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アート思考とデフレーミングの意外な共通点 「脱構築」はいかにDXを促進するか

アート思考といえば、「内発的な動機」や「感性の刺激」など、論理では説明できない「何か特別なもの」に力点が置かれる場合が多い。しかし、実はアート、特に現代美術においては、「天から降ってくるひらめき」や「言葉にできない内面的な何か」だけでなく、社会に対する洞察や思索に基づき、既存の枠組みを脱し、対象を位置づけ直す営みが重要な役割を果たすことがある。

これは脱構築とも呼ばれるものだが、実は脱構築はデジタル・トランスフォーメーション(DX)を考える上で重要な役割を果たすものである。それは、以前取り上げたデフレーミングにおける「分解と組み換え」を基礎づけるとともに、さらに深め、前進させるものである。

そこで、本稿ではアート思考の内部に切り込み、特に脱構築がどのようにデフレーミングやDXに関わっていくのか、その共通点や意義を考えてみることとしたい。

デフレーミングの「分解と組み換え」

まずデフレーミングについておさらいしておこう。デフレーミングはデジタル・トランスフォーメーション(DX)の本質を示すフレームワークである。それは『伝統的なサービスや組織の「枠組み」を越えて、内部要素を組み合わせたり、カスタマイズすることで、ユーザーのニーズに応えるサービスを提供すること』と定義され、3つの要素から構成される。

デフレーミング

その第一が「分解と組み換え」である。従来の業界や事業の枠組みを超えて、その内部要素を分解し、柔軟に組み合わせ直すことを意味する。例えば送金とメッセージングを融合したアプリや、物流とeコマースの融合など、従来の業界の垣根を越えて、要素技術を抽出し、柔軟に組み替えて新しい事業ドメインを作っていく活動である。

現代美術における脱構築

一方、現代美術においては、1970年代以降、ポスト構造主義、脱構築というキーワードによる哲学的展開と、それに対応した美術作品が重要な役割を果たすようになった。この流れは現代を代表する美術評論家、ロザリンド・クラウスの著述に詳しいため(注1)、これに基づき簡単に紹介したい。

1960年代以前に主流の考え方であった構造主義は、人間の諸活動は所与の要素により構成される構造の中に位置づけられ、理解されるというものであった。ここでの構造は、家族間の関係や社会の諸制度など、何らかの権力関係を前提としたものであったが、それがあまりにも深く「所与」として浸透していたために、人々が発する言語の中にも暗黙の裡に、知らず知らずのうちに埋め込まれ、また再帰的に強化されていくものであった。

この構造には単なる静的な関係だけでなく、主体間の権力関係を内包していたが、これに対してポスト構造主義はこうした制度的枠組み(フレーム)を拒否し、問い直す契機を当時の芸術家たちにもたらした(ここでデフレーミングと同じ「フレーム」という語が用いられている点に留意してほしい。)。

アーティストを取り巻く環境で言えば、美術家、画廊、評論家といった関係者たちの構造関係に疑問を呈し、全く異なった自然環境の中で作品を提示する、リフレーミングと呼ばれる活動にも繋がっていった。

こうした哲学的展開と芸術的実践の中で、フランスの哲学者、ジャック・デリダは、一般的に使われる用語の中に、社会の権力関係を規定し、強化する機能が潜んでいることを発見し、それらを分離する試みを行っていった。これが「脱構築」である

クラウスは、以下のようにも述べ、既存の構造(フレーム)から独立することの芸術的価値を示唆している。

「芸術の自律性という可能性ー芸術作品がそれ自身のみによって基礎付けられ、そのフレームが課してくる条件からは独立したものであるーに対する力強い確信をモダニズムに提供する」(クラウス、前注)

以上はロザリンド・クラウスによるポスト構造主義から脱構築に至る概略であるが、脱構築のエッセンスは要素間の関係性を取り除き、既存の権力関係を廃してフラット化するという行為、またそうした構造が廃された中での芸術そのものの価値に着目するということである。

要素間の主従関係をゼロクリアする

デフレーミングの議論に戻ると、その第一の要素「分解と組み換え」は、既存のサービスやシステムの機能を一旦分解し、その内部要素を組み替えて新しいサービスを作っていくことであった。その際、内部要素間の関係には一定の主従関係が存在する。たとえば「物販」のために従属する要素としての「決済」や、「視聴」における財政上やむを得ない要素としての「広告」である。

こうした要素間の主従関係を一度ゼロクリアし、それぞれの要素自体の価値に着目するということが、脱構築のDXへの応用の第一歩となる。

こうした考え方には、既にその萌芽が見られている。例えば、「視聴」における財政上やむを得ない要素としての「広告」については、博報堂がデジタル広告そのものを価値と見なして、トレーディングカードのように収集可能にするサービス(Collectable AD)として展開している。

また、ブロックチェーン技術は情報の秘匿-そこには情報を持つものと持たざるものの間にヒエラルキーが存在するーのために開発されてきた暗号技術と、P2P通信技術の組み合わせにより、第三者に依存しないフラットな権力関係にある人々によって運営される決済機能を可能にした。

こうして、従来の要素を含んでいた構造を廃し、新たな構造を生み出す形でイノベーションが進み始めている。

但し、アートとビジネスでは異なる部分もある。アートの場合には、既存の構造を疑い、問い直すこと自体が作品としての価値をもたらす。その一方で、ビジネスの場合には、既存の構造を廃したうえで、別の構造を構築、実現することが、実社会のサービスとして機能するためには必要である。

また、もっと言えばビジネスとしての成功、すなわち利潤の獲得という目的そのものが、メタな意味での構造を規定している。もちろん、アートの場合にあっても、受け手にとって何かをもたらすというメタな合目的性は存在するが(芸術の目的性については、さらに議論が必要なところである)、ビジネスの方が明確な構造の必要性は強い。

脱構築がDXに当てる新たな光

これまで見てきたように、現代美術における脱構築は、社会における様々な要素を取り巻く構造や文脈を廃し、問い直し、フラット化する営みである。こうした考え方は、DXとデフレーミングに新たな光を当てるものである。技術を単に分解するのではなく、技術やコンポーネント間の主従関係、利用者も含めた権力関係を問い直し、フラット化し、組み替えることの可能性に気付かせてくれる。

その一方で、将来的には、メタな構造や合目的性、すなわち利潤の追求といった前提までも問い直し、技術の価値をこうした構造から分離して考えるということもできるのかもしれない。

アート思考には様々な側面があるが、こうした考え方に気付くことができることが、重要なのではないだろうか。


注1)ロザリンド・クラウス(2019)「ポスト構造主義と脱構築」『ART Since 1900 図鑑1900年以後の芸術』, pp.42-50.

謝辞
本稿の内容に関連して、東京大学大学院情報学環「アート思考によるイノベーション創出手法に関する研究プロジェクト」のメンバーより多くの知見や示唆を頂きました。



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