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女性起業家へのセクハラ問題に思う、「苦労話の再生産」の罠

お疲れさまです。若宮です。

ここ数日物議を醸している「女性起業家へのセクハラ」を巡る問題について、色々思うことがあるので今日はちょっとその話を書いてみます。


物議を醸している、「女性起業家へのセクハラ」問題

先日、NHKで「女性起業家へのセクハラ」について報道があり、それをきっかけに、様々な意見が出ました。

女性が起業した時にビジネスパートナーや投資家からセクハラを受けるケースは残念ながら今もあると思います。(以前よりは多少改善されている、と信じたいですし、セクハラをする男性ばかりではないですが)まだまだ解決されていない。

知人の女性起業家などからお話を伺っても、セクハラや高圧的・差別的な対応で嫌な思いをされた経験は何らかほぼ全員にあるそうです。また、根深いルッキズムの問題もあって、才能や能力、努力して事業を伸ばしているのに見た目ばかりいわれたり(厄介なのは男性は「褒め言葉」のつもりで言ってる…)、かわいいから成功したんでしょとやっかみを受けるようなことも。


そんな中この報道に、「セクハラで諦めるなら起業はやめた方がいい」という発言をされた方がいて、それをきっかけに色々意見が飛び交い、ちょっと石の投げ合いのようにもなりつつあります。

セクハラの問題で言えば、男性と比べて女性起業家の方が圧倒的にセクハラに遭いやすい非対称性があります。そもそもが非対称性や環境の問題なのにそれを解決しようとせず、自己責任に帰してしまうのは完全に間違った考えだし時代錯誤だと個人的には思います。ただこういう時にまた、男女の対立になってしまったり、その発言をした人だけを叩いて終わることになるんじゃないか、と危惧しています。

「セクハラぐらい我慢しろ」というのは個人的にはとうてい容認できない発言です。だって犯罪ですからね?
(ジャニー氏の性加害問題でも同様の構造がありました。「これも勉強。
そう自分に言い聞かせて、毎晩、ジャニーさんの相手を務めていた」「ジャニー氏との行為を「中途半端」にしたことが「芸能界に向いていなかった」原因だと回顧している」)


でも、この発言までいかずとも、内心似た意見を持つおじさんは結構いるんじゃないかという気もします。なのに一人を責めても水面下に潜るか対立を深めるだけなので、そうした意見も現に存在することは認識し、なぜそう思うのかをお互いに出し合った上で、どのようにアップデートしていけばいいかを考えるしかないかなと思っています。

あとこういう時に「炎上」という言葉を使うのはあまり良くないとも思っていて、「燃えてなくなってしまう」と意味がないので、これを機会にみんなで自分たちの中にある偏見や古い考えを見直し、どう変えていくべきかを考えることが重要ではないでしょうか。

起業に「無駄な我慢大会」は要らない!

「セクハラ耐えられないなら起業なんてやめといたほうがいい」という発言に便乗して、その他にも色んな意見がありました。

こういう意見が男性の方からいまだに出ることはとても残念です。ただ僕自身も昭和の古い価値観の中で育ってきたので、そういう類の価値観は実体験として理解はできますし、以前は近い価値観だったこともあると思います。だからこそ、日々自問しつつそれをどうやってアップデートしていくかを考えているわけです。

こうした男性の「ジェンダーバイアス」はまだまだ課題山盛りですが、今日のメインテーマとはそれとはちがう角度で、今回の事象に見られる「苦労話の再生産」の問題について考えてみます。


起業家は確かに大変な仕事です。僕自身、いまスタートアップをやっていて、全然思った通りいかないことばかりだし、メンタルも乱高下します。でも起業は楽じゃない、ということとセクハラやパワハラを我慢しろ、ということは全くちがう話だと思うのです。

事業を成長させるための苦労や試行錯誤は必要ですが、ハラスメントを我慢するのはまったく不毛かつ無駄な努力だと僕は思います。

起業が大変だからこそ、そういう無駄な我慢をしなくていいようにすべきだと思うのです。セクハラでもパワハラでも、無駄なところで疲弊する必要はありません。日本の経済成長が停滞しているのは「そういうとこやぞ」と思うわけですが、こうした不必要な心労や足の引っ張り合いを減らして事業の成長に集中できる環境ができ、不安なく起業家として挑戦できる人が増えれば、もっともっと経済成長するはずではないでしょうか。

起業にチャレンジしやすく、事業が成長しやすい環境にしていく。これ一択だと思うのですが、なぜそうならないのか、というと、まさにここに「苦労話の再生産」の「罠」があると思うのですよね。


①生存バイアス

厄介なことに、これは特に成功者や社会的強者がはまりやすい罠なのですが、2つの原因がある気がしています。

一つは「生存バイアス」。

生存者バイアス(せいぞんしゃバイアス、英語: survivorship bias、survival bias)または生存バイアス(せいぞんバイアス)とは、何らかの選択過程を通過した人・物・事のみを基準として判断を行い、その結果には該当しない人・物・事が見えなくなることである。選択バイアスの一種である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/生存者バイアス

「生存バイアス」ってなに?というと、たとえば戦時中の米軍の戦闘機の改善の話があります。

第二次世界大戦中、連合軍はどうすれば戦闘機を撃墜されずに済むかということに頭を悩ませていました。
基地に帰還した戦闘機を見てみると、敵の攻撃によって機体はあちらこちらに被弾して穴があいていました。
そこで軍は、エイブラハム・ウォールドという統計学者にアドバイスを求めました。彼はさっそく生還した戦闘機の弾痕をすべて記録し、機体のどこが被弾しているかを図にまとめました

統計を取ってみると、戦闘機の被弾は翼の部分に集中していました。これは一見、被弾の多かった翼部分の装甲を厚くするべき、と考えてしまいがちです。

これが「生存バイアス」の誤謬です。

本当に装甲を厚くすべきはむしろ逆で、「ほとんど被弾していない操縦席の周辺と尾翼の周辺」なのです。なぜなら、操縦席の被弾が少ないのは、そこに被弾した機体は即墜落して戻ってこれなかったためであり、そここそクリティカルだからです。

この判断の誤りの原因は、生き残ったサンプルにのみ注目してしまうことで起こります。本当に重要な課題があるのは「帰還できなかった機体」の方にあるのにそれが見過ごされてしまう。


今回の問題でも「生存バイアス」の罠があります。セクハラ問題では男性からだけでなく、成功した女性からも「私はそんな目に遭ったことがない」「そんな大したことじゃない」という反対意見が出ることがあります。

それはその人たちがたまたまsurviveできた、というだけで問題はそうでないケースにあるのですが、バイアスのせいで沢山の「声なき声」が見えなくなってしまうので、そこにこそ想像力を働かせないといけない。

さらに、「生存バイアス」の危険性として、以前伊藤穰一さんがおっしゃっていた「サクセスストーリーが偏見を強化する」ということもあります。

たとえば黒人やマイノリティから成功者が出たとします。苦難を乗り越えてのサクセスストーリーは痛快であり素晴らしいのですが、それが取り沙汰されるほどに「マイノリティでも頑張れば成功できる」→「成功していない人は頑張っていない」or「能力の問題」ということに皮肉にもすり替えられてしまう。

実際には、そもそもの圧倒的な非対称性という問題があります。白人男性の成功率が100人に1人だとすれば、マイノリティの成功率は数万人に1人かもしれません。一部の成功例があるからといってそうした非対称性が是認されたり正当化されるものではないですよね。

成功者は確かに苦労を乗り越えて成功を掴んだ。それは大きなリスペクトに値します。しかしだからこそ成功した後には、成功の陰で「墜落」してしまっている多くの人を救えるように、環境を変えていくことにその力を使ってほしいなと思います。

②ルサンチマン

もう一つの罠は「ルサンチマン」です。簡単に言うと、個人的な復讐心のことです。

自分は大変だったんだから、あなたも苦労しなさい」。はっきりとはそう言いませんが、セクハラやパワハラの問題だけでなく、子育てについてもこうした態度を目にすることがあります。

たとえば夜に電車でベビーカーを押していると、「私たちの頃はベビーカーなんてなかった」とか「夜に外出なんてできなかった」という風に叩かれる。いや、この少子化が大変な中で子育てしやすく社会がサポートしなきゃなのに追い詰めてどうすんだ、と思うわけですが、こうした言動もルサンチマンの成すところだと思います。


自分がした過去の苦労と今の子育て世代の課題は全く別物なのに、比較して「自分たちはこれくらい我慢した」と辛さを強要してしまう。そこには「お前らだけ楽すんのズルい」という感情もあるのかもしれません。

こういう負の感情は自分と同等の辛さを他人にも求め、「苦労話」が再生産されます。なんというか、これはとても悲しい連鎖です。


そしてもっと厄介なのは、こういった苦労話がしばしば美談にすり替えられてしまうことです。「私たちはこんなに苦労して子育てしたよ」「私はこんなに苦労して起業したぜ」と、自己承認のために苦労自体が美化されてしまう

こうしてあの例の、「俺らの頃はこんな体罰も当たり前だった。なのに最近の若いもんときたら軟弱だ…」みたいな不毛な世代間の対立が、昔からずっと繰り返されているのですが、それまだ令和でやります?


そもそも、社会がよくなっていくのであれば、世代を減るごとに楽になっていくのはいいことだし、当然のことじゃないです? むしろ環境問題とか解決すべき「負の遺産」だって山盛りに手渡してしまうわけなんですから、次世代の「無駄な苦労」を少しでもなくして、課題解決に集中してもらえるようにするのは現世代の義務ではないでしょうか。


繰り返しますが、「生存バイアス」にせよ「ルサンチマン」にせよ、その罠にハマりやすいのは「成功者」や「経験者」の方です。苦労話を再生産して次の世代に押し付けるのは、もう止めにしませんか。「成功者」や「経験者」は、今それを変えていく力を持っているはずなのですから。


「向いていない」と言うよりも、進んで環境変えましょう

最後に、今回のことでも「それくらい我慢出来ないならは起業に向いていない」という言説があったのですが、この「向いていない」という言葉の使い方にも注意したいと思います。

確かに、個人の内的な性質として向き不向きはあるでしょう。ただ、外的要因を取り違えて本人の適性だと判断してしまうのは、間違いですし差別になりかねません。

経営しているuni'queでは「起業のダイバーシティを増やす」ことを掲げて女性起業家のインキュベーション事業をしてきましたが、「なぜ女性だけを応援するの?逆差別じゃないの?」と言われることがあります。もちろん将来的には「女性」という冠をつけなくてよくなるのがゴールなのですが、今のところ社会構造上の明らかな不具合があるのでその改善と整備が必要だと思ってやってます。

たとえばITでの起業すでは男性の方が圧倒的に有利な状況があります。男性にエンジニアや投資家が多いからです。(少しずつは改善されてきており、↓こうした取り組みもあって、「いいぞもっとやれ」案件です)


現状、「理系」や「管理職」「起業」へは男性の方が近い位置にいます。一方、女性は家事や「文系」や「事務」「家事・育児」に近いところに置かれていた(必ずしも本人の希望ではなく)。で、これをもって「女性は起業より家事に向いている」みたいなことを言うわけです。

でもこれって単にアクセスの問題であって、個人の資質の問題ではありません。例えば、埼玉と北海道を比べたら、東京に出てくる人口は当然埼玉の方が多いでしょう。じゃあ「北海道の人は東京に向いていない」と言うの?、と考えればその滑稽さがわかります。それはアクセスの問題で、数十年前は北海道から東京に来る人はもっと少なかったでしょうが、飛行機などのインフラが整えば増えるわけです。

インフラを整備してアクセスを改善する、というのがやるべきことはずなのに、個人の適性や自己責任の問題にすり替わってしまう。本人の選択の結果でもなんでもないのにそれで向き不向きを決めるなら、それは差別だと思います。今ガザに生まれた人に「夢を持つのに向いていない」なんて言いますか?


大事なのは環境を変えていくことです。今回のセクハラ問題も、女性と男性のどっちが大変だとかで対立や炎上に終わるのではなく、みんなで環境を良くする契機としませんか。

そして過去の苦難を乗り越え、いま成功し社会的強者となっている方こそ、「生存バイアス」に囚われたり「ルサンチマン」で苦労を美談にして「再生産」するのではなく、それを繰り返さないようにアップデートしていきませんか。困難を乗り越えたみなさんにこそ、社会を変える力があるのですから。

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