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DEIのための「自己決定」と「自己責任」のバランス

お疲れさまです。メタバースクリエイターズ若宮です。

今日はダイバーシティのための「自己決定」と「自己責任」のバランスについて書きたいと思います。


『RBG 最強の85才』を見て感じた日米のちがい

先日、「大丸有SDGs映画祭」というイベントに登壇しました。

大丸有SDGs映画祭は大手町・丸の内・有楽町エリアで開催されるイベントで

SDGsの目標の背景にある、世界の課題の実情や、その解決のヒントなどを、映画とトークを通じてお届けする映画祭です。

僕はその2日目で、アーヤ藍さんをモデレーターにジャーナリストの浜田敬子さんと『RBG 最強の85才』という映画のアフタートークでお話しました。

『RBG 最強の85才』という作品は女性として史上2人目となる最高裁判事・ルース・ベイダー・ギンズバーグさんに関するドキュメンタリーです。彼女は、ジェンダーを含めたダイバーシティ推進に尽力しており、いまZ世代からも非常に人気があります。

https://www.amazon.co.jp/dp/B081SRMV6T

ルースさん自身のスタンスや活動に多くの勇気をもらえますが、ルースさんの夫、マーティンさんとの夫婦関係が本当に素敵なので、ご家族やご夫婦でみるのもおすすめです。(アマプラで観れます)


「自己決定」の尊重

当日は時間の関係もあり話せなかったのですが、事前にモデレーターのアーヤさんからいただいていた質問に「印象に残ったシーンであったり、アメリカと日本、あるいは世界と日本との違いに関して感じたこと」というのがありました。

で、『RBG 最強の85才』をみて印象に残ったキーワードの一つに「自己決定」というのがあったんですね。


RBGことルース・ベイダー・ギンズバーグさんは若い弁護士時代から、一貫してダイバーシティに関する裁判で闘ってきました。職場で不当な扱いをされた女性や、当時男性しか入学できなかったバージニア軍事大学への女性入学の訴え、そして女性だけではなく、男性の育休について。

映画の中で彼女は「自己決定」について力強く語っていました。どんな属性の人であれ、自分で選び決定できることを求め、それが妨げられている状況を見過ごさずに変えようとしてきた。

この話はジェンダーだけの問題ではありません。性別、属性、出自や障害の有無などによって自己決定の権利が侵害される環境を変えていくことがダイバーシティやインクルージョンでしょう。


アメリカはスタチュー・オブ・リバティーが象徴する「自由」の国です。なので「自己決定」ということへの尊重がある。RGBの訴えは発言も、時には保守サイドから反発を受けることもありますが、それでも「自己決定の権利」を守るために法案が見直されていく。

(民族や宗教とかあるから色んな考え方があっていいけど)「自己決定って大事だよね、侵害されちゃいけないよね」ということが共通の基盤になっていると感じます。


「自己決定」の制限と「自己責任」の国、日本

それに比べると、日本では自己決定に対する尊重は相対的に少ないように感じます。自己決定の権利が奪われている状況があっても、強烈な反発は起こらない傾向がある。

しかしその一方で、日本では「自己責任」という言葉がよく使われます。

「自己決定」が少ないにもかかわらず「自己責任」は大きいのです。

アメリカでも「自己決定」が重視されるので、それに伴う「自己責任」が求められます。「自己決定」と「自己責任」の大きさが同じくらいな感じです。

しかし、日本では「自己決定」は小さいのにもかかわらず、「自己責任」は大きい。ここにアンバランスがあります。コロナウイルスに罹患しても「自己責任」と叩かれる。そもそもウイルスへの感染は外的なものですし、なによりそれに罹患した、いわば被害者に、心配よりも先に「責任」を追求して叩く、というのはやっぱりちょっと怖いなと思います。


本人の意志ではなく、実際には環境や外的な要因によって選択肢を狭められているような状況は放置されながら、しかしそれは「自己責任」にされる

女性が管理職になりにくい環境でも、「本人がなりたがっていない」とすり替えられるケースや「子供を持つことを選んだんだから自己責任」とされることがとても多いのですが、そうではなくて働きながらも子育てができる、子育てしながらも管理職ができる、そういう環境を目指して改善していく事が「自己決定」を尊重するということでしょう。

環境によって自己決定権を奪いながら「自己責任」にすり替えるというのが意図的にされているケースすらあります。たとえばリストラなどで解雇はしづらいので、異動させたり業務を変えたりして環境的に追い込んでいき、本人が希望しての退職へと追い込む、みたいなこともありました。

「自己決定権の制限」と「自己責任化」は現状の「社会的強者」に有利に働きます。現状の社会的強者は自己決定を奪う環境を容易につくることができるからです。そうした環境をつくった責任は強者にあるはずなのですが、そこに「自己責任」論が入ると自己決定できない個人に責任をなすりつけることができます。

セクハラや性被害があってもそれを変革するべき組織や社会の責任や問題点を追求するよりも早く、「そんな服装していたら」とか「そんな場所にいくほうも悪い」と自己責任論が始まる。「自己責任論」が誰を利しているかといえば、既得権を守る強者なのです。


「自己決定」すなわち「自己責任」ですらない

米国において「自己決定」が尊重されており、「自己責任」もそれに応じて大きい、と書きました。

しかし米国においても、「自己責任」の見直しが必要であることが最近言われています。以前こちらの記事でも書きましたが、

マイケル・サンデル氏はその著書、『実力も運のうち』で一見公平にみえる能力主義の欺瞞とその弊害について継承を鳴らしています。

マイケル・サンデル氏によるとハーバードやスタンフォード入学者のようなエリート教育を受けた人々は、自分の成功は自分の努力によるものだと感じがちです。そしてそれが行き過ぎると、社会的弱者が社会的弱者であるのは彼らが怠惰だから、ということになります。社会的弱者がいまその地位にあるのは「自己決定」であり「自己責任だ」というわけです。


しかし実際には、自己決定と自己責任は必ずしもイコールではありません。そこには、人がコントロールできない外的な要因、たとえば家庭環境や偶然が大きく影響しているからです。スタンフォードに入学した人はもちろん本人が努力したとしても、その背景には生まれた家庭や学習環境など、コントロールできない要素が多く関わっているわけです。

たとえば「本人の意志や努力」が「1〜100」くらいまであったとします。1しか努力しない人よりは100努力している人は100倍よい結果がでるかもしれません。しかし、結果にはさらにもう一つの項が掛け算になります。本人のせいではない外的要因や「運」は「1〜1000」くらいのレンジがあるのです。100努力して運が1で100しか出ない人もいれば、1しか努力してなくても1000の結果が出る人もいるかも知れません。努力が意味がないと言っているのではなく、すべてを本人に帰してしまうのは危うい、ということなのです。

どれだけ努力したとしても受験当日に交通事故に巻き込まれて受験ができないかもしれません(日本だとそういうのも想定して早く出ないのが悪い、とかそもそも事故に合うような道を選ぶのが悪い、とか自己責任にされそうですが…)。そもそもどんな家庭に生まれるか、どんな属性に生まれるか、というのは完全なる運です。ジェンダーの不平等もそもそもは本人の意志や努力によらない完全なる運で決定されてしまうのが問題なのです。


「自己決定」は大きく、「自己責任」は小さく

仕事がら最近、メタバースでアバターを使ってコミュニケーションをしています。クリエーターとのやりとりもアバターなので年齢や見た目についてはほとんど意識しません。性別すらあまり気にならなくなっています。

そちらが普通になると、人間が(たんなる運でしかない)物理的な身体や性別、国籍などに人々がすごく囚われているなあ、と感じるようになります。そしてそれはとてももったいないしほとんど意味がない、という気がします。(レイシズムやセクシズム、ルッキズムは「単なる偶然」にすぎない物理身体に囚われすぎた盲信です)


ダイバーシティやインクルージョンを考える時、「平等」というのは選択肢の平等であるべきだと思います。そしてそのためのサポートは人それぞれに異なるサポートかもしれません。

「自己決定」が小さい社会は不自由です。しかしたとえそれが大きくとも、もし結果が「自己責任」にされすぎてしまうなら、それは分断を助長してしまうでしょう。

ダイバーシティとは「自己決定」の円を大きくしようと努力することで、インクルージョンとは「自己責任」のを小さくすることかもしれません。

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