値引き合戦のようになったり、自分の意思で選択することもできなくなってしまいます。

他ではできない、自分だからこそできるユニークバリューをもつことが、価値交換の上で対等な立場を担保してくれます。


「はたらく」は創り出すことができる

「ユニークバリュー」についてはアート思考の文脈でもよくお話するのですが、アート思考の講演やワークショップをした際、最後にこんなスライドを投影します。

芸術家は他の誰でもなく自分にしかつくれない作品をつくり出します。アートのパラダイムにおいては誰かと同じ作品は「モノマネ」や「パクリ」と言われ、評価されません。作品のユニークバリューこそが重要なのです。

そして「作品」は英語で「work」といいます。

芸術家が作品workをつくり出すように、実は僕たちの仕事workも与えられたりこなすだけのものではなく、自らつくり出すことが出来るのです。

一冊目の著書『ハウ・トゥ・アート・シンキング』から引用します。

poetic の語源はギリシャ語のポイエーシス、すなわち「創る」ことです。「仕事」は本来与えられたりこなしたりするものではなく「創る」ものではないか。これまでにない、自分だけのworkを創り出すこと。アート・シンキングとは、ポエティックな仕事workのための詩学ポエティカ です。


「はたらく」は自分に出会い直すこと

芸術家はよく「作品ができあがって初めて、自分がつくりたかったものがわかる」というようなことを言います。作品は当初計画したとおり、そのままにつくられるのではなく、作品をつくるプロセスの中で、外界とのインタラクションによって変化していきます。そしてそれは作品だけではなく、作者自身にも影響し、つくる主体としても変容していきます。

ふたたび著書から引用します。

アーティストは制作のプロセスを通じて自ら変化し、作 品ができあがることによって初めて「作者」になるのです。アーティストはよく、「つくって みるまでなにができるか分からない」と言いますが、作品はつくりながら当初の構想からどん どん変わってきます。
(中略)
つくり終わってみると、当初思ってもいなかったような作品ができているのです。ここで興味深いのは材料による自由の「制限」、つまり思いどおりにならないものとの出会いによって 「思いもよらない」作品ができる、ということです。アートをつくるとき、素材の制限に触発されて、「自分」が変化していくのです。 アートの制作は、自分も知らなかった「自分」を見出す行為、あるいは「自分」をつくり出す行為だといえます。

同じように、「はたらく」ことも他者から与えられたものではなく、自分ならではのworkをつくり出す行為であることができれば、「はたらく」というプロセスを通じ、自分ならではの仕事を見出しつくり出しながら、本当の自分らしさに出会い直していくことが出来るはずです。

「はたらく」ことは、そうした動的な自分との出会い直しなのではないかとおもうのです。


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