人生の複利計算:必要なのは心理的抵抗を超えること
以前ここで、「人生と仕事を複利計算にする」ついて書きました。
簡単にいいますと、毎週2%でも新たな工夫を入れるのは、1年で300%、2年で900%というものすごいことになるということです。
2%、即ち102%と100%の差など、環境変化の激しい仕事や人生の中で、単なる誤差のように思えます。それが一回しか起きないならば、その通りです。しかし、それが継続された時には、ものすごい差になるのです。
これは、直感に反します。これは、我々の直感が、複利計算をイメージする能力がいかに低いかを示しています。だから、我々は、複利計算については、能力がないのだ、と謙虚にならないといけないということです。
小さなことを継続的に続けた場合の結果を、誰しも過小評価してしまうということです。
この小さな変化を常に起こし続けるのを妨げるのは、結果をイメージできないためだけではありません。
もう一つ大きな理由があります。それが「変えなくても、これまで通りでいい」と思いがちなことです。
よほど強く変わらなければいけない状況でない場合、我々は、これまで馴染みのあるやり方を選んでしまうのです。
たった2%でも変えるのに何か強い理由を求めてしまうのです。その労力に見合う、ROI(Return on Investment)があるか、などと考えてしまうのです。
上記のように、複利計算の結果は、ほぼ全員が、過小評価してしまいます。だから、ROIなどと考え始めると必ず「やっても意味がない」という結論になります。だから、論理的に考えれば考えるほど、やらないで、これまで通りで良い、という判断になってしまいます。実は、これは本当は、まったく論理的ではないのですが、複利計算の結果を過小評価するクセにより、ほぼ必ずこうなるのです。
しかし、この「これまで通り」を思わず選んでしまうのには、もう一つ大きな理由があります。実は、馴染みのやり方を捨てるのは、とても心理的に抵抗があることです。
新しいやり方を取り入れるというのは、たとえ2%といっても、既存のやり方を捨てることになるのです。これは意外に心理的抵抗を感じる行為なのです。
私は、講演させていただく機会がほぼ毎日あります(テーマは、生産的で幸せな組織に関するものです)。
講演を行うと、どこかに、しっくりこないところがあるものです。
これを解消するには、パワーポイントのスライドを修正することになりますが、一旦ストーリーがまとまっているスライドの一部を修正すると、いろいろなところと依存関係があるので、本当に改善されるか、あるいは、しっくりこなかったところが解消されるかは、やってみないと分かりません。下手をすれば、むしろ分かりにくくなるかもしれません。
元々のスライドもそれなりに時間を掛けて改善してきたものなので、その完成度を捨ててしまうのには、かなりの抵抗があります。
私の中に、このままでいいんじゃないか、という気持ちが生まれます。もともとの完成度を捨てるのは忍びないのです。
ただ経験上は、この「ここままでいいんじゃないか」という気持ちは、後から見ると、ほぼ100%間違っています。
だから私は、いじらしく、修正しようとしていたスライドを複製し、元のスライドをすぐ脇においておきます。修正するのは複製したスライドです。すなわち、捨てずに、脇に置いておきます。
しかし、この脇に残しておいたスライドを使ったことは、これまで一度もありません。従って、こうなるのは、頭では分かってはいますが、脇に置いておきたくなります。これが、心のセーフティネットになっているからです。セーフティネットがあるために、大胆に進めるのです。
私は、この儀式により、ほぼ毎日、プレゼンを修正しています。これにより日々完成度が高まっています。これは毎日、既存のストーリーを捨てることになります。そして、捨てるのは、忍びない、という気持ちも毎日湧くので、とりあえず、コピーして脇に置きます。
このパワーポイントのファイルを修正するたびにバージョン番号を上げています。ちなみに、現状のプレゼンは、バージョン546です。
現在のスライドとプレゼンテーションは、この546回の小さな、しかし継続的な修正なくしては、たどり着けないものです。
どんなに一度に時間を掛けて準備しても、ここにはたどり着けません。やってみて修正するというサイクルを、546回シリアルにやることなしにはたどり着けないものなのです。周りをみると、こんなやり方をしている人は見ません。逆に、一度つくったプレゼンをいつまでも使っている人はよく見ます。
常に新たに生み出す行為を続けることを、宮澤賢治は
永久の未完成これ完成である
(農民芸術概論 1926年)
といいました。永久の未完成を楽しむことこそ、人生であり、人生の至福だと思います。