【COMEMOの視点】五輪運営、ボランティア活用はなじむのか
岩村 高信(日本経済新聞社社会部次長)
2020年東京五輪・パラリンピックに向けたボランティアの募集が始まりました。ボランティアは近年、五輪の大会運営に欠かせない存在となりましたが、大会組織委員会が示した応募条件が「10日以上」「1日8時間程度」とハードルが高いうえ、原則無償であることに、交流サイト(SNS)を中心に「やりがい搾取」などと議論が巻き起こっています。
世界的なイベントに参加することのやりがいやボランティア同士の交流など、五輪でなければ得られない体験がある一方で、そもそも高度に商業化した五輪に無償のボランティアがなじむのかという指摘もあります。みなさんはどうお考えですか。ご意見をお聞かせください。
【議論のヒント】
〇ボランティアは組織委が募集する「大会ボランティア」と、東京都などが各都市が募集する「都市ボランティア」の2種類に大きく分けられます。大会ボランティアは会場内の案内や関係者車両の運転、ドーピング検査の補助など大会運営に関わる活動が多く、募集人員は8万人。都市ボランティアはターミナル駅などで、競技会場までの交通ルートや観光地への行き方といったおもてなしの役割を担い、都が3万人募集します。
〇ロンドン大会では約7万8千人、リオ大会では約5万6千人がボランティアとして参加しました。原則無償ですが、リオ大会では人員を確保するため、観光や交通案内などを担う約1700人を「シティ・ホスト」として有償としました。東京大会で組織委は交通費相当額として、1日1千円をプリペイドカードのような仕組みで支給する方針です。
〇なお、組織委や都は大会の総費用を、昨年12月時点で1兆3500億円と試算しています。競技会場などハード部門で7050億円、警備や大会運営、通信環境の整備などで6450億円を見込んでいます。
コメント
■岩村 高信(社会部次長 日本経済新聞社)
皆様、多くのコメントをありがとうございます。大会組織委員会によると、募集10日間で大会ボランティア(8万人)に応募したのは約3万2千人。男女ほぼ半々で、幅広い年代から応募があり、外国からも一定割合あるようです。
平野様、ブラジルのご経験からのご意見ありがとうございます。
>ブラジルだと(不況ということもあり)就業体験を得ることに価値が置かれるので、五輪に限らずスポーツイベントに前向きにボランティアに参加する人は多いです。
ボランティアの捉え方は国によって少しずつ異なりますね。ボランティアをスキルアップの機会にするという考え方は1つ参考になりそうですね。
清村様、3つの条件は大事な視点ですね。
>大会全体の国・自治体予算とその執行を正確に可視化すること。
大会準備が本格化していくなかで、高コスト体質になっていないか、東京都や組織委員会の予算の使い方のチェックは欠かせません。
麻生様、匂坂様、近藤様、人員確保は大きな課題になりそうです。
>自分の生計を考慮した結果、参画を断念せざるを得ない人が多いのではないかと存じます。
>10日以上、8時間程度が応募条件ならば、フルタイムの勤め人だと厳しいですよね。
>仕事(?)単位で帰って良いなど、敷居を下げる方が楽しく参加できると思います。
組織委によると、参加条件は過去の大会と大差ないようです。ただ、誰もが参加しやすい大会にする柔軟さがあっても良さそうですね。
basementapeさん、ご意見ありがとうございます。
>私たちの頭の中は、「いったい何のためにオリンピックをやるのだろう?」という疑問でいっぱいなのだ。
64年と違って、メッセージが伝わりにくいのは確かですね。ボランティアの参加をめぐる議論の根底にはそうしたこともあるかもしれません。
五輪ボランティアをめぐっては多くの論点がありそうです。引き続き皆様からのご意見をお待ちしております。
■平野 司(ブラジル事業サポート tks brasil代表)
ブラジル在住で、リオ五輪も間近で見る機会に恵まれた者としての考えを述べます。
ブラジルでは、サッカーW杯とリオ五輪が2014、2016年と立て続けに開催されました。そのボランティア・プログラムは、テレビでしか見ることのなかった世界的なスポーツ・イベントに自ら関われる制度として好意的に見られていました。日本のような「やりがい搾取」とまでの批判は起きていません。一方で議会では、FIFAが開催にあたり大量の労働力を無償で集めなければならないことに疑問を呼びかける声も出ていたのも事実です。元々ブラジルには、公的機関やNGOがボランティアを募ることに一定の制限が法的にかけられているからです。最終的に成立した「W杯法」では、W杯や五輪に続く伝統をブラジルの都合だけで中断させられない、そして先進国に追いつくためには今更そんなみみっちいことを言っていられないとの考え方から、例外扱いでボランティア募集を認めたという経緯があります。
リオ五輪では何度かに分けてボランティアが選抜されましたが、最初に合格した5万人のボランティアの内訳は:
・ブラジル人82%、外国人18%
・リオ州内から46%、他州からはサンパウロ州21%など
・外国人は米、英、ロシア、中国からが大半
・55%が女性
・25歳以下が40%、26~45歳までが40%
・ブラジル人の40%が被雇用者
となっています。ここに被雇用者(要するにサラリーマン)が40%もいるというのはブラジルらしい数字かもしれません。五輪の開催期間に重なるよう休暇をとるつもりだったか(法令で30日までの休暇が強制取得のため)、あるいはそれまでに会社を辞めると決めていた人なのでしょう。一方で、蓋を開けてみれば3割強が実際にはボランティアの現場に現れなかったということもありました。ユニフォームなどのボランティアキットだけを受け取ってどこかに行ってしまったわけです。このように、組織委が頭を抱えたのは、批判というよりもむしろ応募する側のモラルや責任感に対してでした。このことについてリオ五輪組織委は、彼らがどういう理由でボランティア参加を断念したのか理由を把握していない、そしてボランティアである以上は参加の強制はできないという回答をしています。立場上もっともな回答ですし、そもそもボランティアとは、このようにお願いする・お願いされる側が対等な立場でなければならないのは忘れてほしくないと思います。
ということで、ブラジルでは五輪の商業主義こそ批判にさらされはしたものの、ボランティアを「やりがい搾取」とまで表現する批判はほとんど起きませんでした。元々ボランティアというものが根付いている土地柄だから、というのもあったと思います。教育・医療・災害の現場で行政が単独でサービスをカバーできないため、誰かに期待して待っているよりは、お互いでできることはやろうという互助精神が元々彼らにあるのです。そこに世界的なイベントがやってくることで、それに関わりたい、普段出会えない人と接点を持ちたい、ブラジルにまでわざわざやってくる人たちの力になりたいという前向きな気持ちを持てた人こそ応募したわけで、応募するつもりのない人が外から批判を加えるという光景は見られませんでした。
そもそもボランティア・プログラムとは、出場するアスリートでもなく、五輪組織委員会の開催に直接関わる人でもサプライヤー企業の関係者でもない人であっても、イベントに関わることができるようにするものです。つまり関わりたい人が関わればいいだけの話であって、募集条件が合わないと感じる人にまで応募を強制しているものではありません。
「やりがい搾取」の批判は、募集要項を一般の求人と横並びで見比べられてこそのものなのでしょう。現実にいい条件の求人がないことへの不満のはけ口に祭り上げられているように感じます。その不満自体は別にあっていいものなのですが、会社の求人条件に不満ならば、五輪ボランティアと議論を混ぜこぜにしなくてもいいのでは?と思います。ボランティア活動に参加することが苦でない人、価値を見出す人も一定数はいますし、例えば学生がイベントの現場を見るいい機会と捉えて、インターン的にボランティア参加するのは、立派な1つの志望理由です。ブラジルだと(不況ということもあり)就業体験を得ることに価値が置かれるので、五輪に限らずスポーツイベントに前向きにボランティアに参加する人は多いです。そういう活動に参加することが認められる一面もあります。参加したことは履歴書にも書けますし、それを見て評価する人はするのです。
一方で、ボランティアは誰かが強制した時点でアウトです。例えば協賛企業に呼びかけが行われ、その会社が社員にボランティアに参加させる業務命令を出したとしたら、有給であったとしてもボランティア精神に反します。無給でボランティアをさせるのはこれはもう論外で、これがブラジルならば労働法違反に問われてしまいます。企業は労働裁判の火種をとにかく抱えたくないので、そういう方向の発想にはなりません。
最後に、「五輪ボランティア活用はなじむのか」というテーマについて。個人的には、五輪とはアマチュア競技の共同大会が化け物級に大きくなったものというふうに捉えているため、「ボランティア活用がなじむ・なじまない」というよりは「ボランティアの活用があってもなんら問題ない」ように考えます。
ただし、今の日本には馴染みにくくなっているのかなとは感じます。
これは、五輪精神と無償ボランティアを批判的に捉える人のどちらが正しいか・正しくないかの問題ではなく、日本の環境にそれを受け入れる土壌がそこまでなかったということなのでしょう。日本では、ボランティアとは「本当に困っている人を助けるための行動」であるというイメージが強いですし、ボランティアをしに行くほどの時間的・経済的余裕を現実に確保しにくいこと、会社などの労働環境がそれを許さないことがあります。それに加えて、労働者給与が思うように上がらないことへの不満が「やりがい搾取」批判現象として表に出てきているのだと考えます。
イベントとは元々手作りであるもので、人間なくしては成り立たないものです。近所の盆踊り大会でも、町内会の人たちはボランティアで動いていますし、一方で出店はお金を稼いでいます。五輪も本質的には同じなんですよね。ただ規模が巨大すぎる五輪の場合、大会運営者はボランティアでは務まらないから職員がいるわけですが、その報酬に関する議論はボランティアとはまた別に話されるべき問題。
そういう意味では、リオ・パラリンピックは本来五輪が目指していたものはこういうものではなかったのか、という参考になりました。
それぞれの競技団体の規模が元々小さく、スポンサーも付きにくいことで彼らの持ち出しが大きいこと、方や入場券が高価な五輪に比べて地元の家族連れで埋まる会場、スーパーアスリートたちと比べて無名の選手であっても一生懸命プレーする姿に声援を送り一体となる会場、生き生きとしたボランティアの姿。ここには五輪精神の原点が見られた気がしました。せっかく東京でもパラリンピックが開催されるので、この点を一考するのに観戦に行かれることを皆さまにもオススメします。
■田代 弘治(厚生労働省)
たとえば、行動経済学の視点から意思決定や選択を考えると、インセンティブという内発的動機およびモチベーションという外発的動機が意思決定等に影響を与えるとされる。献血の事例が挙げられることもあるが、献血者に金銭的報酬を導入したところ、献血への意欲を高めるのではなく、逆に低下させたとの結果もある。
東京オリンピック・パラリンピック2020のボランティアは、学生の参加が大学における単位として認定されるかどうか等も話題となっていたが、行動経済学による視点から見ると、外発的動機による自発的な参加の仕組みのボランティアを増やした方が望ましいのかもしれない。
東京オリンピック・パラリンピック2020のボランティアは登録フォームの改善もインターネット上では提案されていたが、1964年の東京オリンピックが高度成長への希望を与えたように、2020年も多くの人への良い影響となるよう大会の開催が期待されると考える。
(参考)『お金があれば人の行動を縛れるという勘違い 行動経済学が解く「モチベーション」の謎』(東洋経済オンライン、 2018年9月18日)
■毅 林(無職)
オリンピックの運営に、一般ボランティアの参画が必須であるかのような進め方に疑問を感じます。オリンピックは、(以前のように)主催者とその関係者(競技者やその関連の人たち)によって運営できるように計画するのが筋であろうかと思います。それでも足りない場合に、いくばくかの一般者の協力はあってもよいと思います。しかし、8万人という目標人数を決めて、一般の方の参画を求めるような事であれば、その運営計画に無理があるものと思います。もちろん、海外から訪れた方々に、街角で何か聞かれれば、それには対応しますし、「おもてなし」することには異論はありません。ボランティアという言葉に「強制」や「参加しなければ後ろめたい」ようなニュアンスが含まれることを危惧します。
自然災害が心配されるこの頃、2020年のオリンピックが無事に終われることを祈るばかりです。
■常川健二【Always river代表】
ボランティア減税を提案します。今後の予算について不足分を国民の善意に頼ざるを得ない状態があるとすれば、
国家としては、有形無形の支援について補償を行う責任があるのが福祉面としては当然。
不足財源は、行政当事者や立案者の現棒で補てんします。
認定された活動についての労務の提供はじめ、その貢献については税負担軽減という形で補償すべきです。
労務の提供には1回、1000円の減税を行い、寄付や物品等の提供については寄付控除を拡大し減税を保証。
ふるさと納税のボランティア版と認定することにより、幸甚災害や海外災害や支援についても、国家に代わる
個人の貢献であるので、同様に認定する。これにより、東京だけでなく、地方大会や合宿地でも老若男女すべてに
減税機会を与えるのが、平等な対応と考える。
しかし、霞が関や永田町の無策な計画に、国民の協力を仰ぐのは徴兵制度と同じであり、愚策である。
今後も国民の支援を仰ぐのであれば、ボランティア活動と寄付については、それなりのメリットを与える必要が
あり、国会議員、国家公務員もボランティア活動状況を明確にする必要がある。
五輪委員会のお偉方も休日に草むしりでもやって、「上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし」ということ
今回、来てくれたら1000円、記念になるだろうから参加して・・・等の上から視線は見直すべきであり、
失策を素直に認め、心から「お助け下さい」という姿勢が必要でしょう。
■正弥 清村(清村歯科医院院長)
なじむ条件が整っていれば、五輪にボランティアは「なじむ」、と思います。
条件は次の3つ
1.ボランティアの定義理解が、募集側と応募側とで一致していること
→定義のズレが原因で外野を巻き込んでゴタゴタするのが一番ばからしいことです。
2.無償ボランティアとするなら、大会全体の国・自治体予算とその執行を正確に可視化すること。
→あいつは儲かっているのに、オレはタダ働きだ!というやっかみ議論も避けたいところです。
この点で、会計検査院からの五輪予算範疇に関する指摘は、小さくない意味合いがあると思います。
3.五輪の準備や運営の予算は、元々は自分たちが負担した税金であるけれど、予算執行で実際の事業にあたる業者は、当然のことながら、そのことで正当な利潤を得ていること、さらには、そこに表からは見えない各種利権も付随しているであろう、と飲み込めること。
これらを踏まえた上で、自分は無償であろうとも東京五輪のボランティアをしたい、一生の思い出を作りたい、と言う人は存在するのではないでしょうか。そういう人たちを募集してのボランティアなら「なじむ」と考えます。美しい言葉や高尚なイメージで実態が包み込まれてしまった「ボランティア」だと、実際に中味が見えたときに、話しが違う!となってしまいます。
■taka M(会社員)
交流サイトの議論をあたかも多数意見として扱う危険さを感じました。自国開催のスポーツの祭典に自分ができる範囲で参画する。ボランティア活動の基本理念を下に、できる範囲でできる人が参加すればいいと思います。いつから、このような交流サイトの狭量の小さい意見や考え方が、あたかも多勢の意見のような影響力を持ったのでしょうか。あくまで、意見の一部として、そういう意見の人もいるんだな、という程度でいいと思います。商業化された等々の批判は当然かもしれませんが、純粋に、4年に一度、世界が熱狂する貴重なイベントです。今一度、多くの事柄を受け入れてきた寛容な日本文化らしい柔軟な考え方で、オリンピック・パラリンピックを盛り上げていきませんか。
■麻生 大貴(株式会社クラウンアーツ CEO)
必ずしもボランティア=無償ということにはならないという議論は置いておきまして、「高度に商業化した五輪に無償のボランティアがなじむのか」という問いに対する私の答えは、「ノー」だと思います。
その理由としましては、多くの人が挙げられているように、必要な人員が確保しにくくなるということです。
学生ならまだしも、社会人の多くの方は、生計を立てるために日々仕事をしています。確かにオリンピックで、ボランティア活動をするというのはなかなか得られない貴重な経験だとは思いますが、
「貴重な経験を得るために無償のボランティアで10日以上、1日8時間程度の活動をする」
というのと、
「その分有給休暇をとってボランティアに従事する、あるいは仕事を休んで無給でボランティア活動をする」
というのを天秤に掛けた際、生計の厳しさなどから、後者を選択する人も多いのではないでしょうか。
ボランティアという言葉の意は、「自ずから進んで」という意味で、「無償で」というのは第一義ではありません。
ボランティアをしたいが、自分の生計を考慮した結果、参画を断念せざるを得ない人が多いのではないかと存じます。
だから人員の確保も困難になり、「五輪に無償のボランティアがなじむのか」という問いに対しては否定的です。
議論は異なりますが、「交流サイト(SNS)を中心に『やりがい搾取』などと議論」されているというのも、変な気分がします。
別に搾取をしているとは捉えられません。
大会組織委員会は、
「10日以上」
「1日8時間程度」
「原則無償」
という条件を提示しているわけで、その条件を呑んだ人が参画するわけですから、 大会組織委員会に非は一切ないものと思います。
ボランティアとして協力する代わりに給料を求めるものは、そもそもこのオリンピックのボランティアとして参加するべきではないと思います。
「搾取」という表現は、誰が使っているのでしょうか。
参画しているものは条件を呑んでいるわけですし、ボランティアに参加したいと思っていたがしなかったものは条件を呑まなかったわけですし、そもそも参加しようとも考えなかったものはボランティアにすら興味もなかったわけです。
ボランティア参画者が使っているのであれば、それならボランティアをやめればいいと思います。
条件を呑めず参画しないものが言っているのであれば、相当性格が悪いように感じます。
「ボランティアに参加したいが、搾取されるのが気にくわない」からと言っているように聞こえ、争点が無茶苦茶な気がします。
自分のメリットに意識を向ければ、参加すべきなのに、他人のメリットが大きいとわかれば、相手に旨味みを取らせたくないから参加しないという、本末転倒な行動に感じます。
実はこのような思考および行動は時たま散見され、正確な名前は忘れてしまい恐縮ですが、
「付加価値が大幅に上乗せされて消費者に提供されているということが判明したサービスの利用者が離れていった」という事態がありました。
元々は、そのサービスの機能や有用性が評価され利用者が多かったわけですが、提供主体が大幅に上乗せされた利益を得ていると知るや否や、そのサービスを使わなくなる人が増えたのです。
この行動は、非合理的だと思います。ゆえに、こうした行動をとる人は性格がひねくれていると思うのです。
だっていいサービスなら使い続ければいいわけですので。
自分が満足してさえいればいいのに、他人がより満足していることを気にくわないとする考えは、捨てた方がいいと思います。
いいことはありませんので。
脱線している箇所もあるかと思いますが、こうした「やりがい搾取」という表現がSNSで出ることに、そうした人々の性格の悪さを感じました。
自分は自分だし、他人は他人。
自分がしたければすればいいし、したくない、できないならしなければいい。
他人(今回の事象では大会組織委員会)のメリットを妬むことに、いいことは何もない。
そんなことを考えさせたのが、「やりがい搾取」という言葉でした。
改めて、「高度に商業化した五輪に無償のボランティアがなじむのか」という問いに対する私の答えは、「ノー」だと思います。
私の主張のポイントですので、再度述べさせていただきました。
■basementape(会社役員)
1964年のオリンピックは「平和の祭典」であることが喧伝された。きっと全国民が
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」という憲法前文を発信する機会だと考えたのだろう。
そのためには先進国であることのアピールが何より大切だった。シャムの王様が、ヨーロッパ人に見せるために舞台に紙の雪を降らせたように、新幹線,首都高速,今回のどの競技場よりも印象的な代々木体育館や日本武道館が作られ、積水化学が「街を清潔にする運動」を提唱すると、人々はごみバケツを競うように購入した(もちろんボランタリィに)という。バルセロナ以前のオリンピックには組織としてのボランティアなどは無く、個別に募集されていたようで、64年に通訳をされた方に聞くと、一定の能力のある若者たちに国際的な経験をさせようという教育的な側面がメインだったと言う。
さて、現在の我が国は、2008年の北京のように、「オリンピックが開ける国になったことをアピールする」必要は無いし、2012年のロンドンのように「ヨーロッパの一部ではないイギリスを声高に主張する」必要も無い([炎のランナー]にはしびれたけど)。
そう、私たちの頭の中は、「いったい何のためにオリンピックをやるのだろう?」という疑問でいっぱいなのだ。共有できる目的は示されず、錦織圭氏が「お客さんが死んじゃうんじゃないかと思って心配」などと発言する悲壮な状況で、「やるって言っちゃったんだからやるっきゃないでしょ」ぐらいしか、目的がないのではなかろうか。オリンピック誘致の中心にいた石原氏,猪瀬氏が表舞台に立っていれば、何らかの責任あるアピールができたかもしれないが今の知事にそれを期待する人もいなかろう。
ボランティアというのは無償であることが重要ではなく、自発的であることが大切なのであって、そのためには人々の心に響く何かが必要ではないのか。「ポリバケツを買わなくっちゃ」と思わせるほどのメッセージさえ、無い。あたらしいメッセージがないから「東京五輪音頭」を焼き直して恥じるそぶりもないのだろう。
ボランティを募集する側は、80時間以上の自分の時間を差し出すモチベーションをどう考えているのだろか。
いっそ、「ボランティアは高校生,学生に限る」「協賛企業が共同で、就職を保証する」「もちろん保証するに値する者しか採用しない」とすれば募集は軌道に乗るのではなかろうか(採用された者は「協賛企業が保証するに値する者」というメダルを得る)。
それにしてもロンドンやリオに比べても(コンパクトな大会のはずなのに)多いね。
■村野 孝直(BSテレビ東京「日経モーニングプラス」/COMEMOスタッフ)
皆様、コメントありがとうございます。
この問いかけ文を公開する以前に、COMEMOにご投稿いただいた投稿を何本か紹介します。
議論の参考にしてください(敬称略)
ボランティアって紛らわしい(川村雄介)
https://comemo.io/entries/10506
自ら蒔いた種は、自ら刈るんとちゃう?(ちょっと加筆)=吟遊詩人
https://comemo.io/entries/10466
ボランティア、「1日1000円」の意味(太田肇)
https://comemo.io/entries/10362
■匂坂三郎(みんなの社会科講師)
元の資料にあたらないとわかりませんが、10日以上、8時間程度が応募条件ならば、フルタイムの勤め人だと厳しいですよね。いわゆる主婦とか、学生とか、現状のままではできる人は限られてしまいます。国政選挙では、差し入れやらポスター貼り要員として主婦層が大量に動員されることが多いですけど、どうも組織委員会の発想は、そこらへんから来ているような気がしてなりませんね。勤め人がボランティアを通じて得られるものは、例えば様々な国の人々とのネットワークや、大きなイベントの運営ノウハウ(ごく一部であったとしても)など少なくないはずです。そして、このような経験は自分にも所属する組織にも還元されるはずです。なので、「やりがい搾取」までは言いませんが、少なくとも条件は緩和するべきです。もし自分がフリーランスであれば喜んでフル参加しますけど。。
■ヤフコメ寄りの民(芥)
情けは人のためならずって言うじゃない。
医は仁術なんて言葉もあるじゃない。
んでもって介護の仕事とかみたいに仕事量と報酬があってんのか怪しい仕事も多いじゃない。
みんなして人助け或いはそれに類する行為にやる側の善意を期待しすぎじゃね?
というわけでなじませようと(強制力コミコミで)努力したけど結局ダメだったに一票。
表向きは成功だったと発表する一方でSNSとかでは叩きで大荒れという展開。
少なくとも現在の条件では絶対そうなるね。
副業推進とか言ってることだし、この際ボランティアとかスッパリ諦めて、それ用の会社でも作ったら?
みんなにものすごく柔軟に「働いて」もらえばいいじゃない。
ちゃんと給料は・・・財源どうすっかな。
■後藤 (^^;
ボランティアのユニフォームに、ボランティア個人口座に入る広告を張り付けることを許可する・・・。
どの道、商業主義。ならば、ボランティアが様々な広告塔になってもよいのです、ハイ。
■吟遊詩人(世捨て人)
近藤さんは、いつも前向きなんですね。後ろ向きの自分が、ちょっと恥ずかしいです。
そこで、近藤さんの意見に乗っかって、
参加ボランティアには、オリンピックのメダルのレプリカを記念品として提供ってのはどうでしょう。
皆勤賞は金メダル、準皆勤賞は銀メダル、参加賞は銅メダル。
裏方さんたちにだって、メダルがあっても良くないですか?
きっと孫の代まで自慢出来ると思います。
本物はそれなりの原価のはずなので、見た目そっくりと云う方向でなるべく廉価に。。。
まぁ、集まらない、集まらないと大騒ぎしても最終的に集ります。
予言します。
土壇場になって、状況を見兼ねた協賛企業の有志社員が突如立ち上がり頭数が揃いますwww
■近藤 卓(Onefunc CEO)
個人的には、参加してみても思い出になるし良いとは思います。
以下は少しでも参加したいと思う人を前提に書きます。
現状の印象では、書かれているように条件が厳しいです。
無償である点は参加したい人にとっては全然重要ではなく参加条件や内容次第と思われます。
8時間という時間単位ではなく、仕事(?)単位で帰って良いなど、敷居を下げる方が楽しく参加できると思います。
現状では職務(?)がまだ完全に決まっていないので、あーいった大雑把な募集方法になってしまうのだとは思いますが、分かり切っている箇所は、ピンポイントで募集した方が良いと思います。普通の職と同じで人気の枠も存在するとは思いますが。
この場合、参加は何回でもOKという条件で、最低3個の仕事をこなすのが条件にするなどです。スタンプ的に3つ溜まればOKという感じなど。
これは、管理が難しいと思われそうですが、ITというか、エクセルでどうにでもなります。専用のウェブサイトなどあれば良いですが、なくても充分に管理できます。 もちろんエクセルはタダではないので、エクセルだとしてもアレですが。
オープンソースの資料共有ソフトを使うことや、何処かのスタートアップにそういった共有機能があるアプリをクラウドで一時的に購入するぐらいでも対応可能です。 できれば、僕のOnefuncPlanを使って欲しいですね。 予定を共有できますし、コメントもできます!!!(営業)
クラウドなら一気に対応できます。数も期間も自由です。 エクセルより、クラウドの何かですね。
なにより気になるのは、現状の募集方法だと参加する人にとって「手駒」感が強いです。 普通の職ではないのだから、「指示」の威力が違います。
知らない人に勝手に仕事を割り振られる状態。参加意欲がそこで削がれる可能性が高いです。 当日になって来ないなんてこともかなり想像できます。
しっかり職務を定義して募集した方が良い。
順番が日本企業の人事っぽい流れになっているので、個人的にこの募集方法は嫌いです。 企業とはパワーの関係性やモチベーション、動機が異なります。
また、この投稿で初めてボランティアの内容を知ったのですが、ボランティアにとって重い作業も含まれています。例えば、書かれていた中では、「関係車両の運転」です。
「参加募集したし、免許もあるけど、車の運転は危ないし、この仕事内容は嫌」という人も必ず出ます。
そこで事故ったら責任はボランティア運転手です。
高齢者の人も参加するとは思いますが、そこで後にひきづる何らかの事故などを起こしてしまっては、老後もツライです。
などなど、色々と問題はあるとは思いますが、募集の方法については、どの程度自由度があるのかも知りませんし、誰が決めているのかも知りませんが、ボランティアに参加すれば間違いなく10年後に話のネタになります。
「オリンピックの時に〜してさ〜」みたいな感じです。居酒屋のネタです。
参加できそうな人は、してみたら良いとは思います。
うまくマッチすると良いですね。それと、マッチするようにしっかり考えて募集した方が良いですね。
■太田肇(同志社大学教授)
すでに多くの人が指摘しているとおり、商業化しているオリンピックを無償のボランティアが支えるのは不自然であり、「やりがい搾取」の批判を受けるのはもっともである。
さらに別の視点から問題点を挙げるなら、ボランティアである以上、その趣旨からいって基本的にその活動は本人の自発性に委ねられなければならない。したがって上意下達式の指揮・命令が困難だということである。しかし実際の業務においては統制や指示に従わなければならない場合が多いので、ボランティアから不満が広がらないか心配だ。また、あくまでもボランティアである以上、たとえ事前に適格者を審査して選抜したとしても、いざとなったら仕事の質と責任を担保できるかどうかという問題がある。
つまり無償の貢献には、使う側にとってもリスクがともなうことを覚悟しなければならない。
■吟遊詩人(世捨て人)
もう、馴染むとか、馴染まないとかのレベルではないと思います。
五輪招致に至る過程では、表の金ではどうしてもこじ開けられないことがあるのは理解出来ます。そして、協賛企業から多額の資金を集めるためには、発注単価を引き上げる必要もあるでしょう。基本的には、こうするしかないのでしょうが。
今回は酷すぎる。
会場の予算が、当たり前かのように信じられない額に膨れ上がってしまったことから、よっぽどの空中戦があったと想像されます。
だからといって、
足らず米の資金をボランティアたちにケツを拭わせようとは、看過できないです。
更に最悪なのは、こうした議論が元になって、国の予算が追加され、国民一人一人の負担に帰結してしまうことです。
有識者の方々が、自信を持って、1日千円と決めたことなので、信用してみましょうw
きっと、11万人位簡単に集まりますよwww