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心を充電してくれるのは「変化」かも? 〜消耗仕事を発電仕事にする「偏愛化」と「異化」

お疲れさまです、メタバースクリエイターズ若宮です。

ゴールデンウィーク楽しまれましたか?

僕自身はあんまり土日やお休みって関係なく仕事しているので、ゴールデンウィークもけっこう仕事していました。土日も平日もちょこちょこ働いたり休んだりと自分のリズムでやっている感じで、趣味と仕事の境界がよくわからなくなっているのですが…

みなさんがリラックスした休日を過ごせたり、よいリフレッシュが出来ていたらなによりです。


さて今日は、そんなゴールデンウィークに思った、「心の充電」というテーマで書いてみたいと思います。


「心の充電」

体と心は連動はしています。完全に体力がゼロになると心もつらい状態になってしまい頑張ることができなくなるので、体を適度に休めることは絶対的に重要です。

でも独立している部分もあります。体がすごく疲れていても心は元気だったり、逆に体力が余っていても心が疲れて何もやる気にならない、という時もありますよね。


心が疲弊せず、充実した状態について考えてみると、実は心の充電には「変化」が重要なのかも、という気がします。

「充電」というと「動かずに休む」イメージが強かったり、たとえばルンバがベースステーションに戻るように、「どこか固定的な場所にいる」というイメージも強いかもしれません。しかし、実は「心の充電」ってもしかしてもっと動的な変化によるのではないでしょうか?


「アットホームAt home」と言われるように、「ホーム」となる固定的な場所がある方が安心できたりリラックス出来る気もします。しかし「ホーム」だからといっていつも心が充電できるわけではないのではありません。

例えば(コロナ禍でもそうでしたが)常にずっと家にいると、ストレスが溜まってきたり、息苦しくなり心が消耗していく感じがすることってありますよね。そんな時は、近くのホテルであってもいつもとちがう場所に泊まってみると心が充電される気がします。

逆に、少し長い期間旅行をしていたりすると、もちろん旅は楽しいわけですが、ちょっとずつ疲労が溜まってきて、家に帰ると「やっぱり我が家が一番だよね」となるのは本当にあるあるだと思います。


このことが示すのは「心の充電」に重要なのは実は固定的な場所ではない、ということではないでしょうか?同じ場所にあっても充電できるときもあれば消耗してしまう時もある。

それよりもむしろ、(家→外 or 外→家という)「状態の変化」の方が重要なのでと思います。


マニュアル仕事も楽しめる?

去年知り合った面白い大人に、「だるまちゃん」(ニックネーム)という、ちょっと変わったおじさんがいます。彼はいろんな掘り出し物を見つけてきて売っている、骨董商というかそういう仕事をしていて、自宅もたくさんの面白いものに溢れるカオスでした。

歳の頃は多分50代だと思うのですが、家に遊びに行った時、面白いことを言っていました。

なんか最近さ、マニュアルがある仕事っていうのやってみたくて、こないだ面接受けて来たんだよね

聞けば、マニュアルとかある仕事って全然したことがないので最近興味がでて、介護だったかファミレスだったか、とにかくマニュアルがしっかりある仕事を選んで、そこでバイトしてみたんだと言います。そしてこう言っていました。

知ってる?いやマニュアルってめっちゃ面白いよ、あれ。全部決まってるんだもん


普通、人はマニュアルで決まった仕事をしていると、自由度がなくて窮屈だと思うことが多いでしょう。僕もそう思います。マニュアル仕事は苦手ですし、どちらかというと嫌いです。心が消耗します。

でも、だるまちゃんにとっては違うんですよね。マニュアルが全然ない仕事の世界でずっと生きてきたので、「マニュアルってめっちゃ面白い」と楽しんできたわけです。もちろんじゃあずっとマニュアル仕事をやっていくか、と言われたらそれは無理かもしれませんが、でもとにかく一時的にせよマニュアルって楽しむこともできるんですね。

先程の「ホーム」の話とも通じていると思うのですが、仕事もまた、それ自体が楽しいとかそれ自体がつまらないというような絶対的なものではなく、「変化」によって価値がかわる相対的なものだと思います。


消耗する仕事、発電する仕事

そして仕事の中には、それをしているときに心の電池残量が目減りしていく消費・消耗的な仕事だけでなく、むしろ「発電されるような仕事」もある気がします。

例えば僕にとっては、マニュアル仕事や毎日同じことを繰り返すルーティンワークは非常に消耗的な仕事です。事務処理や整理整頓が苦手なので、こういう仕事をしている間は心の電池残量がぐんぐん減っていきます。

一方で、新規事業や新しいことを学んだり試したりする時には電池残量が減るどころか増えてくる感じがします。もちろん、理解されないことやうまくいかないことだらけですし、失敗して叱られることだってあるけれど心は満タン!みたいな感じなんですよね。

心の充電、というかむしろもう「発電している」感覚すらあります。自転車のタイヤの回転で発電するライトとか、e-powerの車のように、動いているその動力で電気が起こり、充電されるような感じです。

消耗する仕事と発電する仕事。僕にとっては「やらなきゃいけない仕事」と感じるものは消耗する仕事で、「どうなるかわかんなくてワクワクする仕事」は発電仕事です。どれが消耗仕事でどれが発電仕事かというのは人によってちがうと思いますが、楽しい仕事が増えると仕事自体が趣味や遊びに近くなっていき、休みの日は仕事をしたくない、という感覚は減り、むしろ仕事したい、という感じになってきます。


消耗する仕事はboringな仕事です。退屈でうんざりするので、それをしていると心の電池残量が減っていきます。で、仕事を離れてリフレッシュした時に電池が少し回復する。発電する仕事はそれに対し、excitingな仕事です。わくわくドキドキして、もしかしたら失敗するかもしれないけれど、それがそもそも楽しい。

アート思考的「偏愛化」と「異化」

しかしexcitingな仕事も、ずっとexcitingなわけではありません。仕事に慣れ、スキルがあがってくるとやがてそれはboringになってしまうのです。

これって恋愛とかでもそうですよね。その人のことを考えるだけでドキドキして、一緒にいればどんなことでもキラキラと輝いてみえる、そんな恋人でも二十年くらい経って毎日家で顔を合わせるようになると、うんざりしてくる。たまにはどっか行ってくんないかなあこの人、とか思うようになる。

冒頭で「ホーム」の例を出しましたが、これもまた「変化」の問題です。どんなに素敵なマイホームでも、いつでも充電できる場所というわけではないのです。


こういうboringな状態になった時、アート思考的には2つポイントがあります。


ひとつは「偏愛化」。これはboringな比率を減らし、excitingの比率をあげることです。昨日と同じではなく少しそこに自分らしい何かを付け加える、それも小さくても偏愛できるような時間を増やしていく。よく「仕事を偏愛化する」という言い方をしますが、どんな仕事であってもほんの自分の偏愛をプラスすることはできます。資料のデザインでもオンライン会議のアバターでもslackのチャットの言い回しでもよいのです。少しずつ、仕事の偏愛率を増やして仕事の温度を上げていく


そしてもう一つは「異化」です。

さきほども述べたように、物事は「それ自体がboring」というような絶対的なものではありません。それは見方次第です。

千利休の「見立て」や俳句のように、ありふれた日常をboringなありふれたものとして見るだけではなく、ちょっと違う見方をしてみる。それが「異化」です。(ワーケーションにもこういう効果があると思います)


芸術家はこうした異化のプロなわけですね。

偉大な芸術家は物事をあるがままには決して見ない。もしそうしたのなら、芸術家ではなくなっているのだ。 (オスカー・ワイルド)

アートとの出会いはしばしば、世界の見え方を一変させてしまうことがあります。僕がアートに触れることをおすすめしているのは、こうした異化のスキルを磨くことで、ありふれた消耗仕事や毎日を発電仕事に変えていくことができると思うからです。


消耗した心を生き返らせるためには、停止する休息だけでなく変化が必要です。それはちょっとした小さな変化や、あるいはほんの少し見方を変えるだけでも十分かもしれません。

もし今、仕事や日常で「心の充電」が減っていると思ったら「変化」とそのための「偏愛化」「異化」を意識してみることをおすすめします。

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