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アジアはどこに行った?ーアジアの未来

その会議は、なぜ西安で開催されたのか?そこは、古代の唐の都・長安であり、シルクロードの出発地であった。その都市の会場で、漢や唐時代の伝統服である漢服をまとった若者が茶道や書道の実演、東大寺盧舎那仏開眼供養会でも舞われた唐楽が披露された

G7広島サミットの前に、中国の西安で、中央アジア5カ国(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン)首脳を集めた「中国・中央アジアサミット」が開催された

中央アジアの国々にとって、唐時代の長安はシルクロードでつながった世界最大の都市だった。さらに長安からシルクロードを東に進み日本の平城京に渡ったその国々の文物は、今も東大寺正倉院に残されている。文物だけではない、平城京にはその国々の役人がいたともいう。つながっている

日本では、中央アジアの国々は旧ソ連圏とよばれている。歴史の一段面をとらえたらその括りは正しいが、長い時間軸で捉えたら別の括りもある。物事は多面的に捉えないと、本当の姿は観えない

1. どうして〇〇スタンというのか?

中央アジアには、“〇〇スタン”という国名が多い
“〇〇スタン”とは「族長の国」という意味である。パキスタン、アフガニスタン、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンの6ヶ国。スタンは、ペルシア語で「土地」を意味する

パキスタンはパーク(清浄)な土地、アフガニスタンはアフガン族の土地、カザフスタンはカザフ族の土地、ウズベキスタンはウズベク族の土地、トルクメニスタンはトルクメン族の土地、タジキスタンはタジク族の土地。各部族の土地がそれぞれの国名である

族長国が整備される前は、世界帝国のモンゴル帝国、中国の元朝の領地であった。モンゴル帝国の初代皇帝であったチンギスハン、第五代皇帝であり中国の元朝初代皇帝であったフビライハンの血族たちがつくった国々だった

ハン一族の王子たちが、モンゴル世界帝国のなかで、“オレはここで国をかまえる”とつくった国々が「スタン」の国々につながっていく。その「族長」のいる土地には、チンギスハンの末裔たちがいた

このように、歴史は断続的につながっている。中央アジアを旧ソ連圏とだけと捉えていたら、見誤る

2  日本の時計は止まっている

物事を捉えるには、3つの目が必要である。現在地の詳細をつかむ虫の目、過去から現在・未来の流れをつかむ魚の目、社会・市場を俯瞰して全体構造をつかむ鳥の目の3つの目はビジネスのイロハだが、今だけ自分だけ自社だけしか見ない虫の目だけの人が増えた

とりわけ、この30年、専門・分化の社会化が進み、その傾向が強まる。ここは私の専門、あそこはあなたの専門。私があなたのところに行かないかわりに、あなたは私のところにこないで、とお互いの世界への不可侵が暗黙のルールとなった。社会に、いっぱいのができた

そんな狭いサイロのような世界に入りこみ、他の世界とはかかわらない。自分の専門の世界しか関心がなく、異なる情報は受け入れないから、部分最適に陥り、全体が見えなくなった。部分と部分がつながらない

こんな会議をみた。
ある自治体がインバウンドの振興策を検討していた。その日の会議は、「台湾への観光プロモーションをどうするか?」がテーマで、台湾の有識者がその会議に呼ばれて、ヒアリングを受けられていた

その会議の委員から、”コロナ前後で、わが県への台湾の人のニーズは変わったか?“ と質問された。その質問に対する台湾人の回答がふるっていた

”あなたは、台湾のことをどれだけご存知ですか?あなたたちは、これまで台湾でプロモーションをされてこなかったのに、台湾人が、あなた方のことを知っていると思われますか?だからコロナ前後で比較しようがありません”

どこまで日本の「有識者」は、上から目線なのだろうか?どこまで昔の、ある一断面の認識で思考が留まっているのだろうか?前提条件を変えようとしない。さらにその前提条件がその時点で正しいのか正しくないのか、現在地がどうなっているのかを糾さない、総括をしない人が日本には多い

3  頑固な日本人と感情的な日本人

一方、突然、前提条件を変えることがある。前提条件を変えないと、こちらの都合が悪くなると思ったら、感情的に前提条件を変える。都合の悪いことは忘れ、都合のいいように変える

「信号を渡っていて怪我をした。信号が赤に変わるのが早いんだよ、青信号の時間が長かったら怪我しなかった」と、信号に文句をいう。しかし本当は、この人は赤信号なのに渡って怪我をしたのだ。ルールを守らず、「なんとかしろ」という。このように「前提条件」を外す人が増えてきた

note日経COMEMO(池永)「前提条件を外す日本、過去を振り返るときに神になる日本」

前提条件を頑なに変えないのも日本人なら、前提条件を感情的に外すのも日本人。なぜそうなってしまったのか?

外を見ているようで、本当は観ていない
外に学んでいるようで、本当は学んでいない
今だけ自分だけ自社だけの虫の目

日本の学びのプロセス

かつて日本の学びはこのようなプロセスを踏んでいた
そのプロセスを中間省略している。新たな・異なるモノ・コトを外から移入したとしても、その本質を読み解かず、文脈・背景がちがう土壌の日本で、そのままつかうようになり、次なる日本性をうみだせなくなっている。過去の日本性とつながらなくなっている

note日経COMEMO(池永)「失われた日本の30年の原因 ― アジアの未来(上)」

たとえば、これもそう
自分のありのままを受け入れる「マインドフルネス」につづいて、慈悲の心で接する「セルフ・コンパッシヨン」という言葉が広がっているという

あべのハルカスから日想観

しかしこれは、日本が仏教の行動様式として、長年、取り組んできたこと。四天王寺の日想観しかり、1000年以上も前から日本人は生活様式として実践していた。今も、あべのハルカスの最上階から、西の海に沈む夕日を観て想っている姿を多く見る。今も日想観は生きている。それを日本はアメリカからカタカナで逆輸入して有難がっている

また、ビジネスの現場で、社会貢献する、社会課題を解決したい、社会に役に立ちたいと起業する、就職先を選択するという人が増えている。これも、海外で流行っている言葉をそのまま、漠としたイメージで語っている

そう語る人に、社会の課題って具体的になに?社会の価値って、どういうこと?と訊ねても、明確には答えられない。言葉が軽くなった。なんでもかんでもイメージで語る。だからビジネスが細くなった

日本は、異なるモノ・コトを受け入れようとしなくなった。受け入れるのは、欧米のモノ・コトをそのまま受け入れて、日本的に翻訳しなくなった。日本の歴史・風土・文化と照らしあわして、これはどうなのかを考えず、そのままで使おうとしている。だから物事を鍛え、練り、磨き、洗練していくという日本的な学び・育てるプロセスを、面倒くさいと考えるようになった。だからファッションのように、すぐに消える。このように日本の学び育てるチカラが弱くなり、日本性を劣化させている。だから次なる日本性がうみだせなくなりだしている

「失われた日本の30年」の最大の原因は、日本の学び方が弱くなったことではないか。アジア各国の首脳の語りから、日本の学びの変容が浮かんだ

自分中心・自社主義。自分にとって、自社にとって、得か損かで判断する。自分にとって、自社にとって、不都合なモノ、嫌なコトは受け入れない。気がついたら、周りの風景は変わっていた。コロナ禍の3年が経ったら、アジアの風景が変わっていた

自らの経験しか、「引き出し」に入れなくなった人が増えた。他人の経験に関心がなくなった。「自分事」として、他人の話に耳を傾けなくなった。日々の新聞や本を読むにあたって、“自分ならばどうだろうか”と考えて、「引き出し」に入れないといけないが、それをしない人が増えた。<他人に関心がない→他人の経験に学ばない→自らの引き出しが少なくなった>

note日経COMEMO(池永)「ビジネスと教養は矛盾しないー新教養考⑥(最終回)」

アジアと日本。コロナ禍前と現在地において、最も大きい変化はなにか?

アジアと日本の関係の変化ではないか

コロナ禍前も、その関係は、その10年前と変わりだしていた。コロナ禍3年の間でも、その変化が浮き彫りになっていた。そしてコロナ禍3年後の現在地。さらに大きく変わっている。それなのに、日本は、コロナ禍前のままを生きている


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