「ノブレス・オブリージュ」と「キャンセルカルチャー」 〜時間軸と心理的安全性
明けましておめでとうございます。メタバースクリエイターズ若宮2024です。
今日は「ノーブレス・オブリージュ」と「キャンセル・カルチャー」について書きます。
「ノブレス・オブリージュ」の憂鬱
「ノブレス・オブリージュ」は、フランス語で「高貴なものの義務」、平たくいえば貴族など社会的な地位を上位にある人が、社会的な奉仕の義務を負うという考え方です。
(↓この曲が思い浮かんだ方もいるかもですが、『ノンブレス・オブリージュ』の方ではありません。息が詰まる息が詰まる息が詰まる息が詰まる息が詰まる息が詰まる…
wikipediaによると
上記にあるように戦時には率先して国を守るために出陣し、インフラを整備する、教育のための事業や孤児やホームレスなど社会的弱者の支援をする、などなど今では行政がまかなうような公共的なサービスを率先して行うんですね。
ところで昨年、こんなツイートが物議を醸していました。
このツイートに対して賛否が色々寄せられ、その中には「ノブレス・オブリージュ」に関するようなリプライもありました。みなさんはこのツイートについてどう思われますか?
内容を吟味する以前に、ツイートのぶっきらぼうな物言いに反発を覚えた人もいるかもしれません。でもこれ、通りすがりの人にいきなり頑張っていることを否定され、謎に年齢がとか「痛い」とか言われたらさすがにいい気はしませんから、こういう返しになるのも致し方ないかもという気もします。
そもそもノブレス・オブリージュって通りすがりに押し付けられるものなのでしょうか。
先程のノブレス・オブリージュの定義には、「貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理」とありました。でも、「自発的な」行動を「促す」ってよくわからなくないですか?それ自発的ちゃうやんと。他人のことを考えるのも大事だよね、と思っていたとしても「オブリージュ」なんだから義務だろ、と周りから言われたら「息が詰まる息が詰まる息が詰まる息が詰まる息が詰まる息が詰まる…」。
「自発的」なもののはずなのでなにも通りすがりに投げつけられなくてもいい気もしますが、wikipediaにも「法的な義務ではないため、これを為さなかったことによる法律上の処罰はないが、社会的批判・指弾を受けたり、倫理や人格を問われたりすることもある」「社会的(そしておそらく法的な)圧力」とあるので、周囲から要請されるのも致し方ないのでしょうか…
ただ、もし「高貴な義務」があるとしてもそれは必ずしも自分を犠牲にすることではないのではという気もします。
と、本人が大事にしていることをわざわざ否定される必要はないと思うんですよね。
「義務」であり、それを周囲から要請されるにしても、自分がやりたいことまで否定されなくてもいいはず。もしそこにも口を出されるなら、
ということになって、それは少しつらいですよね…。
「自分より他人」ではなく、自分もやりたいことをしたり幸せになり、その上で他人のことも考えられたらいいのではないでしょうか。「自分か他人か」という二択ではなく、「自分も他人も」のために生きる。個人的にはそその方がいい気がします。
僕自身はできるだけ「ノブレス・オブリージュ」を心がけたいと思っています。でもそれは「自己犠牲の他者優先」ではなくて「自己の幸せの延長」として考えているのです。
「ノブレスオブリージュ」は不公平?
そもそも「ノブレスオブリージュ」は公平でしょうか?不公平でしょうか?
能力主義や成果主義、新自由主義的な考えからいけば、自分の能力や努力を自分のために使ってなにが悪いの?という気もします。自分の能力や努力分の報酬は、自ら受けて当たり前だし公平でしょ。それを他者のために使え、と言うのはかえって不公平では?
そこまで思っていないにしても、税金や年金が思ったより引かれているのをみて「自分が頑張って働いたお金をこんなに他の人のために取られなきゃいけないのか…」と思ったことは割と誰もがあるのではないでしょうか?
しかしこうした能力主義の公平性には罠もあります。能力が高い人は自分の成功や成果は自分の努力のおかげだと思いがちですが、成功は自分の力だけではなく環境や運のおかげでもあります。(僕個人は最近、成果や成功における自分の努力の割合はだいたい3割くらいで、あとは偶然的な外的要因ではないかなという感じがしてます)
そしてマイケル・サンデルさんが著書『実力も運のうち』で指摘しているように、成功を自分の努力の結果だと考える人は、成功していない人は努力が足りないのだ、と思うようになります。これは自己責任論につながり、社会的な不公平を見過ごす傾向があります。「親ガチャ」という言葉がありますが、全く同じ能力全く同じ努力をしたとしてもスタートは人それぞれちがいます。努力すらできないような過酷な環境に生まれる人もいれば、親の年収が高く充実した教育環境を与えられる人もいる。
自分の努力の報酬は自分のもの、と思う一方、政治家や大企業の経営者、高収入の芸能人などに対し、特権を享受していないでもっと公共のために分配すべきだ、と思うことがあります。公人に公共の福祉を優先しろ、というのはそうかもしれませんが、「有名税」みたいなことを言い出す時は半分くらい妬みな気もします。
人間というのは現金なもので、自分がどちらの立場にいるかで「公平性」の感じ方が変わります。他人には「自分だけいい思いしないでもっと社会に分配してよ!」と思うけれども、自分が分配側になると「なんで頑張ってない他人に自分のを…」と思ってしまったりする。
強者が強者であり続けられるように資産を守るか、弱者も生きやすい社会をつくるか
どちらの気持ちもわかるわけですが、それでも僕が「ノブレス・オブリージュ」を心がけたいとおもうのは僕が利他的で心が広いから…ではなく、他人のためというよりは自分のためでもあるからです。
もし自分がいま社会的強者の立場にあるとしても、今の幸せな状況がいつまで続くとは限りません。じゃあどうするかというと2つの戦略的方向性がある気がします。
一つ目は「強者で居続ける」という戦略です。成功者が比較的よく行う行動として、自分の既得権益を守り、自分の子供や一族がずっと社会的に優位に立てるように財産を溜め込む。一方もうひとつの道は、「弱者でも生きやすい環境をつくる」という戦略です。
今と同様の環境が続くなら、前者の方が有利なようにも思えます。しかし、たとえば事故や病気にあったり、金融恐慌や震災で一気に資産を失い「弱者」に転落するリスクもあります。また歴史が教えてくれるように、「貴族」が自分たちの利益だけを追求して財産を溜め込み格差が大きくなると、苦しんだ民の反乱や革命が起こるかもしれません。前者の戦略は「強いうちはいいがそれが壊れ弱者になった瞬間に危険にさらされる」わけです。
それに対して、インフラの整備や社会的な支援を通じ、セーフティネットの充実した社会をつくることができれば、自分が「弱者」になったとしても生きていけます。僕は今はいちおう家族を養うくらいにはお金を稼げていますが、もしかしたら明日くも膜下出血で倒れるかもしれませんし、事故に遭って障害が残るかもしれません。「弱者」が取りこぼされない社会をつくる努力をすることは他人のためだけでなく、自分も生きやすい社会をつくることでしょう。
どちらになるかは「偶然性」をどれくらい見込むかで変わるかも知れません。「偶然性」の影響が強いとしたら、そもそも自分の成功はあまり自分のおかげではありませんし、そのたまたま得た成功は、またたまたま失われることもあります。
いや、おれはずっと強者だったしこれからも強者で居続ける、という方もいるかもしれません。でも、どんな強者でも赤ちゃんだった時があります。その時点では確実に、弱者として社会や環境の庇護の下に大きくなってきたのです。
ノブレス・オブリージュは現時点の断面で考えると、成功者が「他人」のために「施す」というように思えるかも知れません。しかし時間軸を入れ、未来や過去を含めて考えると、それは必ずしも「自分以外の他人」のためではなく「時間的に拡張された自分」のためでもあると思うのです。
「情けは人のためならず」というやつですね。
「キャンセルカルチャー」の生きづらさ
また全く逆のことのようですが、「キャンセルカルチャー」についても同じような感覚をもつことがあります。
昨今、有名人の不祥事やスキャンダルに、たくさんの人がここぞとばかりに石を投げる傾向が強まっている気がします。
たしかに、叩かれているその人は非難されるべきことをしたのかもしれません。そして非難の声をあげているあなたには「今は」正当性があるかもしれない。
でも自分を振り返って、過去に本当になに一つ過ちを犯したことがない人がいるでしょうか。ずっと正しく生きてきましたか?そして、今後もぜったいに過ちを犯さない、と言い切れるでしょうか?
現在は正当な立場にいても、いつ、どんなことで自分が非難の対象になるか分かりません。その時あなたが誰かを叩いていたその拳は、数万倍になってあなたを殴りつけるかもしれないのです。
適切な批判することは大切ですし、罪は罪として裁かれ、償われるべきです。しかし「一発アウト」のキャンセルカルチャーの中で生きるのは本当に「息がつまる息が詰まる息が詰まる…」と僕は思いますし、何より法治国家なのですから「私刑」によって罰をなすべきではないと思うのです。
(たとえ相手が罪を実際に犯していたとしても)自分に正当性があると信じ安全地帯から個人が個人を叩く、それはしばしば「正義中毒」に陥ります。「暴露系」や「私人逮捕系」の人たちの末路をみれば、それがわかるでしょう。
キャンセルカルチャーはその時点では正当に思われるかも知れませんが、ノブレス・オブリージュと同様に時間軸を考慮すると自分たちの首を絞めることになりかねないのではないでしょうか。
たとえ自分が今、正当性を持っているとしても、それは常に「明日は我が身」なのです。そしてそれは社会全体としてみるとひどく息苦しく、心理的安全性のない社会ではないでしょうか。
ノブレス・オブリージュを「他人のための奉仕」と思うのではなく、「過去や未来の自分」のために、弱者でも生きやすい環境を目指す。過ちを犯した人をキャンセルしない。失敗が許されず再起できない社会ではなく、失敗が許され、だからこそみんながチャレンジできる、そんな社会のほうがしなやかでサステナブルな社会ではないでしょうか。