地味にコツコツのなにが悪いんや?ー平凡と非凡(下)
大手有名企業に採用されて、たった1か月、半年、1年でやめていく。あの有名企業に雇用されたということで、自分の非凡さをアピールできた。次にその大手企業にいたということを売りにして、次の会社に転職していく人もいるが、そんなキャリアのコンサルサントになった人に出くわして
えっ、こんなレベル?
と思ったこと、ありませんか?
派手なアピールをするのは個人の自由だけど、そんなパフォーマンスはどうでもいい。1人1人に投げかけたいのは
あなたは、どう生きるかという観念
1 簡単に有名になりたい人
無名で平凡な人が、コツコツ向上していく、なにかを追求していく姿は、とても貴い。たとえ平凡だとしても、コツコツと、日々人知れず努力して、実績が上がれば、誰かの目に留まる。ある日、非凡の存在になり得ることがある
それまで我慢できない
そんなに待てない という人が増えた
ある学者がノーベル科学賞を受章した。ノーベル賞を受賞する前は普通の研究者というイメージだったが、ノーベル賞をとった瞬間に、素晴らしい学者にみえてきて、威厳が出てくる。そのノーベル賞に値する研究成果を上げる姿の日常は
地味で、コツコツだった
起業ブームである。みんな、簡単に起業しようとする。株式投資みたいに、パッと投資をしてパッと儲けたい、戦略もなく、簡単に成功するようなイメージをもって起業する人が多い。世の中に飛び交う、だれかの巧妙な成功話に煽られ、一攫千金を夢見る。社会から
地味に、コツコツが、消えかけている
地味でコツコツには時間軸が必要だから、若くして非凡な人には、なかなかなりえない。本来、成しえないけど、藤井聡太さんや大谷翔平さんやオリンピックで活躍している選手のように、若くてもすごいコト、水準をなす人が現れる。当面無敵だと思われていた藤井八冠を、失冠させたのも同学年だった。続々とすごい若者があらわれだしている
バレー教室に通っていますとか、水泳教室にいってますぐらいの平凡に見えた子どもの努力の先に、ある時、スポットライトがあたって、非凡な存在として社会にクローズアップされる
彼らは社会から注目される前は何もしていなかったかというと、圧倒的に努力している。藤井くんや伊藤くんは、小さな子どものころから社会に注目されようとされまいと、鍛錬を重ねて、あのレベルになった。水泳や体操や卓球の選手だってそう。小さい頃に地元で話題にはなっていただろうが、無名で地味だった。しかし練習を続けることで、そうなった。そんな彼らの活躍を見て、感動して誇らしくなるが
私には無理。
私はなれないと思う
科学技術やビジネス分野では、野球・スポーツや将棋の世界のように スーパースターがでてこないのは、頑張っているレベルが
成果をだすまでの頑張りになっていない
頑張りが足りない
そこまでの頑張りをしないと、世界的、社会的に非凡としてクローズアップされない
みんな、どこかで、頑張らなくなった
1990年からの「失われた30年」の後半ぐらいから、「なんちゃって」が増えすぎた。インスタントが横行して、パッと簡単にそれなりのモノができるが、本物ではない。ニセモノばかりでは、チカラが落ちる。やはり本物が必要である。社会には無名で目立っていないが、本物がいなければならない。目に見えることをさらに目立たせる時代の風潮だが
平凡の中から
本物を発見しないといけない
もっと人間性を見極める。この人はよく言うこと聞く、こいつは誠実だ、そういうヒューマンなウエットな話じゃなくて、その人の本当の実力を見極める
組織のなかだったら、あの人は、人付き合いが悪くて、態度はでかくて、どっちかというと一緒に仕事をしたくない、しかし実力はすごいという人がいる。そんな本物の人を見出して、自分たちのパートナーとして組む。そういう人を発見して、活躍の場をつくっていかないと、組織は強くならない
2 平凡とは、ぼんくらではない
平凡とは、どういう意味か?
平凡は「へいぼん」と読み、なにか「ぼんくら」に通じるように思うが、ボンクラのボンと平凡のボンとは違う。凡とは、みんなが使える物、凡例と書くと「はん」と呼ぶ。広く、例として通用する事柄を「凡例」という
凡とは幅広くあること、最も平均的なところが平凡。平凡って言ったら、ちょっとつまらないようなイメージになるが、そうではない
たとえば平凡社という出版社は、百科事典で一世を風靡した、学術・教養に関する書籍を出版する創業100年の出版社である。平凡社は、平凡な人たちに読ませたいから平凡としたのではなく、みんなが知っておかねばならないような本を世に拡げたいから、社名を「平凡」と名付けられたのだろう
新聞もそう。新しく見聞きしたらいいことを発行するのが新聞。ニュースのニューはNEW(あたらしい)。だから新聞は新しくないといけない
漢字・語源には意味があるのに
多くの人はいい加減である
コロナ禍の禍というのは、元に戻らないという漢字である。Well・Beingは佳く生きる。この言葉は誤解されている。ほとんどの識者たちは、福祉とか健康とか幸せとかいう。しかし文字・漢字には哲学が込められているが、それを追求しない、だから誰かの物真似をして、論点がズレている
3 自己責任がないWell-Beingはない
X、フェイスブック、インスタ、YouTube、TikTokなどの投稿コンテンツが激常軌を逸脱して、ヤバイ、トリッキーな内容も氾濫している。いいね、フォロワー集めにやっきに、過激さが増し、生成AIを駆使したこの世にないようなコンテンツがで大量生産され、現実か仮想、夢か幻かの境界が溶けている。ボルテージがどんどん上がっているが
そんなの、ほっとけばいい
どうせ、皆、読まなくなる
それをありがたがる人はありがたがればいい。普通の人はもう飽きたと感じて、辞めていく
ただ、そういうものに煽られる人はいる。幕末の日本に、誰かの謀略で、お伊勢さんのお蔭参り、ええじゃないかのような集団ヒステリー行動が定期的に流行した。それが尊王攘夷、倒幕運動に繋がっていった。現在の渋谷ハロウィンの喧騒や阪神タイガース優勝時の道頓堀飛び込など、幕末の空気にどこか通じる
しかしそこに新しい価値観の尺度が入ってこないと、いつまでも裸おどりである。人間は煩悩に近いレベルで騒ぐ。性欲とか食欲のレベルで騒ぐようになる。だんだんボルテージが高まり、生命の危険を冒すとか、やってはいけないことをしようとする
また簡単に手にいれたがる、成果を出したがる。そのために、既存の有名な集団に加わり、便乗して、目立とうとする。平凡では、人は寄ってきてくれない、動かない。だから非凡を演出する、人とは違うこと、目立つこと、過激なパフォーマンスをする。そして「非凡」の人と世の中は思った
たとえば毎日見る、乃木坂46などアイドルグループもそれぞれ卒業していくが、その後どうなるのかが、結構深い。ほとんどのアイドルが、名もしれず忘れられていく
つまり平凡だったのだ
普通だったのだ
しかし平凡の中に優れたものがある本物の人は、突如そういう名もしれないところから、将棋の藤井聡太さんじゃないけど、頭角を現して、実力を発揮するようになる
これからの日本を生き抜くためには、目立つ「ニセモノ」に振り回されるのではなく
平凡の中から、価値ある本物の人を見出す
という視点がないといけない。そして、自分も、地に足をつけ、地道に、コツコツと、日々努力する、日々成長していく。そして新たな価値観がある
Well-Beingを志向する
Well-Beingとは、佳く生きること。自己選択できる、自己決定できるワーク&ライフをめざす。とても大事な価値観で、いいことずくめであるが、重要な必要条件がある
選択の自由と決定の自由に
責任をセットしないといけない
結果としての自己責任。これがない人が増えている。自由に選択して自由に決めて、たとえば子どもができて、パートナーに経済力がないから、社会に助けてくれというのはどうなのか。自分が望んで、若くして子どもを抱えたが、離婚した。その結果責任は負っていかないと、社会モラルは破綻する
Well-Beingには、自己責任がある
そのことを忘れてはいけない。自由に自己選択して、自由に自己決定した、その結果は、自己責任である
コロカ感染10日目の朝、ようやくコロナ陰性となり、隔離生活が解除された。長かった。コロナを舐めたらあかんと思った
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