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ミラノの街について語ろうー"proximity"がキーワードの時代。

Proximity という言葉が盛んに使われる。「近さ」という意味だ。さまざまな分野のさまざまなコンテクストで使われる。徒歩や自転車で移動できる生活圏の確立が望ましいというコンテクストでも使われるし、循環型経済の実現というコンテクストでも使われる。

フランスのパリは「19世紀の首都」として知られ、日々、そのように感じる。筆者は19世紀のオスマン通りに住んでいる。徒歩という有史以前の技術を使っていないときには、19世紀後半の発明品で街中を移動する。同じサイズの車輪が2つ付いた自転車だ。ここに暮らしたことで、街にとって20世紀がガラクタだったことに気づいた。特に欧州では各地の都市が今、自動車の排除にとどまらない様々な形で、まるで下手に張られた壁紙かのように20世紀の痕跡をはがしている。新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)後の都市の理想は、21世紀の機能向上を備えた19世紀の街を洗練した形だ。

FTのパリに生活する記者が20世紀の都市を「下手に張られた壁紙かのよう」と形容している。徒歩と自転車が主要な移動手段で、地下鉄の利用者はパンデミック以前から減少していたと指摘する。EVさえ、歓迎されない次元に突入したのだ。

欧州の多くの都市では、自家用の電気自動車(EV)でさえ歓迎されない。あまりに多くのスペースをとるうえに、車両の生産が過剰な二酸化炭素(CO2)を生み出すからだ。

ミラノという欧州の一都市に住む人間として、この街の変化について記しておきたい。

旧市街地は変わってきているのか?変化がないのか?

中世から続く「歴史的中心地」という旧市街地には、1500年代から1900年代前半の建物が圧倒的に多い。基本、20世紀後半以降の建物はこの旧市街地域の周辺にある。高層ビルも、その一つだ。第二次世界大戦後の高度経済成長期、近代工業的なモデルとして、こうした地域開発が行われた。

それによって都心の空洞化現象がおこり、生活の質が落ちていく。そこで、1970年代あたりから、この都心の価値の再評価する動きがでてくる。そして、その後に、旧市街以外の地域やさらなる郊外の質低下が問題になりはじめる。同時に、旧市街地域や隣接地域の不動産価値が上がり過ぎ、ジェントリフィケーションがテーマなる。

つまり、中心とそれ以外の間で、常に価値がこっちにきたり、あっちにいったりとしている。そしてFTの記者は、中心の再評価の時代が再び巡ってきたと話している。もちろん、その含みとして、もっと遠くにある田園地帯の再評価との組み合わせがあるだろう。

ただし、旧市街における建物は、金融機関の所有であったり、路面は国際的に名の知られる大規模な企業の店舗であったりと、必ずしも「皆が近寄りやすい場」となっているわけではない。

また、このゾーンの近くにあった職人工房も、職人仕事の経済的利益と不動産価値のバランスが悪くなり、流行りの飲食店に変貌するとの現象はおきる。

自転車と地下駐車場の増加

レンタルの自転車が使われる風景は、あまりに一般的となった。自転車専用レーンも増えている。が、まだ十分とは言えないだろう。

FTの記事にあるような都心からの自動車の締め出しは、段階を追って行われてきた。また「あんな狭いところによくスペースを作り出せるものだ!」とよく話題になる路上の縦列駐車だが、これも事情は変わってきている。

かなりの路上は事前に登録された車両のみが駐車できるスペースと近くに設置された自動販売機でチケットを買う有料スペースの普及が一つ。さらに大きな変化は、新しい建物の地下駐車場のスペースが拡大していることだろう。なにせ、SUV全盛の時代にあって、従来のスペースでは高さや幅が不十分だ。

縦列駐車の際、前後車両のバンパーを押していくというのも、今のSUVでは無理筋になりつつある。FIAT500が車高のあるSUVが押すのも非現実的だ。かつて、ボディにちょっと凹みができたくらいでは騒がないのが欧州の自動車事情だったが、それは現代の感覚ではないのだ。

地区ごとに変化の質が違う

ど真ん中の歴史的地区、やや距離の離れた(寝るだけのベッドタウン的)郊外、これらの2つの力比べというか綱引きとは異なる動きが、中心地と隣接している地域の変化だろう。

地区によっては外国人の移民が多く住み、そこには輸入食材店が目立つ。中東やアジアの食材を入手するには、そのような地区に出向く。

サルピ通りは、もともとそれなりの住居と商業の地区だった。前世紀末から今世紀、中国人による商売が増え、路面店であるのに一般の人には無用な地域になった。というのも服の問屋が多く「一般客お断り」の注意書きを掲げたからだ。だから一般の人はこの周辺に増えた中華料理屋に行くようになる。その頃、市当局と中国の人との衝突が新聞記事になっていた。

Google Mapで赤い枠内がChina Townと表示される。

ここで興味をひくのは、「中国人街」と呼ばれ、路面の卸や地下にある服の工房が増えながらも、建物の上の階に住んでいるのはイタリア人が多いことだ。中国の人は郊外に住み、通ってくることが多かった。

そして、この10年ほど、また変化がある。中国の人の移民二世代目が商売を仕切るようになり、飲食店も雑貨店も内装に気を配るようになった。要するに「イマドキ」風である。さらに並行して、イタリアの人による新しいタイプの店も進出をはじめたのだ。かつ、その地区に5つ星のホテルや高級アパートなどもできてきた。

ひと時はネガティブであった現象が引きがねになり、新しい街の姿に変貌し、それをポジティブ受け止める人も増えてきたのである。

北東部のNoLoは主要商店街から近い地区。

前述したように、いくつかの地区にはある地域からの移民が集中して住んでいる。ある地区ではアフリカの人が多く、ある地区では中東の人が多い。しかし、北東部に位置するNoLo(ロレート広場の北)と呼ばれる地区は外国人が多いが、出身地域にさほどの偏りがない。

Google MapでNoLoと検索するとロレートから北に延びるモンツァ通りを中心とした地区を示す。

ソーシャルイノベーションの第一人者エツィオ・マンズィーニによる都市のproximityについて語った本のなかで、このNoLoについてミラノ工科大学でデザインを教えるダヴィデ・ファッシが書いている。彼自身も、ここに住んでいる。彼によれば、ミラノの人口に対する外国人比率は19%だが、NoLoでの比率は34%である。

この地区に住む人たちが2016年からフェイスブックのなかで近隣コミュニティを作り始めた。さまざまな次元でお互いに協力をし合ういろいろなグループが発生し、いくつかは法的に正式な団体として活動するようになった。

ファッシによれば、モンツァ通りを挟んで西(地図の左)と東(地図の右)では性格を大きく異にする。NoLoの特殊性がよく表れているのが東側であり、こちらはボトムアップのまちづくりでないと住民が満足しない傾向にある。その一つの例として、同じピッツァチェーン店が、西と東に開店したが、東側の客のほうが少ないとの観察結果を話す。

この東側にミラノ工科大学は2019年、オフキャンパスを作った。

ミラノ工科大学のNoLoのオフキャンパス。左側がラジオのスタジオ。右の壁にはNoLoの地図があり、それぞれの通りや広場の性格が分かりやすい。

ミラノ工科大学はミラノ市にいくつかの場所にオフキャンパスをひらき、協同研究や地元の人たちとの実践をはかっている。さすがに一般の人は見学できないが、刑務所のなかにも、このオフキャンパスを昨年ひらいた。

NoLoのオフキャンパスは、ミラノ市営のマーケットのなかにある。一見、かなり寂れているが、肉屋、八百屋もなかなか品揃えも良さそうで、バールも夕方となるとビールやワインを片手に楽しそうに談笑する風景がある。

ミラノ市営マーケット

このオフキャンパスでファッシが説明してくれたことで興味が惹かれたのは、以下だ。

NoLoを特徴づけるのは、ロレート広場の向こうにはブエノスアイレス通りという一大商業地区がありながら、あの広場を境に街の文脈がまるっきり違うことだ。その点が、ミラノの変貌しつつある他の地区と性格を異にする。ただ、ここのところ、NoLoの東側の不動産の値段が高騰しており、5年後には今の姿はなくなるかもしれない。時間の問題とも言われる。

例えば、ガリバルディの駅の北側にイゾラという地区がある。ここもかつて工房などが多い場所だったが、現在は流行りの飲食店も多く、夜には多くの人が集まる。ガリバルディ駅周辺の大規模開発と連動した不動産会社によるトップダウンの都市計画が実現した場だ。NoLoはイゾラと比較されることが多いが、ファッシは「あそこはトップダウン、こっちはボトムアップ」と違いを強調する。「トップダウンの都市計画は結局、いつか失敗する」と解説する。

時代による変化を必ずおきる。いつまでも「よき時代」は続かない。だから、ボトムアップによる意味のイノベーションが可能な民主的な文化土壌をどれだけもてるか、あるいは維持できるか、これが問われている。そうしたボトムアップの拠点としてのオフキャンパスを設置する意義は大きいだろう。

参考に。上記は都市計画における意味のイノベーションであるが、下記は田園風景における意味のイノベーションである。

写真©Ken Anzai


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