こんにちは、メタバースクリエイターズ若宮です。
今日は最近改めて考えている、「終わるための仕事」について書きたいと思います。
「終わること」を意識した仕事
「仕事」というのは基本的に終えるためにやるものです。
と、書くと、あまりに当たり前のことのようですが、人は思ったよりそれを忘れがちだったりするのかも、と思ったりしていて、ある時期から僕は「仕事を終わらせる」ということを敢えて意識して働くようになりました。
例えば僕は時々、大企業の新規事業のアドバイザーを頼まれることがあります。新規事業を深めるワークショップやメンタリングを伴走型でするのですが、お引き受けする時には「なるべく早く自分がいなくなる」ことを目指します。
なぜなら、新規事業というのは究極いうと会社の中で自分たちで作れるようになる必要があるからです。僕の新規事業のアプローチでは(とくに0→1は)その企業のコアバリューやユニークバリューをとても大切に扱います。
そしてそういう企業の自分たちらしさのコアは外からは見えないですし、コアを外した事業は結局のところ続けてはいけません。
なのでいわゆるコンサル的に市場を分析して外部から答えをいうようなことは極力避けます。
自分自身の新規事業の過去の経験や失敗を経て、外部からそれらしい答えを持ってくるのではなく、メンバーが自分たちで試行錯誤しつつ自ら事業を立ち上げられるカラダづくりこそ重要だと思っています。そして数人でも新規事業体質の人材ができれば社内でノウハウや経験を共有して、持続的に新規事業を起こしていけるようになります。
いわゆる「自走」できる状態で、その時もはや伴走者がいなくてもいい状況になるわけです。
「終わらないため」は寄生へと変質する
僕は自分の仕事にあまり「コンサル」という言葉を使いません。これにはいくつか理由があります。
1つにはすでに述べたように「外」からなんとなく正解っぽいことをいうのはあまり意味がないと個人的に思うからです。
そして2点目に、僕はコンサルを生業とはしない、と決めています。あくまで自分で事業をすることが軸足であり、そこで常に自ら試行錯誤をしているからこそ、手触り感を持って自分の言葉で語れるからです。軸足はあくまで起業家として自らやっている事業であって、その経験が他の人に役立つのでなら「おすそ分け」もするよ、という感覚です。だからもし自ら事業をしなくなればその源泉が枯れてしまうと思っています。
そして3つ目に、前二点の帰結として起こる「寄生」を恐れるからです。
正直にいうと、個人的にはいわゆる「コンサル」にあまりポジティブなイメージがありません。これは以前、大企業にいた頃の経験が影響しています。大企業では新規事業を立ち上げる際、(新しいことに当てるリソースやその領域のプロパーがいないために)たいてい相当に高いお金を払ってコンサルを雇いがちです。
で、(勿論すべてのコンサルがそうではないでしょうが)僕が会ったコンサルの中には「寄生」を生存戦略としている人たちがけっこういました。
突然ですが、老子の言葉に、
というのがあります。「人に授けるに魚を以ってするは、漁を以ってするに如かず」、飢えた人に魚をあげちゃうより魚の取り方を教えた方がいいよね、ということです。
外部のコンサルが一見それらしい答えに見えるものを教えることは、「魚を与える」のに近い気がします。すぐ成果(っぽいもの)が得られるので、短期的にはこっちのほうがクライアントに喜ばれます。
しかし「魚」を与えてしまうと、その人は自分で魚を釣れない状態のままです。
それどころかむしろ、コンサルが「魚を与える」のはクライアントが自ら「漁」を出来ない状態にしておくためだったりします。なぜならクライアントが自ら魚を穫れるようになると自分の仕事がなくなってしまいかねないからです。逆にいえば、クライアントに魚を与え続ければ自分たちの仕事はなくならないわけです。
コンサルというビジネスモデルで考えるなら、「クライアントを自分たちがいないと生きられない状態にしておく」というのが生存戦略として正しいことになってしまう。その結果、クライアントに寄生するという状態が起こります。
「寄生」はたしかにコンサルビジネスとしては「美味しい」かもしれませんが、あまり健全な状態ではないですし、組織全体としては前進しない停滞状態になりかねません。
こうした「寄生」状態にならないために、僕はあくまで起業家を軸足とし、コンサル的なビジネスモデルに頼らなくていい状態にしているところがあります。魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えたり、一緒に魚を釣ったりして、最終的には自分で釣れるようになってもらうことを目指したいのです。
DXやAIへの抵抗も、仕事が続くために?
そもそも「仕事」というのは、究極いうと上手くいって成功しても「終わり」が来ると考えておいた方がいいのではないでしょうか。「ここまでやり切ったら自分の仕事は終わり」と考え、自分がいなくなった先をを目指して行動する方がいいのではと思うのです。
だいぶ前に書いた記事ですが、「終わり」の有無は判断の短期・長期にも関わります。
いい先生は学生の人生に3年間しか関われないことを深く理解していて、だからこそその後に長く続く「自分がいなくなってからの生徒の人生」を考え、「漁」の仕方やその楽しさを教えます。一方、「続ける」ことにこだわると点数や偏差値など近視眼的に眼の前の成果を出そうとなってしまう。
DX(デジタルトランスフォーメーション)やAIなど新しいテクノロジーへの拒否反応や抵抗の背景にも、同じような構造があるかもしれません。DXやAIが進むと自分の仕事がなくなってしまうかもしれない。その方が全体の効率がいいことはわかっていても、自分の仕事がなくなるようなシステムを導入できる人は多くはありません。
今の仕事を守りたいと思うと変化を拒むことになるわけです。ジェンダーの問題や「老害」もこうした社会の変化を阻害する「既得権益」への固執のバリエーションかもしれません。なのである程度自分の役割を果たした後には仕事を手放し、次の世代や新しい考えを持つ人たちにバトンタッチしよう、と心がけることが変化を阻害しないためには必要かもしれません。
終わりのあるworkか、playとしての関わりか
個人の仕事に限らず、究極を言えば、起業して興した会社や社会変革の活動にも同じことが言えるかもしれません。
例えば、僕は一社目に起業したuni'queでは「女性起業家」を増やすためのインキュベーション事業をしていますが、これは起業家にはまだまだ女性がマイノリティな現状があるからです。この状況を改善するためにしている事業なので、本当にジェンダーバランスがよくなり、起業家のダイバーシティが実現すれば、(そもそも「女性」起業家という言葉自体もなくなり)そこに特化した活動も必要なくなるでしょう。
社会を変えるための活動や変化を起こすことは、最終的にその変化が実現された後で不要になることを目指すということかもしれません。
もちろん、伝統芸能のように続いていくことが大事なものもあります。ただ変化がないではなく、続くためには変化があり、むしろ多くの「終わり」を内包して次の世代に「手渡す」ということが起こっています。(「tradition」というのは語源的に「引き渡されたもの」です)
以前、「ワークとプレイ」の違いについて書きました。
playには究極をいえば完成がありませんが、Workには終わりがあり「完成」があります。(エンドレスに続くソシャゲとエンディングのあるコンソールゲームのどちらがいいというわけではありませんが、「作品」と呼ばれるゲームは前者からは生まれません)
「仕事Work」には「完成」や「終わり」があり、それ以上手が要らない状態になったらそこで手放して、また新たな次のworkを始める、ということになります。
ガンディーさんの名言とされている言葉に、
というのがあります。
この「Be the change」は「変化になりなさい」であると同時に「変化でありなさい」ということかも、という気もします。変化は、それが実現されたら変化ではなくなります。「変化である」ということは、また次の新しいチャレンジに移りましょう、というのを内包している。
あるいは他の選択肢としては、workではなくplayとしてお金も関係なく純粋な楽しみとしてゆるく関わるというあり方もあるかもしれません。
しかし個人的にはどちらかと言えば、「終わり」を考えながら仕事をするほうがよいのではと思っています。なぜなら人生には必ず終わりがあるからで、人は畢竟、自分がいなくなった未来に向けて、終わるために生きるしかないのですから。