
国際女性デーに向け、岡島悦子さんの記事を読んで思った3つのこと
お疲れさまです。uni'que若宮です。
今週土曜日、3月8日は国際女性デー。
日本ではジェンダーギャップが指摘されることが多く、まだまだ課題は多いものの、ここ数年僕自身も企業や自治体に講演にお呼びいただく機会も増えたり、着実にジェンダーギャップ解消への発信や取り組みが増えている実感があります。
客員准教授を勤めている長野県立大では(この立ち上げには僕はかかわっていないのですが)昨年の国際女性デーをきっかけにこんなプロジェクトも発足されており、地域発の取り組みとして応援しています。
先日、NewsPicksで岡島悦子さん『バリバリ働く完璧なママなんてどこにもいない』という記事が公開されていました。
共感ポイントがとても多く「さすが岡島さん!」という記事だったのですが、今日はそれを読んで「国際女性デー」に向けて改めて自分なりに思った3つのことについて書きたいと思います。
①「自分らしくを楽しむ」ことこそ「活躍」
一点目は、①「自分らしくを楽しむ」ことこそ「活躍」ではないか、ということ。
岡島さんはマクロな環境の変化を踏まえた上で、DEIの取り組みも変化しつつあることと指摘します。
「働きやすさ」の実現から「働きがい」の向上へ、というのものその一つ。
これまで、多くの日本企業は女性活躍推進のために女性の働きやすさの向上、そのための環境整備に主に力を注いできました。でも、それだけではエンゲージメントが上がらないことに気づいたんですね。
管理職や役員をはじめとする重要なポジションについたり、リーダーシップを発揮したりという、企業が多くの女性社員に求める「活躍」につなげるためには、働き続けやすい、居心地のいい環境を提供するだけでは成果が出ないことがわかってきたんです。
「女性活躍」という言葉がとにかく掛け声として繰り返されている中、「活躍活躍って言われてもそんなに頑張れないよ」という声もある。

このタイミングで重要なのは、改めて「活躍」の定義から捉え直すことではないでしょうか。
本来、「活躍」の仕方は人それぞれ、一人ひとりにあった支援や環境が必要なはずですが、「活躍」が一律の掛け声で言われてしまっている。そして岡島さんが指摘されているように「昭和型な管理職」のイメージがいまだに強い。
岡島さんがおっしゃる「働きがい」とも通じるとおもうのですが、僕は「活躍」とは本来、「我慢」せずに「自分らしくを楽しむ」ことの実現ではないかと思っています。
ジェンダーギャップの解消について、よく「enpower」より「uncover」と言っています。今、女性の可能性や能力が十全に解放されているか、というと(男性に比較しても)残念ながらまだまだそうではありません。
さまざまなバイアスや環境のバリア(障害)があり、女性の可能性には蓋をされてしまっている部分がある。「自分本来の力を100%発揮できていますか?やりたいことに全力で取り組めていますか?」という問いに今自信をもってYesと言える女性はどれくらいいるでしょうか。組織や社会の構造の中で「働きがい」を我慢したり半ばあきらめてしまっている、そんな方もいるかもしれません。
「女性活躍」というと「女性に下駄を履かせるのか」というような意見が出ることもありますが、そうではなくまずはこのもったいない状況を変えていきましょう、ということです。
また、一方で「活躍」は押し付けられるものでも無いと思います。自分らしくない仕方で無理に「頑張る」必要はない。昭和時代は歯を食いしばって耐える頑張りが「美徳」とされましたが、それで辛くなってしまえばサステナブルではありません。「バリキャリ」の類型のように誰かの「あるべき」ではなく、一人ひとりが「自分らしさ」を解放する「活躍」を見つけていくことができるはずです。
また、「ロールモデル」は「数」だけでなく「種類」が増える事が大事だとも考えています。「モデル」は一種類でなく、さまざまな「活躍」の仕方があっていい。仕事だけでなく、プライベートを生き生きと過ごすことも「活躍」のはずです。
昭和の価値観では男性には仕事での成功が求められステータスは「年収」で測られ、泣き言を言わず、仕事を頑張り「大黒柱になって家族を支える」ことが「男らしさ」として期待されていました。仕事に本気で取り組むのはいいことですが、社会から押し付けられる「男らしさ」に苦しくなる人もいるのではないでしょうか。
女性だけでなく、男性も押し付けられる「○○らしさ」ではなく、「自分らしさを楽しむ」という「活躍」をもっと出来るようになっていけたらいいなと思います。
②多様性による「触発」と「変容」
2点目のポイントは②多様性による「触発」と「変容」です。
岡島さんの記事では「よそ者を迎えつつ、よそ者扱いしない」ことの重要性が指摘されています。「よそ者」をどのように捉えるか、というのはダイバーシティを推進する上でとても重要なポイントだと思います。
アート思考の文脈でも話をすることが多いのですが、「異質性」や「多様性」というのは「創造性」において重要なファクターです。異質なもの、さまざまなあり方が混在し、刺激し合うことで新たな視点や価値観が生まれていく。これが「触発」です。
ところが、岡島さんが指摘するように、せっかく外から人を入れても「よそ者扱い」し、排除してしまうとmingleが起こりません。
大企業で新規事業を担当していた時、異業界での新規事業をするために外部から転職者を迎えることも多かったのですが、せっかく外から人を迎えても「社内の論理」が優先され、それに合わせない人は活躍できないという状況がありました。「内輪」な中に入りづらい空気を出したり、特に外部から来た女性の管理職には下手をすると内部の社員のやっかみもあったりして、「おじさんカルチャー」の中で能力を発揮できる仕事を与えられないケースも目にして、非常にもったいないと感じていました。
見かけ上の数は「多様」でも「異質性」を排除してしまうとホモソーシャル、モノカルチャーを脱することはできません。岡島さんの「チャック女子®」もそうですが、女性が男性に同質化しなければ入れない世界では、生物学上の女性は増えても価値観の多様性が生まれず「同質」のままです。
僕は地方のヤンキーカルチャーで育ったので、同質性の中で人は簡単に狂う、というのを色々みてきました。同質性の高い全体主義の中では独裁の危険も非常に高く、人は人にいくらでも残酷になれます。(特に「よそ者」には)
「多様性」の価値は、こうした「同質性の盲目」を相対化し、新たな価値観や視点を獲得できることです。「異質性の触発」が、組織やそのメンバーに新たな気づきをもたらし、価値観の変容をもたらしてくれます。アートにおいては、異質なものとの出会いによって自分が変容する経験がよくありますが、個人や組織にそのような変容が起こる、それがダイバーシティの効能だと思います。
多様な価値観や背景を持つ人が組織に加わることで、新たな視点やアイデアが生まれます。自分とは異質な価値観や視点に出会った時、それを拒絶するでもそのままに受け入れるのでなく、「触発」によって自分自身が「変容」していく。異なる文化や視点と交わることで新たな気づきを得て、自分の固定概念や価値観をアップデートできるはずです。
③国際女性デーをみんなの日に
最後に、3点目として、③「国際女性デーをみんなの日」にしていく感覚を持つことが大事ではないかと思います。これも岡島さんの「よそ者扱いしない」というのとも通じるところがあるかもしれません。
国際女性デーと聞くと、なんとなく「他人ごと」というか、自分たちとは関係ないものとして捉えている男性のみなさんはまだまだ多いのではと思います。
しかし、「国際女性デー」は女性の、女性による、女性のための日ではありません。
例えば、今日3月3日は「桃の節句」です。(「女の子の日」というあり方は時代とともにアップデートされていくべき部分もありますが)、うちも娘がいるので一年のうちで一日、子どもの成長や健康を記念する日があることは素敵なことだと思うんです。
子供の日や母の日、父の日も同じですが、こうした記念日はなにも子どもが自分たちだけで祝ったり、父親だけが集まってなにかする日ではありませんよね。記念日というのは、対象者に対して周りの人が「お祝い」と「感謝」と「記念」の気持ちを表す日です。
今年もその日を無事に迎えられたことを「お祝い」し、いつもありがとうという「感謝」を伝え、「これからもますます元気で」と未来の繁栄を「祈念」することです。
国際女性デーも同じなはず。女性はまだまだ残念ながら我慢していることも多いので手放しで「お祝い」をすることはできないかもしれませんが、女性たちに感謝を捧げ、これからますます自分らしく活躍していけるように願う日だと思うんです。
繰り返しますが、国際女性デーは、「女性の、女性による、女性のための日」ではありません。男性でも、家族や一緒に働く人に女性がまったくいない、という人はいないはずです。そういう意味ではみんなが当事者として女性への感謝とともに未来を考え、社会全体のあり方を考える日にできたらいいですよね。
ジェンダーに関する議論は、ともすると男女の対立が生まれがちですが、女性だけでなく男性にとっても重要な問題です。すでに述べたように「男性は家族を養うべき」「男らしくあるべき」といった社会のステロタイプは、男性自身の生きづらさにもつながっています。
「国際女性デー」は「女性のため」ではなく、「ジェンダーに関する固定観念を見直す日」として捉え直すのが良いのではないでしょうか。女性も男性も、自分らしさを楽しんで生きることが出来る社会をつくるために、それぞれができることを考える、誰もが自分の可能性を最大限に発揮できる社会をつくるきっかけにできればと思います。