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ラグジュアリーとは「部分」ではなく「全体」ー意味のイノベーション再考

9月末、イタリア北西部、ピエモンテ州のランゲ地方、山の上に立つ農家を改造してつくったデザインスタジオを訪れました。主はクリス・バングル。米国人の名の知れたデザイナーでBMWのチーフデザイナーを務めた人です。

彼の一言がとても印象的でした。

AかBか、どちらかを選択すべきとよくいうが、ぼくは反対だ。Cでも、Eでも、Fでも良いが、AとBの両方を含む道を最初に考えるべき。ラグジュアリー・ファーストだ。

この言葉を聞いた瞬間、彼がワインや食文化で名を馳せるランゲというテリトーリオに住居を定めた理由が分かった気になりました。テリトーリオとは都市と農村の関係、自然、文化、社会のアイデンティを包括する空間を表すイタリア語です。ある意味、ラグジュアリー・ファーストの世界です。バングルはこの豊穣さに満ちている世界で生きていこうと決めたと推察したのです。

人生は短いーちまちまとひとつひとつ選択している余裕はないはずだ、ラグジュアリーを最初から狙え!というのは、かなり強烈な一発です。これは新ラグジュアリーをテーマにしているぼくにとっても斬新な切り口です。

最近、考えていることをまとめてみましょう。

日本からも旅に参加した人たちとバングルのスタジオを訪ねた。左から2番目が彼。

「すべてを包括する」がラグジュアリーの起点

ぼく自身、ラグジュアリーの新しい方向を探りだして6-7年がたちました。最近、Dig The Teaというメディアで嗜好品に絡め、ラグジュアリーに関するインタビューを受けました。その内容が以下です。

2017年、現在はストックホルム経済大で教鞭をとるロベルト・ベルガンティが提唱する「意味のイノベーション」のエヴェンジェリストとして活動をはじめたら、自らも意味のイノベーションの実践をやりたいとの欲求が生まれ、そこにラグジュアリーの意味のイノベーションというテーマを見つけたーそれが6-7年前でした。各国のこの分野の専門家ともずいぶんと話してきました。

そうして『新・ラグジュアリー ――文化が生み出す経済 10の講義』を出し、それから2年半以上が経過しています。並行して、2021年からは新しいラグジュアリーをテーマにしたオンライン講座もスタートさせました。

このプロセスを経て、意味のイノベーションの文脈で、今、一番強調すべきは何か?を考えると、上の記事中の以下の部分です。ろうそくの意味の変化がイノベーションの象徴的事例である、と話してきた延長線上にあります。いわば追加説明になります。

——これまでの話を踏まえて、嗜好品や嗜好体験についても伺いたいと思います。これからのラグジュアリーな嗜好品や嗜好体験には、どのような要素が求められていくと思われますか?

まず、ラグジュアリーとは「部分」ではなく「全体」なのだと理解する必要があると思います。

たとえば、ろうそく。ろうそくは電球が発明されるまでは、光をもたらすという明確な機能を持ったものだったわけですよね。しかし電球が普及した後、ろうそくは嗜好品に近い存在になりました。

高級レストランに行くと、テーブルにろうそくがしつらえられていることが多いですよね。機能的には必ずしも要るものではないけれど、高級感を演出するために置かれている。

では、テーブルにろうそくさえ置いておけば高級レストランだと言えるかといえば、そうではないですよね。高級レストランを高級レストランたらしめているのは、料理の味はもちろんのこと、サービスをする人、あるいはそこに集まるお客さんたちの身なりや態度など、その「全体」です。いくら「部分」にこだわったとしても、ラグジュアリーにはなり得ません。

このことから考えると、全体の一部としてラグジュアリーを生み出す起爆剤のような存在にはなるかもしれないけれど、嗜好品そのものをラグジュアリーだと捉えることは難しいような気がしています。

嗜好体験をラグジュアリーなものにするための第一歩は、部分ではなく、全体に目を向けることではないでしょうか。

「新ラグジュアリー」は嗜好品をどう変えるのか

意味のイノベーションは何か?に再び戻る

意味はモノ単体ではなく、そのコンテクストによって決まってくるわけですが、意味のイノベーションという言葉が普及すればするほど、意味のイノベーションを商品単体で何とかしようとする人たちが多いのを見てきました。これは軌道修正に導く必要があると気づきました。

「全体」がキーワードになります。

しかし、意味のイノベーションも、これだけをロジカルに説明しても限界があります。コンテクストを実感していないと話にならないのです。そのコンテクストを身体的に理解するに、ろうそくの高級レストランにおける位置がひとつの指標例になります。上の記事の言葉でいえば「起爆剤」です。

これがそのままラグジュアリーの話に通じるわけです。例えば、ラグジュアリーといえばクラフトと言われる。ローカルの高い職人技がアピールポイントになる、と。かといって、ろうそくで高級レストランが成立しないのと同じく、人の手をつかってできた精巧で知恵溢れるモノひとつでラグジュアリーにはならないのです。

こういう風にラグジュアリーの意味の伝え方を考えている時、ポッドキャスト「働き方ラジオ」を主宰している田中健士郎さんと何か一緒にできないか?という話をはじめました。新ラグジュアリー講座の入門編をやろうかとか、いくつかのアイデアがありました。

紆余曲折を経てのひとまずの結論は、まず、意味のイノベーション入門講座をやり、その参加者たちから新ラグジュアリー講座に興味をもってもらったらいいね、ということになりました。今までの経験から、意味のイノベーションに素養のある人は、新ラグジュアリーへの考え方にもスムーズに入りやすいのです。

こうやって、12月14日に田中さんがファシリテーションを行い、ぼくが講師をつとめる意味のイノベーション入門講座を田中さんが企画してくれました。この講座を経由して、来年1月18日から始まる5回目の新ラグジュアリー講座(下記)に行き着く道筋をつくりました。

もうひとつある新・ラグジュアリーへのルート

当初はまったく意図はしていなかったのですが、意味のイノベーションから新ラグジュアリーへの道筋と平行して、テリトーリオやデザイン文化から新ラグジュアリー、あるいはその逆という双方向の道も準備しています。

9月末に「食とツーリズムの可能性ーーその先にすべきこと」という記事を書きました。冒頭、クリス・バングルを訪ねた話と写真を紹介しましたが、ランゲというテリトーリオの滞在経験を通じて、デザイン文化の鍵でもある全体像の掴み方とそこから導かれる自分の考えへの確信の持ち方を学ぶ、という研修プログラムの実験版を実施したのです。

何度も書くように、鍵は「全体像」や「包括的」なのです。テリトーリオでこれらの言葉が腹落ちするきっかけをもてると、デザイン文化に相応しい言葉は「創造性」「クリエイティビティ」よりも、全体をつかもうとの希求とそこで「もがくことに躊躇しない」ことであると気づくのです。さらに言えば、もがくことこそが自然体であると分かります。

別の言い方をすれば、一筋縄ではいかない全体の掴み方も、全体とは固定したものではなく流動するものだとの認識がもてれば、自らの頭も手足を自由に動かせるようになります。そして「ラグジュアリー・ファースト」がすっと身体のなかに入ってくるはずです。

このようにランゲを体験し、加えてミラノでイタリアにおけるデザインを知る研修を来年5月末に正式版1回目を実施することにしました。尚、実験版の報告と来年5月の企画説明を12月9日、麻布台ヒルズ Tokyo Venture Capital Hubで行いますが、これにはぼくもリアル参加します

最後にイタリアのデザインを特徴づける言葉を紹介しておきます。20世紀後半、世界のデザインシーンを揺り動かしたエットーレ・ソットサスのフレーズです。

イタリアにおけるデザインは人の生き方である。

人の人生をこまかく切り刻むなんて、できませんよね?全体でしかありえない。冒頭の写真でも、イタリアにおける全体の掴み方がよく分かります。マントヴァにある大聖堂ですが、11-12世紀、15世紀(中央部分)、18世紀(左側正面)、それぞれの時代で、時間を超えて全体像を築く意欲を感じます。あまりに奇妙な姿であっても、です。

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以下の記事を読み、足りないのは「全体への希求」に基づく確信力ではないかと思いました。ブランドとは考えぬき、やり尽くした軌跡の集大成であるとするならば、全体への執着をつくるとの認識が必要では、と。


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