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インバウンドの話ですごく気になることー謎の多い日本をどう捉えるか?

水際対策の撤廃でインバウンドが加速しているようですが、前々からインバウンド論議に関してすごく気になっていることがあります。

それは海外からの個人旅行客の増加現象と海外法人レベルのビジネスへの意欲向上が、相関関係にほぼないように見えることです。しかも、受け入れる日本側のどこの方針や戦略を見聞しても、相関関係を作ろうとの意図も意志も見えない。

実は、本テーマは次のような記事と関連するのですが、このことにピンときていないインバウンド論議が多すぎる、というわけです。日本は外国人には住みづらい、との部分です。京都精華大教授 ウスビ・サコ氏の発言です。

推計人口では外国人が増えると見込まれる。ただ今の日本は外国人には住みづらい。日本では外国人は労働者としてしか捉えられていない。同じ日本に住む人間だという意識がない。入国は「管理」するのでなく「支援」すべきだ。

外国人は住まいや仕事を見つけるのが難しい。医療機関や市役所は英語を含めた多言語対応を一層進めるべきだ。今のままでは日本に旅行で訪れる外国人は増えても、住む人は増えないだろう。

外国人が住みやすい国に

ここでは多言語対応の不足という点が強調されていますが、ぼくが言いたいのは、そもそも日本のライフスタイルが他国の人からの憧れを生んでいない、という点です。それをどう考えるのか? 何事もビジネスに結びつくべきと言うわけではなく、ビジネスに結び付きにくいとの現象に大きな問題が潜んでいることを指摘したいです。

ユニークな生活行動様式は摩訶不思議でネタになる

ぼくは欧州に長く住んでおり、ここの人との付き合いが多いので、その経験から語ることが中心になります。インバウンドで比重の高いアジア圏の他国からの旅行客は別の見方をしているかもしれませんが、ぼくが付き合いのあるアジア圏の人たちの声からすると欧州人の指摘とダブることも多いので、それなりに広範囲に適用できる傾向でもありそうです。

日本に旅する人は、ものの考え方から生活行動様式まで含め、ユニークな経験ができることに旅の魅力を感じている。もちろん、自然の風景にも惹かれますが、2003年公開のソフィア・コッポラによる映画『ロスト・イン・トランスレーション』に登場するような、翻訳不能なシーンの連続--
「外国人のあなたがどう思うかは知らないが、これが日本のスタイルだ!」--を面白がりたいのです。

翻訳不能でありながら、夜中の街であろうと、背後から首を絞めあげるような輩がほぼいないため、安心して謎を謎と受け止めて楽しめます。

日本は安全で安心できるから海外から人が来るとの言説があります。これだけだど不十分な説明で、「安心して謎な行動パターンに満ち溢れる世界に身を委ねられる」との意味が隠れていると考えると良いでしょう。

謎のど真ん中で生活したいとは思わない

この謎は、大きく2つに要因をタイプ分けできます。ハイコンテクスト文化と形式重視です。

ハイコンテクスト文化とは、文化人類学者のドワード・T.・ホールのリサーチに基づく、言語化を重要視しない地域文化(あるいは花瓶が描かれた絵画の背後から意図を読もうとする文化)を指します。対してローコンテクスト文化は言語化を重要視する地域文化(あるいは花瓶が描かれた絵画は花瓶だけで意図を読もうとする文化)です。

日本は前者に属し、暗黙知が通用しやすい文化です。言葉によって説明する習慣が相対的に乏しいため、自らの価値観を外国人に対してそのまま適用する無理を意識しづらい。結果、外国人にとっては翻訳不能な行動が多くなります。

もう一つが形式重視です。それがルールや正解への過度な依存に繋がります。日本語しか記載されていない名刺でも、その名刺を外国人に渡そうとするのも一例です。名刺を渡すこと自体に意味があると思い込んでいるわけですが、情報が読み取れない名刺を受け取った外国人にとっては迷惑千万です。クルマがいないのに赤信号だから横断歩道を渡らない、たとえ1分出発が遅れても、謝罪する新幹線のアナウンスも同様でしょう。

これらは奇妙なシーンだから、動画のネタにはなるし、同国人への土産話としては受けます。謎であるから考えさせもします。どうして、日本の人はあんなにも律儀にカタチを重んじるのだろう、と。しかし、同時に、毎日、あんな窮屈な生活は自分はしたくないけど、と。

だいたい、労働を優先した人生に喜びを見いだし、それを謳歌している様子がまったくうかがえないのです。

生産性の低い行動様式とはコラボしづらい

新幹線の驚異の運営には賛辞を捧げ、願わくば、自分の国でもそうであって欲しいとも思います。

だが、条件つきです。自分はそうギスギスした仕事の進め方はしたくないので、誰かがやればいいんじゃない?だって、それだけ細々とやれば生産性落ちるだけじゃない、と考えるのです。OECD加盟諸国38か国中、日本は下位の生産性なのを日本滞在の経験で裏付けをしたような気分になります。

だから、日本の人がお客さんとして買ってくれるのなら喜んで付き合う。だけど、何かを一緒にやるプロジェクトのパートナーとしては遠慮しておこう。そう思います。だって、謎だらけは個人的休暇には楽しみだけど、ビジネスになればストレスが多いだけ、というわけです。

ストレスは言葉の通じなさもありますが、ここで言葉の通じなさとは、考えの筋道がさっぱり見えにくいがゆえに意思疎通に手間取る、との側面が強いです。自分の考えの筋道が唯一の正論である、または正解であるとの信念が強すぎる、ということです。形式主義的な傾向が、こういうところで顔を出します。

文化の見せ方に工夫があればことはマシになる

ある意味、工業的品質の高さを経済力の象徴としてきたのは、ハイコンテクスト文化と形式主義との点をプラスに転換してきたからといえます。他方、そこから新たな展開が期待されているからといって、こうした文化的特質を短期間で大きく変えようとしてもできるものでもないです。

かつ、繰り返しますが、ビジネスの成果が目標ではなく、ビジネスの成果がでにくい文化の問題がインバウンドで露呈している現実をとりあげています

とするならば、少なくても、インバウンドで魅力とされる文化的傾向が法人レベルのビジネスやコラボレーションの可能性を向上させるであろう文化の見せ方を、誰かが考えていかないといけない、ということになります。

言うまでもなく、ぼく自身も考えてさまざまに動いてはいますが、もっと大きな声にならないとどうしようもありません。

そして、長期的にはやはり、生活の質や日本で展開される人生が、このうえなく愛しいものであると、ナショナリズムとは無縁の次元で自然と語られるようになるのが望ましいです。

この2月、京都の丹後に一緒にでかけたミラノ工科大学のデザインの先生が、滞在中、ため息をつきながら話していたのが忘れられません。

日本の各地に素晴らしい自然や文化があるのはよく分かる。でも、日本の人は、それが世界一であるとか、世界から一番注目されていると語りたがる。しかし、言うまでもなく、多くのうちの一つが日本である。この急に顔を出す謙虚さの欠如が、国際的なコラボレーションの可能性を阻むのではないか・・・

今回の記事は、1月に書いた以下の記事の続きでもあります。

トップの写真©Ken Anzai




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