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ビジネスと教養は矛盾しないー新教養考⑥(最終回)

博覧強記の開高健や司馬遼太郎の毎週の連載を待っている人たちがいた。この次がどうなるのかを考えながら、1週間、次の号を待った。連載後に単行本となって一気読みするのと、毎週号ごとに読むのとでは、その作品への向き合い方・入り込み方が違った。作家の息遣いや知性や教養に、毎週触れていくなか、自らが成長していくような気がした。それを100年間担いつづけた「週刊朝日」が休刊する

「週刊朝日」の発行部数の推移に驚かされた。1950年代の発行部数100万部以上が、直近は7万4000部になった。紙からウェブへの時代の流れを象徴するひとつ。名門週刊誌もついにというだけではない、あの月刊誌もあの新聞も、単行本も、大きく発行部数を減らしている

紙が減るということは、人がなにかを読む目の中心が、誌面・紙面からパソコン・スマホ画面に変わったということ。オフィスも、ペーパーレスになった。それ以上の変化があるのではないか。読み方が変わっているのではないか。読み方が変わることで、なにかが起こっているのではないか

1 教養あるひと・教養のないひと

教養がある人・教養のない人は、どこが違うのか?教養を高めるためには、どうしたらいいのか?

教養といったら、読書をしたり、絵を見に行ったり、歌舞伎や人形浄瑠璃を見に行ったりという話になるが、たんに本を読んだり、絵を見たり、芸能をたんに見たりするだけでは、教養は身につかない

見るのではなく、観る。見るとは目に入ることであり、観るとは見て感じること、考えることである。この2つの漢字は大きく違う。観賞というのはそういう意味である。つまり、教養を身につけるためには

自問して、自分で考える

本を読むにしても、読み方である。自分事として、どう読むか。美術作品を見に行くといっても、見方である。それを見て、どう感じて、どう思うかである。そこで考えたこと、感じたこと、思ったことを、どれだけ自分の引き出しにしまっているのか

仕事の知識やノウハウならば、上司や先輩から教えてもらえるが、読み方や見方は自らで身につけていかないといけない

ビジネスで、考えてみる。ビジネスで戦略を考える核は、アナロジー(類推)である。「AがBならば、CはBになる」と発想すること

物事を考えるうえでアナロジー(類推)を発揮するためには、どれだけ多くの「引き出し」を持っているかである。それも、自ら場数を踏んだ経験だけでなく、他人の経験を自分事として、咀嚼して、自らの「引き出し」に入れられるかである。ここで、注意することがある

他人の話を聴いたまま
「引き出し」に入れてはいけない

「人は過去において神になる」いう言葉があるように、人は語るときに、飾りつけたり、盛って「物語」することがある。だから他人の話は、自らの経験と照らしあわせて、 “自分事”として、咀嚼・翻訳して、「引き出し」に入れないといけない

なにかに出くわしたときに、自らの「引き出し」を開いて、「AがBだから、Cはこうする」という考えを導き出す。自らの「引き出し」をたくさんもっていると、「まずこうして→次にこうして→最後にこうする」というストーリーがさまざまな場面で臨機応変に描ける。しかしそれができない人が増えているのは

「引き出し」が少なくなったから

自らの経験しか、「引き出し」に入れなくなった人が増えた。他人の経験に関心がなくなった。「自分事」として、他人の話に耳を傾けなくなった。日々の新聞や本を読むにあたって、“自分ならばどうだろうか”と考えて、「引き出し」に入れないといけないが、それをしない人が増えた。こうして

他人に関心がない→他人の経験に学ばない→自らの引き出しが少なくなった

2 あなたのそばに、教養人がいますか?

江戸時代の幕末の大坂の船場に、緒方洪庵の適塾があった。適塾から福沢諭吉や大村益次郎や橋本佐内など日本近代化を牽引した教養人が巣立った。超一級の教養人である緒方洪庵に学びたいと思う人が全国から適塾に集まり、学び、教養人となった

教養が高い人の特徴の共通点は、その教養人のそばには別の教養人がいるということ。一人の教養人がいると、そのまわりの人も教養人になる

教養人は、強い感染性をもっている

教養人である師の近くにいると、その人も教養人になる。教養人の所作、教養にもとづく所作に触れるから、自然にそういう感性が身につき、所作を行なうようになり、教養人となる

3 教養なんて、なんぼのもんやで、教養人が減った

今の大人に教養がなくなったのは、簡単。職場には、「教養は必要ない」と思われるようになったから。労働力だけ出していたらいいといわれる職場にいたら、どうなるのは自明。教養のない人が集まっている場所にいたら、大人も子どもも教養人になれない

「教養で、ええ会社に入れるか?」

と、家で親に育てられた子どもは、そうなる可能性が高い。よっぽど外から強い影響を受ければ、教養を身につけることはできるかもしれないが、人がまわりの環境に影響を受けるのは、紀元前4世紀の「孟母三遷の教え」どおり

日本は、世界的に見ると、文明的で、教養は高いと思われてきた。その日本で、いままであり得なかったことが起こったり、ギスギスすることが多くなった。教養人がいなくなったことが、その要因のひとつではないか

あなたのまわりに、教養人がいたら、その人の刺激を受けて、教養を身につけようとする。すると、あなたのまわりの人は、あなたに刺激を受けて、教養を身につけようとする。

教養は伝染して、社会全体の教養を高めていく

しかし企業では、教養のなさを感じる。財界の人たちと話をしていても、教養を感じる人は少ない。こんな話をよく聞く。ある人が社長になった。就任後、外の人から、「君には嗜みがないね。少しは教養をつけないといけないね」と指摘され、芸術的なもの美術的なもの文学的なもののなにか、「教養をしないといけない」と、美術館に行ったり、歌舞伎を見に行ったりする。教養をまるでファッションのようにまとおうとする。そして経営にアートが必要だと言ったりする。それはそれでは悪いことではないが、大抵は教養人とは程遠い。なぜか。本音のところ、会社のなかで、ビジネスをするうえで

教養では勝ち残っていけない

と思っている。教養では評価されないとは思っている。だから日本は、生きていくために教養は不要だと思う社会になってしまった

武家社会では、武士は教養人だった。世襲制だから成り立ったというところもあるが、江戸時代の武士は一級の教養を身につけていた。日本の公家も、そう。仕事として、本を読み、和歌を詠み、教養を身につけた

武士や公家だけではない。江戸時代の大坂の船場の町人たちも、そうだった。商人であるが、商売相手である教養人である武家・公家と商売するためには、自らも教養人でなければならないと、教養人である師匠の私塾に通い、教養をつけた。仕事を終えてから、いろいろな私塾に通った。商いに直結する知識の習得が目的ではなく、魅力的な教養人たちのそばで、師匠の所作に触れた。そして財を成し、隠居して、好きな学びをさらに深めた。そのなかから、多くの町人学者、町人作家、町人芸術家が生まれた。今はむかしか?

4 ビジネスと教養は矛盾しない

そう、今はむかしだ、教養が大事だなんて悠長なことを言っていたら、現代の競争社会では、ライバルに勝てない。競争を生き抜くために、時間をかけて教養を身につけるよりは、即効性のある手法を覚えた方が有利。パフォーマンスとかコミュニケーションとかファッションとかを身につけた方が、競争を生き残っていける。なにをやったら得か、それに長けた人が出世するという「ロールモデル」を身のまわりで、見聞きするようになった。手間をかけずに簡単にできる、苦労せずにうまくいくと聞くと、易きに流れる

与えられたことをこなす、答えが分かりきっていることならば知識や技術で答えを出すことはできる。しかし今までにない新たなこと、心に響くことを創ろうとすると、これまでの答えや知識や技術だけでは難しい。そこで、教養的なもの、その人の引き出し、知的基盤が活きてくる

新たなもの、人々を魅了するモノを創造している人がいる。漫画家や料理人がいる。しかし日本では、漫画家を尊敬するという社会風土はない。むしろ侮る。料理人を尊敬する社会風土は、あまりない。漫画家や料理人を教養人だというと、笑う。あの人に会って、話を聴いて、自分を成長させようと思わない社会になった

そもそも身のまわりの9割以上はサラリーマンとなった。戦後、サラリーマン、勤め人が急激に増えたが、戦前は大半の人が生業で、何屋さん、何々屋さんで、名もある人のなかにも、名もない人のなかにも、まわりから尊敬されている人がいた。教養人がいっぱいいた。それが、いなくなった

日本で、教養のなさが加速したのは
社会がサラリーマン化したためである

サラリーマンはきわめて 競争的な環境である。社内競争に勝ち残った上司の無理難題の命令に応え、平日は銀座・北新地で接待にいき、土日はゴルフにいく、お客さま接待が生き残る術だった。だから教養なんかいらないと考えるようになった

ビジネススタイルの変化と教養の低下は比例

しかしコロナ禍で、リモートワークで、接待が減った、リアルの人間関係が通用しなくなった、社内営業がきかなくなった

コロナ禍を契機に、大きな変革期に入っている。仕事そのものが、仕事の進め方が、大きく変わろうとしている。今までの延長線上ではうまく行かない。いままでにない独創性が求められる。そして、こう考える人が出てきた

教養を身につけないといけない

教養は決して高尚なものではない。その人の見方、読み方、感じ方である。それを心にピン留めして、自らの「引き出し」にいれる。教養は、決してテクニックではない。誰かが教えてくれるものではない。

自らで身につけないといけないが、決して難しいものではない。あなたが好きなことから始めたらいい。心にピン留めした事柄が、あなたの人生を豊かにして、ビジネスでよく佳き社会、生活のアイデアを生みだしていく。競争社会を生きながら、自分の人生を豊かにしていくために教養を高めることは決して矛盾はしない


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