「発注ハラスメント」と戦うために 〜ハラスメント構造の「非対称性」と「無自覚の押し付け」、「個人的防衛」の機制
お疲れさまです。uni'que若宮です。
今日は「発注ハラスメント」について書きます。
「発注ハラスメント」?
「発注ハラスメント」というのは僕の勝手な造語ですが、発注者と受注者のパワーバランスの非対称性をもとにした発注者の要求により受注者が苦しむこと、あるいは苦しみつつもそれに従うことをいいます。
今回あえて「ハラスメント」というショッキングなワードをくっつけているのですが、それはここに強者による「無自覚な搾取構造」があるからで、そのことを問題提起したいためです。
もしかすると「発注ハラスメント」という字面を読んで、
と思われたかもしれません。しかしもし、あなたが今「なんでも『ハラスメント』って言われたらやりにくくてしょうがない」と思ったとしたらそれはあなたが強者の側にいるからかもしれず、そこに「強者の無自覚」が存在している可能性があるので記事を読みつつ振り返ってみていただけたらと思います。
①「発注」に潜むパワーバランスの「非対称性」
当たり前ですが、「発注ハラスメント」といっても発注者がすべて悪いということはありません。受発注の力関係もだいぶ見直されており、むしろ多くの発注者が善良な敬意をもった発注者になっている気がします。
受発注というのは本来、自分たちに出来ない仕事をお願いし、その御礼として対価を払うもので、両者の関係は対等なはずです。
しかし、発注者の力が強くパワーバランスに非対称性があると、片方の都合が弱者側に押し付けられることがあります。(芸能やエンタメなどいまだに「仕事をあげる」という感覚が残っている業界では、それこそ「パワハラ」「セクハラ」の原因になっています)
ビジネス界では「ハラスメント」についてはだいぶ意識が高まってきたので、目に見える「ハラスメント」は減っていると思います。よいことです。しかし受発注の関係において、目に見える「ハラスメント」ではないにしても非対称な「押し付け」は結構あるように思います。
僕自身の経験でいうと、とくに行政や大企業から仕事の依頼を受ける時にそういう非対称性を感じることがあります。(実際には発注者によるので「行政や大企業」とひとくくりにしてしまうのはミスリードなのですが傾向としてはやはりあると思うので、あくまで議論の単純化のための比較として読んでいただけると幸いです。)
ここに上げていることは一部ですが、
などはむしろ発注者からすると「当たり前」の慣習としてすらまかり通っている気がします…。
文化庁の補助金でのやり取りとかは本当に出さなきゃよかった…と思うほど大変でしたし、
事務手続きにおける「紙とはんこ」↓などもそうで、思考停止かつ旧態依然の制度によって苦しむのは「弱者」の側なのですよね。(夫婦別姓なんかもそうですが、強者は思考停止していても困らない)
①②については(僕も大企業にいたのでわかるのですが)さらに言うと、強者の「保身」のために弱者がつきあわされているところがあります。どうして煩雑な手続きや資料が必要かというと、受注者のためではなくて発注者内部の説明や証拠づくりのためだったりするのです。もちろん、事前の手続きや資料提出は不正や事故を防ぐために必要なこともあり、そもそもは意味があることだったでしょう。しかし、何枚も同じ住所氏名を書いた書類を出せだとかあまりに詳細なところまで「過剰」なチェックを求めるものになっている場合、内部的な「保身」に変質していることが多いです。要は何かあった時に自分が責任を取りたくないので、「私はちゃんとやったのですが」というアリバイづくりなのですね。
そして、こうした稼働はいくらかかっても基本的に無償です。言い方を変えると、自分たちのリスクヘッジのために「タダ働き」を受注者側に押し付けているわけです。こうしたことの蔓延で日本の生産性はものすごく毀損されていると思います。
「タダ働き」でいうとより直接的な問題は、④かもしれません。これも本当に「あるある」です。
↓こちらの例は相当にひどいものでお怒りご尤もですし(僕もほぼ似たような経験を大企業にされたことがw)、
↓のように「ルール」を引き合いに出されるのはよくあることで、受注者側がそのしわ寄せを食っています。
念の為言っておくと沢渡さんも永山さんも僕も、金額の多寡のみで仕事を引き受けるわけではありません。教育のためや社会変革のために自らの想いや共感があれば金額の多寡にかかわらず、というか無償でもウェルカムです。
しかし、そうした想いがともすると「やりがい搾取」になったり問題の再生産につながってしまうので注意が必要です。永山さんも指摘されているように
のです。そもそも、日本では「発注者」=「お客様」=「神様」的な発想が多く、「サービス」や「奉仕」が「無料」や「値引き」にすり替えられやすいのですが、
とくに行政や大企業では「自分たちにとっては固定給が当たり前なので他の人の稼働が有償だという考えがそもそも薄い」ためになおのこと受注者の苦労への想像力が働きづらいのかもしれません。
そしてこうしたことがなぜ行政や大企業で起こりやすいかというと、パワーがあるからです。どんなに理不尽があろうと受注者側がそれに合わせるしかない。受注者が発注者の意向に合わせざるを得ないために、問題は透明化し、発注者側はますます無自覚になっていきます。これこそが「ハラスメント」の構造です。パワーの非対称性から搾取や押しつけが常態化し、無自覚化して悪化していった結果、「発注ハラスメント」と化すのです。
②発注者側の「無自覚の押し付け」
「発注ハラスメント」の一番怖いところは発注者が受注者の苦しみに「無自覚」になってしまうところです。(それは受注者にとってのみならず発注者にとってこそ怖いことではないでしょうか)
そしてこの「無自覚さ」がとても「ハラスメント」に似ているのです。
受ける側は嫌なのにパワーバランス的にそれを断ることも指摘もできず、歯を食いしばって耐えるしかない。そして弱者側が耐えてしまうせいで「強者」側はそれが「ハラスメント」や非対称な押し付けであることにも気づかなくなってしまう。
「え、いやなの?みんなそうしているけど?まあそれならいいよ。こっちは困らないしw」
そして受注者側が「うわあ、、、まじか、、、」とどん引いていても、発注者側からするとそれがデフォルトになってしまっているので気づかない。で、「ハラスメント」という言葉を使われると「最近はなんでもかんでも”ハラスメント”ってやりづらいよねー」みたいな感じになります。
しかし↓で書いたようにそう感じることこそが「強者の特権」であり、
「今困っていない」強者側だからこそ、指摘を「うるさい」と感じてしまうのです。
ここで注意したいのはしばしばこうした搾取や押しつけはとても悪意なく再生産されてしまう、ということ。
悪いと気づいてすらいないからこそ水掛け論になったり、指摘されると不機嫌になったりしてしまうのです。
③発注者の「個人的防衛」
発注者の方にこうした意見をお伝えすると、不機嫌になられてしまうこともあります。前に、資料の事前送付って要りますか?とお伝えをしたところ、四角四面に「申し訳ございませんでした」と返信はあったものの、その後の打ち合わせで明らかに不機嫌になられ目も合わせてくれなくなり、仕事に必要な連絡すらもらえなくなるようなことがありました…。
でもこれ、セクハラとかでもよくある構図ではないでしょうか?
セクハラに関して先日僕自身、発言について反省する機会がありました。自分では直接的な表現はなくジョークとして許容されると思い込んで発した言葉について、あとでどうも違和感を感じ、友人たちに「あれはジョークとして許容なのか、ハラスメント的な問題があるか、率直なご指摘があればほしいです」と募ったところ、厳しいご意見もいただき、お恥ずかしながら自分の過ちに気づくことができました。我がことながら改めて反省したのは「無自覚」で「悪気なく」してしまう恐ろしさです。
そしてさらに問題の深刻さを感じたのが、あるコメントしてくださった方とその後でメッセンジャーでやり取りをしていた時のこと。僕から「今回のことで不快だと思われ、ブロックやミュートされても致し方ないと思っていますがこれから反省し直していくので今後とも宜しくお願いいたします」というようなことをお送りしたら、「むしろ批判的なコメントをしてこちらがブロックされると思ってました…」という返信をいただいたのです。
まじか、、、と思ってそこでさらに問題の根深さに気づきました。そうおっしゃるということは、その方はこうした指摘をした際に相手から沢山「ブロック」されてきたのだろう、と想像できたからです。しかしそもそも、誤った行動をしている人がいたとして、その誤りを指摘をする人の方がどうして「ブロックされる覚悟」でしなければいけないのでしょうか。そうした「不機嫌」や「ブロック」が弱者の声を、そしてせっかくの自身の改善のための機会をmuteしてしまうのではないでしょうか。
そもそも、こうした指摘は個人への攻撃ではありません。僕が発注者の方に「これって本当に要りますか?」と聞いたとしてもその担当者の方を攻撃したり批判する意図はまったくありません。ですが、それを言われた方は自分への攻撃だと感じ、防衛的に不機嫌になったりブロックしてしまうのだと思います。
こうした防衛の反応をしてしまう時、本人も実は罪悪感を感じていることが多いものです。だからこそ「痛いところをつかれた」「耳が痛い」と「痛み」を感じそれに対して防衛してしまうのでしょう。しかしその個人的防衛が、せっかく指摘してくれた声をまたmuteしてしまいかねません。
ですから、「ハラスメント」についての改善への指摘は「個人攻撃」ではないのだ、と理解しておくことが重要な気がします。「無自覚のハラスメント」には個人の性質や思想以上に構造的な問題があり、だからこそ無自覚になってしまうので、指摘をし合うことが大事であり、それは「個人to個人」への攻撃や批判ではなく、構造をどう改善したらよいか、と一緒に考えるきっかけにできたらよいのではないでしょうか。
ハラスメント的構造は色々なところに潜んでおり、誰もが加害側にも被害側にもなる可能性があります。
もしあなたが行政や大企業に対し怒りを感じたことがあるとしたら、それはセクハラやパワハラに苦しむ方の怒りと同じく、弱者として踏みにじられたり苦労を押し付けられた痛みかもしれません。そう考えるとなぜセクハラやパワハラの被害者が怒りの声をあげるのか少し想像ができるのではと思います。
あるいは逆にあなたも発注者として自分の都合を無自覚に「当たり前」と押し付けていないでしょうか。そしてその指摘に対し不機嫌になったりしていないでしょうか。それはセクハラをしているおじさんの言動と同じことかもしれません。
双方が「寛容さ」をもって社会をアップデートしていくこと
僕は自分の言動にご指摘をいただいたことを経て、(自らが「ブロックされる覚悟」をもってまで)僕の誤った言動について注意をしてくださった方に本当に感謝しています。なぜなら、自分にはメリットがないのに(ブロック、ミュートするほうが簡単なのに)わざわざアドバイスをして僕が盲目になっていくのを助けてくれたからです。そしておそらくは、色々な方がわざわざコメントする時間を取ってくれたのは、(僕だけのためだけではなく)社会をアップデートしていくためだったのではという気がします。
「ハラスメント」の話をすると、「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」と問題がすり替えられ、それに対し何かを意見し指摘することが「不寛容」とかえって批判されたりします。しかし問題があってもスルーするのは本当の「寛容さ」でしょうか。
ハラスメントでもいじめでも、見ぬ振りをしたり無言でスルーするほうが楽です。しかしそれでは社会は改善されていきません。問題点があった時にそれをただスルーするのではなく、(指摘するのにも手間がかかりますし果てはブロックすらされるリスクすらあるのに)わざわざ相手がそれを正し問題を再生産しないように、改善のための指摘をする、それこそが本当の「寛容」なのではないか、ということを今回アドバイスをくださった方の姿勢から学びました。
指摘や苦言を呈すると「面倒くさいやつ」認定されてしまうリスクがありますが、僕は今回自分に対してそれを承知で指摘をくださった友人への恩返しのためにも(自分を棚にあげることなく自分も指摘を受け止める姿勢を忘れずに)、改善につながるようにちゃんと「面倒くさく」指摘をしていきたいと思っています。
もちろん、こうした指摘は受ける方にとっても「痛い」ものですから、言い方によっては素直にきけないこともあるので、伝え方も重要です。
繰り返しますが、これは個人vs個人の闘いではありません。闘い、無くしていくべきは「ハラスメント」そのものです。
こうしたことを書くと「あれって自分のことですか?」とメッセージが来たりしますが、これは個別的な批判や個人攻撃ではまったくありません。こういってはあれですが、個人に対して批判するだけのために長々記事を書くほどは僕も暇ではありません。そうではなく、そういう事象が多いからこそ一緒に構造や社会の仕組みを見直しませんか、という想いから書いています。
自分が無自覚に押し付けているハラスメントはないかをそれぞれが振り返り、それを指摘された時には個人攻撃とは思わず、構造的な改善へ向けた指摘であると捉えること。あるいは自分が指摘する側の時は、個人攻撃にならず改善の期待を込めて伝えること。そうして双方が「寛容さ」をもって改善に向けて考えることができれば、社会から「ハラスメント」は減り、もっとしなやかになっていくのではないでしょうか。