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「誰のものか」=「所有・帰属の概念」と考えると、会社は誰のものでもないし、誰のものでもある

今回のCOMEMOお題はこちら。

なかなかに難しい、哲学的なお題である。
株主のもの、創業者のもの、従業員のもの、顧客のもの、社会のもの、ブランドのもの、、、、などなど会社と関係性を持つ色々な主体について考えてはみたものの、腹落ちのいく論理にまとまらない。

そこで切り口を変え、「何かが誰かのものである」=「所有・帰属」とはどういうことであるか、から考えてみることにした。

(1)いつも使っているiPhoneは誰のものだろうか?
これは疑問の余地なく、筆者のものである、と言えそうな気がする。
なぜか?
考えるに、
・筆者が自分のお金で、自分のために購入していること
・電話番号・Apple IDなど筆者固有のIDに紐づいたサービスを利用するための機器であること
・実際にユーザーは筆者のみであること
の3点が要件でありそうだ。

(2)自宅の車は誰のものだろうか?
筆者の自宅には車が二台ある。筆者が趣味で乗るものと、家族で共有しているものである。
趣味の方は、筆者のものである、という感覚がある。iPhoneと同様の要件を満たしているかどうか考えてみると、
・筆者が自分のお金で自分のために購入していること
・車体番号が公的な所有の証として登録されていること
・実際にユーザーを筆者のみであること

と、iPhoneのケースとほぼ同様である
家族共有の方はどうか?
この車もかつては、筆者のみが使っており、現在の趣味の車と同じ感覚であった。だが今はその感覚は薄い。
趣味の車と比較すると
・筆者が自分のお金で、(かつて)自分のために購入した
・車体番号も筆者と紐づいた形で登録されている
・ユーザーは筆者のみではない

という整理になる。どうやらユーザーが特定できるかどうか、ということは、所有・帰属を考える上で重要なポイントになりそうだ、ということがわかった。

ユーザーが特定できる、とはどういうことだろうか?
家族で共有している車は、使い方を家族で合意すべきである、という観点から完全に自分の自由にならない。しかし趣味の方はそうではない。
そう考えると、「ユーザーが特定できること」の背後には、自分の裁量で使い方やありようを決められるという感覚がありそうである。

一方で、この共有の車は、筆者のものという感覚は薄いが、筆者の家族のものである、という気はする。
もしこの車が盗難に遭ったら、筆者は当然のこととして被害届を出し、犯人探しに乗り出すだろう。
ということは、誰かと共同で何かを所有する、とか、複数の人に何かが帰属する、ということは人の感覚と矛盾しない、ということである。
ただし、その感覚の強さは、自分個人による所有の方がより強いように思われる。

(3)友人に贈ったワインは、誰のものだろうか?
読者が誕生日や引っ越しのお祝いで、友人にワインを送ったとしよう。
小粋な演出として、そのラベルに「XXX君へ、XXXより」などというサインをしたことにもしよう。
このワインは誰のものだろうか?
・読者が、友人のために購入した
・製造番号などは書いていないが、読者のサインが友人のものであることを暗示している
ということを考えると、友人のものである、と感じられる。

ここで一点面白いのは、してみると、所有の感覚の要件は、「誰が払った」よりも「誰のために払った」ということが強そうだ、ということである。

誰がユーザーか、という論点についてはどうだろう?贈った後のことなので、これは送り主にはわかる由もないことであるが、仮にこの友人が心無い振る舞いに出て、せっかくのワインを誰かにあげてしまったらどうなるだろう?
「誰か」にあげる、という行動に出た時点で、友人の心の中にあまり強い所有や帰属の感覚がある、ということは考えにくいが、強いていうのであれば、
友人としては、『このワインは自分の裁量により「誰か」に送ったものであり、送るまでは自分に帰属していたが、そのあとは「誰か」のものになった』と感じているのではないかと思われる。
一方で、もらった「誰か」にしてみたら、ラベルに書いてあるサインが強いメッセージとなり、もらってはみたものの、友人のために見知らぬ人が購入したものを貰ってしまった、という座りの悪さを感じるのではないだろうか?
しかし、サインがなければ話は別で、きっとなんの抵抗もなく「貰ったのだから自分のもの」という感覚に落ち着きそうだ。
ここから言えそうなのは、IDをふるなり登記するなりサインをするなりして「誰かのためのものである」ということが記されていると、所有・帰属の証票になりそうだ、ということである。

(4)「僕の街」は誰のものだろうか?
KANさんの名曲「プロポーズ」に、次のような一節がある。
「僕の街に、大きな公園があるよ」

「僕の街」の「の」は所有や帰属を意味する助詞であるが、この歌詞は主人公の住む街を、主人公が所有している、ということなのだろうか?

・・・といったややこしい理屈はさておき、自分の居住地を、「僕の街」という感覚は、筆者にもとてもしっくりくる。
それは何故かと言えば、自分で選んで住んでいる街のこと、好きなところがたくさんあるし、長年住んだ結果としての愛着もあるからだ。
しかし、だからと言って、自分の居住地を、自身が所有しているなどとは思わないし、自分の居住地が自身に帰属している、とも思わない。
どんなに自意識高く考えたとしても、せいぜい、自分はこの街に住んでいる30万人の一人として、なので街らしさの30万分の1を構成している、とか、自分が居住地に帰属している、という程度のことだろう。
ここから言えそうなことは、人は自分の好きなこと、愛着があるものなどに対して、所有や帰属に共通する感覚を持つことがある、ということ、そしてそれは人→もの・ことという所有とは逆方向の帰属だったりしそうだ、ということである。

誰のものか、すなわち「所有する」「帰属する」ことについて、他にも考えなければならない要素やパターンはまだまだありそうだが、キリがないので一旦これくらいにしておく。また所有の感覚は、その対象となるカテゴリとユーザーの関与度により全く違う様相になるが、これを論じ始めるとさらに複雑になるので、やはり一旦横においておく。

そろそろ本題の「会社は誰のものか」について考えると、この問いが難しいのは、何かが誰かのものである、ということが複層的かつ複雑な構造をしているからだ。
株主を主語にして考えると、「誰のために払った」「証票」あたりが論点になるし、従業員を主語にして考えれば「共有」「愛着」「好きなもの」「逆方向の帰属」あたりが論点になる。社会や環境を主語にした場合も、従業員と同様に思われる。

会社というものは、一種のハコであり、
・一人ではなしえないことを複数人数で達成するための仕組み
・一人では置いきれない責任を限定的にするための決め事
という目的のために考えだされた知恵でもある。

もとより複数のステークホルダーの複雑な構造を想定しているのだから、これの所有を問えば、問われた方の価値観や考え方によってさまざまな議論になることは、すなわち自然の成り行きだと考える。

読者の皆さんのお考えは、いかがであろう?


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