「日本?なかなか不思議な国で行ってみる価値あるよ!」
ここ最近、ぼくの周囲の欧州人の間で、日本についての語り方に微妙な変化がみられます。母数が少ないうえに、偶然なのかもしれないですが、少々気になります。
例えば、「あんなに速い新幹線が数分に1本の割合で走っているのに、チケットはオンラインだけでは買えず、手に入れるプロセスはノロい。すごい不思議!」と嬉しそうに言うのです。かつてであれば、「どうにかならないのか?」と怒りをこめて言ったのが、「日本は手でやることが多いんだよね」「この不思議さが、たまらない」とやや感傷的に話します。「そういう不思議を私は経験したのだ!」とでも言うかのように。
BBCの以下のオリジナル記事を紹介すると、「50歳前後の自分たちの世代にとっては、アニメや家電製品などで日本は憧れの未来の国だった。しかし、自分の子どもたちにとっては、そういう存在ではなくなりつつあるのかな」と話します。
この3年間の不都合な状況を終え、自由に日本に行けるようになってきた。日本が旅行先の話題として復活しはじめた。その時、デジタル化の遅れ、生産性の低さ、これらが欧州人の「感傷の対象」になっているのです。この数年、(アジアの他国とのビジネスが増え)日本とも距離ができてきたので、ミステリアスな部分だけが浮上してきたということもあるでしょう。
もちろん、以下の記事の前半にあるような背景もありますが、ここでいう「日本の現代文化そのもの」が何を指すか?それをどう評価するか?が考えるべきテーマになります。
産地の「良き製品」を売りたいはずが・・・
日本の地方各地にある伝統工芸や産地の製品が、海外市場との関係でみられることが多くなっています。海外からの旅行客の買い物、あるいは海外市場の開拓、その両方があります。そこで、そうしたモノや地域の海外向けプロモーション動画を目にすることも少なくありません。
最近、ある地域ではトップクラスと評判の企業の動画を見ました。ズームアウトで撮影した豊かな自然がある風景からはじまり、じょじょにズームアップになり、さらにその企業の工場の内部にカメラは入っていきます。ずっと米国人のゆっくりとした喋りで、日本語の字幕が流れます。言ってはなんですが、この類のビデオにある「よくあるタイプ」です。構成に新規性はないですが、日本に懐かしさを思う人にとっては、これで良いかもしれません。
驚いたのは、最後の方です。ストーリーとして盛り上げてきた工場で完成した製品がちっとも魅力的に見えないのです。色の選び方も、製品の見せ方も、とんと目をひかない。これには言葉を失いました。どうして、一番大事なところで神経を使っていないのか?
日本を懐かしむ何人かの欧州人にも見せても、やはり、製品に興味が持てない、と答えます。何かが欠落している感じがするのです。
かつて、モノは良いけど、伝え方がダメと言われた
前掲の日経新聞のクールジャパンの記事には、次のような文章もあります。
太字にした部分、誰もが何度も耳にして、やはり誰もが一度は口にしたことがあるセリフでしょう。本音でそう言ってる人もいるし、外交的にそう言っている日本人も外国人もいます。10数年以上、ローカリゼーションについてアドバイスをしたり、本を書いたりしてきたぼくも、このようなことを話すことが多かったです。
大量につくる工業製品から小さな工房で職人がつくるモノに至るまで、スペックも品質も自信がある。カテゴリーとしても、世界の他の国では同様のモノがなかなか見当たらない。それを「日本にはスゴイものがある」と称したわけです。ただ、棚に黙って置いていても外国人の注意をひかないし、およそ、そのモノが相手先の市場のコンテクストにどうあっているのか?の検証なしに話を進めても上手くいかない、と話してきたのは確かです。
「日本を前面に出す」ようなことには、ぼく自身としてあまり積極的にやったことがありません(この点については、以下を読んでみてください)。「日本を出すしか仕方がない」とき、やったことはあります。
いずれにせよ、一般的にみて多くのシーンで、そういう事例が多かったのは事実です。
「魅了する」という言葉を失ったのか?
製造品質が劣化してきたと各所で耳にしたり目にしますが、それとは別に「日本にはスゴイものがある」との自己評価自体が実に危うかった。「井の中の蛙」現象だけでなく、よく世界を知らないどこかの国の人がたまたま日本で見つけたモノを絶賛し、その絶賛を真に受けたということもあるでしょう。
だが、ぼくが驚いた上記の企業動画は、このような文脈とは違うところで、「おい、大丈夫かよ」と乾いた声で呟きたくなるような代物だったのです。ちゃんと米国人にナレーションを頼み、音楽もオリジナルをつくり、プロに撮影と編集もお願いするビデオで、肝心のところに穴がある。動画に社長も登場しているところをみると、当然、モノにうるさい社長のチェックをうけて公開したはずです。それにも関わらず、そのモノの選択と見せ方にプロらしさを感じない。センスがなさすぎです。
そこで、ぼくが瞬間的に思ったのは、この会社は魅了するという言葉を失ったのではないか?ということでした。美意識の作動を忘れてしまったのではないか?ストーリーをつくり、動画制作のスタッフを揃える、こうしたことには一生懸命やったのに、もっとも注意すべき商品への神経というか、審美性への問いかけを怠った。
審美性そのものに関心が払われていない
針小棒大かもしれないとの危惧を抱きながらも、気になることを書いておきます。
インバウンド復活が盛んに語られるなかで、冒頭で述べたような「ミステリアスで郷愁を呼ぶ古臭い日本」への肯定論が日本の人の意見としても目につきます。このように世にも珍しい先進国で、なお危険も少ない国だから、安心して旅をしやすい。そう、強調するむきがあります。
その一方、こうしたミステリアスな国を否定的に、あるいは後進性の表れとしてグローバル化を軸とする人たちは評します。ミステリアスは閉鎖性と同義で発展性がない、とでもいうように。「インバウンドで、たまさか有効に作用するけど、これで政治も経済も文化も何もかも、世界のなかでそれなりの役割を果たせるのか?」と語ります。
BBCの記事にあったジャーナリストの文章は、まさしく、この2つのなかで頭と心の両方で揺れているわけですね。この揺れを日本への愛情と考え、日本の人はこの記事にある心情に喜ぶのですが、もしかしたら、前述の「審美性の減退や欠如」がなければ、もう少し日本復活に確信がもてる文章を彼は書いていたかも?と、ぼくは思ったのです。
ややロジックに飛躍があるとお思いになるかもしれません。だから、針小棒大かもしれないと書いているのですが、英国人ジャーナリストの房総半島の村での経験に触れる部分を読んで、これが分岐点の一つと感じたのです。
このような村の美しさをもっといろいろな人に知ってもらい、オープンな社会をつくっていきたいと願う人の一部がインバウンド活動にも関わるはずです。しかし、それはとても特定なところ・人に限られている。多くは、このお年寄りたちのように、審美性に自信がないというよりも、その重要さに気が付いていないのです。
そして、動画にあるように、皆が賞賛するにきまっている「ありきたりの美しさ」のある風景に頼り切るがゆえに、あろうことか、自社の商品に気が回らないと考えられます。
日本の現代文化を考えるヒント
さて、外国人が注目する日本の現代文化って何でしょうか?「ミステリアスが良いってさ!」と無邪気に喜んでいられるわけもないので、もう少し考えましょう。ヒントがあります。
ぼくはふと一つのことを想起します。最近、イタリアのある大学の責任者と話していると、彼に次のような相談を受けました。
注意すべきは、「一要素として」という部分です。この十数年間、「西洋的な考え方の限界がみえた。これから東洋の考え方が求められる」との言説がよく見られますが、結局において求められるのは、どこかの考え方が独占的にリードするのではなく、どこもがそれぞれの文化を提供することで、それぞれのシーンで有効に活用され魅力的な場をつくることです。
それにも関わらず、日本の文化が求められるというと、日本の人は1980年代後半の"Japan as NO1"にあったような論議、技術的な先進性、品質管理の優秀さといった競争のロジックを同様に持ち込む傾向があります。そうではなく、南米で求められる日本文化と欧州で求められる日本文化の要素は異なるでしょうし、北欧と南欧でもそれは異なるでしょう。
そして、求められる要素は何らかのカタチになっていることもあるかもしれませんが、多くは、いろいろなプロセスのなかで貢献してくれる人の頭と心です。新幹線のマネジメントは凄いけど、チケットのマネジメントはノロい。
この乖離を許すメンタリティが、欧州で行われるプロジェクトに活きると思うのは楽観的に過ぎますが、実際に何か欧州人とコラボレーションをすると、まったく別の視点を提供する可能性もあるのです。コンセプトそのものの構築に役立つこともあるし、欧州人にハッと気づかせることもあります。
世界の政治・経済・文化などの次元で、この貢献の度合いというか、存在感の向上が狙うべきところなのでしょう。不可欠な「一要素」になることです。かつ、その要素に自覚的になり、戦略的に活用することです。
そのとき、繰り返しますが、基礎となるのが審美性です。「これは、生理的に受け付けない。美しくないもの」と言える審美性です。ミステリアスには審美性の裏付けがあると信じている(信じたい)外国人が日本の旅を楽しみ、審美性が喪失されつつあると直観で感じたら、長く住んだ人も日本を去るのは「仕方ないか」と思うでしょう。デジタル化が遅れている、生産性が低い、こういうことで日本を去るのは、長く住んだ人ではないはずです。
写真©Ken Anzai