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「ジェンダーギャップ」について数年考えてきて、アラフィフおじさんが今思うこと

おはようございます、メタバースクリエイターズ若宮です。

先日Voicyで「#ジェンダーギャップ」というトークテーマがあって改めて考えたので、今日は「ジェンダーギャップ」について改めて自分の考えていることを書きます。


日本のジェンダーギャップ指数の低さは経済と政治の問題

日本はOECD諸国の中でもジェンダーギャップの是正が進んでいないとよく言われます。

2023年のジェンダーギャップ指数(GGI)では、146カ国中125位と残念ながら昨年よりも順位が下がりました。特に経済と政治の点数が低く、GGIの配点項目中、教育と健康は先進国では差がほとんどつかないので、日本のジェンダーギャップの問題は主に、経済と政治の分野でのジェンダーギャップだということができます。


経済分野では、まだ十分とは勿論言えないものの、ここ数年でだいぶ空気が変わってきた気がします。

2年半くらい前に、ジェンダーバランスが取れていないイベントには参加しないと宣言しました。この頃、経済界やスタートアップのカンファレンスなどでは本当に登壇者が男性しかいなくて危機感を持っていたものの、よく考えてみたら自分もそれに加担していた、と気づいたからです。

その後、実際登壇をお断りしたり、辞退して女性の登壇者をご紹介したケースもあります。そしてそれと同じくらい「すみません…それだと登壇できない体になってしまって…」とお送りすると企画から練り直したり登壇者の比率を見直してくださったというケースもたくさんありました。


この2年でも登壇者パネルでのジェンダーバランスはだいぶ配慮されるようになってきた実感があります。スタートアップ界隈の女性起業家や女性投資家も増え、変化はまだ遅いもののジェンダーギャップは着実に埋まってきています。スタートアップのカンファレンスでも、ジェンダーやダイバーシティに関するセッションが当たり前のように設けられるようになり、「少なくとも意識レベルでは進んだ」と感じています。

ジェンダーギャップやダイバーシティの問題ではアンコンシャスバイアスや現状維持バイアスが阻害要因になっていることも多いので、みんなが前景化して問題意識を持つことが変化の起点になると思っています。経済分野でのジェンダーバランスはまだまだではあるものの、みんなの課題認識が進めばどこかでティッピングポイントを超え一気に改善されていくと思うので、これからもさらに加速させていきたいですね。


ジェンダーの議論には男性が少ない

またもう一つ感じる変化として、ジェンダーやダイバーシティについて議論する場に男性が増えてきたことがあります。

上記の記事をきっかけにジェンダーに関する取材を受けることや企業や自治体で講演をお願いされることも増えました。で、そういう時、メディアでも企業でも自治体でも、ダイバーシティについての担当の方はほぼ100%女性だったのです。

以前フランス大使館さんのイベントに呼んでいただいた際、担当の方とのやり取りの中で「このイベントで男性の登壇者は初なんです」とおっしゃられていてびっくりしました。ジェンダーやダイバーシティに問題意識をもつのはマイノリティや構造的弱者である女性のことが多く、「男性は困ることが少ない」から当事者意識を持ちづらい。

ジェンダーギャップについてもすでにずっと前から女性の皆さんは声を挙げてきたはずなのですが、それを僕がたまたま男性側から言うとプチバズりする。それ自体がジェンダー問題に興味をもつ男性が「レア」だという現状の証左です。

また、女性が言っても男性はなかなか聞いてくれない、ので中年男性の身体をもつ僕に話してほしい、というケースも割とあります。


でもここ1,2年ほどで、ジェンダーやダイバーシティについて話す場に男性の数がぐんと増えて来た気がします。実際、今年札幌市のNomapsでダイバーシティのトークをした際には(主催の方がすごくそれを意識されていたおかげですが)登壇者だけでなく参加者の男女比も半々。60代くらいの男性も熱心に聞いていらっしゃいました。

また、先日の茨城県の労働福祉協議会のシンポジウムでは、登壇を依頼してくださったのが男性の方だったのがとても嬉しかったです。労働組合とかはどうしても男性の比率が高いので、そこから変えていきたい、という想いをオンラインMTGでお伺いし、めちゃくちゃ感動して即お引き受けしました。


「能力主義」の罠

企業など色々話してきた経験からいうと、男性にジェンダーギャップについて話すと一番良く出てくる反論が「能力主義」に関することです。

能力主義は特にビジネスの場では、とても公平な基準だと信じられています。

とくに男性からは「男女比に偏りがあってもそれは能力主義や成果による結果なのだから公平では?」という意見がよくでます。むしろ女性の比率をあげようとするのは「女性にゲタを履かせるのは不公平でしょ」と。

たしかに、能力主義には一定の公平性があるかもしれません。(後述するように、僕自身は能力主義自体も見直した方がいいと思ってはいますが)仕事というのは成果をだしてなんぼ、なので能力主義で偏りが生じても当然でしょ、というのもまあ、わかります。

しかし、この「能力主義」には実は罠があります。

まず「能力主義」をいうなら能力の測り方がまず公平でなければなりません。そもそも能力を正しく評価できていなかったら全く不公平になってしまうからです。


しかし、この「評価」というのは実は公平ではありません

これには2つ原因があると思っていて、一つは無意識のバイアスや思い込みです。
ハイディ・ハワード実験などがありますが、能力や成果、人脈などの経歴が全く同じでも女性より男性のほうが高評価を受けやすいのです。こうした男女の違いは生物学的な適性と短絡的に結び付けられがちなので注意が必要なのですが、実際は単に「仕事」は男性、「家庭」は女性、という過去の因習的な価値観や代表イメージに影響されてしまっているバイアスにすぎません。(実際、ハイディ・ハワード実験では2000年と2013年でだいぶ結果がかわったそうです)

そしてもう一つの問題は、評価者に圧倒的に男性が多数であるという偏った現状です。心理学的に人間は同性など自分と似た属性を持つ人を高く評価しがちであり、かつ男性は特に能力の高い女性を否定的に捉えがちという研究結果があるので、男性評価者が多ければそれだけ男性がよく評価され、女性は不利になりがちです。(そしてこれは評価者の数が変われば一定是正できるわけです)


また、環境的な不利もあります。
例えば、飲み会やキャバクラ接待、タバコ部屋、サウナなど男性の同質性が高い環境は女性にとって参加しづらいところがあります。僕が大企業で働いていた時には「人事は夜決まる」なんていう言葉がありましたが、飲み会で上司のよいしょとかをして覚えとご本人のご機嫌がよくなると「お前もそろそろ上がるか?」みたいな感じで人事が決まったりします。人事が夜決まるのでその場に同席できないだけで不利(業務外です)なレースが能力主義だなんて…。

環境やアクセスの問題についてよく言うのですが、(少なくとも現状)起業や管理職、理系は男性ならアクセスが容易であるのに対し、女性からは遠く、わざわざ行って男性が多い場所に入らなければなりません。「女性は起業に向いていない」とか「管理職増やしたいんだけどやる気がある女性がいないから…」と適性ややる気の問題にすり替えられがちですが、単にアクセスの問題なのです。

青森から東京に来る人と埼玉から来る人なら圧倒的に埼玉から来る人の方が多いでしょう。この時に「青森県民は東京に向いていない」とか「来る意欲がない」とかいうことはなくて単にアクセスの問題であり、新幹線が通ってアクセスが改善されれば徐々にその格差も改善できるのです。


また、環境という意味でいうと少数派の不利もあります。先程の図のように男性ばかりたむろしている場所には女性は入っていきづらく、危険すら感じるでしょう。また会議でも男性が圧倒的多数で同調が強い時、女性一人だったらやはり意見を出しづらくなります。これは男女逆でもそうで、僕だってJK20人の会に一人で参加したら、多分「はあ…」くらいしか言えないでしょう。要はマイノリティの声というのは環境的にmuteされてしまいがちなわけです。


「能力主義」を根拠としていうならば、まずは評価や環境がものすごく偏っている現状を是正してはじめて「能力主義」と言えるはずです。

この偏った状況の中で、女性の声や可能性はmuteされ、蓋をされがちです。マイノリティや構造的に弱い立場にある人の声をunmuteしその可能性をuncoverしていくことは、女性に限らずみんなが本当の意味で「能力」を発揮できる組織や社会を作ることだと思うのです。


なぜ政治にはクオータ制が必要だとおもうか

それでも経済の状況は少しずつ変わってきていると感じますが、日本が本当に遅れているのは政治の分野だと思います。202030をあっさり10年先送りにしたり、副大臣政務官女性ゼロを「適材適所」とかいってお茶を濁すのではなく、国が(たとえば男女比半々で組閣するなど)ドラスティックにジェンダーギャップを改善する意思を示せば、経済界にも国の本気が伝わり一気に変わるはずです。(↓サムネもタイトルもアレですが、以前取材された記事もどうぞ)


個人的には、僕は政治でも一旦パリテもしくは最低限クォータ制を導入すべきだと思っています。なぜなら上記のように評価や環境が歪んでいる場合、それは自然には是正されていかないからです。

台湾ではクォータ制導入後、政治や経済のダイバーシティが進みました。日本では性的マイノリティの30代の人物が大臣になることなんてほとんど想像もできないでしょう。でも数十年前まで台灣はもっと保守的だったのです。ぜひお手本にしませんか?


クオータ制が必要だと思うのは、男性だけでは気付かない問題や盲点があるからです。男性が多い飲み会ではしばしばセクハラめいたことや下ネタが冗談で済まされてしまい、そこで嫌な思いをしている人がいることに気づけません。これは男性に限らずですが、人は自分たちだけでは気付けないことが多いので、女性や様々なマイノリティの視点が必要です。

そして、社会的強者やマジョリティは特に社会の問題に気づきづらい、という問題もあります。なぜかというと社会は強者やマジョリティに合わせて設計されているからです。困ることが少ないので気づけない。僕自身も子どもが生まれてベビーカーを押すようになって、以前は不便を感じたことすらなかった渋谷駅にたくさんのバリアがあることに気づきました。「弱者」になって始めて気づいたわけです。


少子化対策を含め生活をよくしていこうと思うなら、生活者の半数であり妊娠出産の当事者である女性の参画が政治の場に必須なことは明らかでしょう。当事者が不在だと子ども一人の留守番は一律虐待、みたいな事になってしまうと思います。

ところが、これが大きな問題なのですが、現在の政治は男性にフィットした仕組みになっており男性しか参画しづらいようになっています。
以前、「24時間選挙のことを考え、実行できる女性少ない」という意見が物議を醸しました。ちゃんと発言を読むと御本人は必ずしも女性に否定的というわけではなく、女性枠みたいな数字だけでなく制度も見直さないと…と割と真っ当なこともおっしゃっているわけですが、いずれにしても「女性に選挙は難しい」と言っている場合ではなく「女性も政治に入れるように選挙や仕組みをどうかえるか」というのが本質的な論点なはずなのですが、当事者がいないとその問題点すら認識されないのでなかなか変わっていかないわけです。


男女を問わず、弱者が辛さを抱えない社会に

以上のようにジェンダーギャップについて問題意識をもってお話をしていますが、念のために言っておくと、僕自身はフェミニストではありません

ジェンダーギャップの問題やダイバーシティの問題は、女性だけの問題ではなく、マイノリティが生き辛さを抱えない社会にしたい、と思っているのであって「女性」主義ではないからです。

むしろ僕は「ism」というものを警戒しています。原理主義や至上主義になると、排除や分断に繋がってしまうからです。


最近、「弱者男性」という言葉がニュースになっていました。そこで結構衝撃だったのは、女性の側から「男性が被害者面するな」「むしろ特権に気づけ」「自分が頑張ってないのを人のせいにするな」「キモい」みたいなものすごく攻撃的なワードがぶつけられていたことです。


…いやいやいやいや!

フェミニズムは、弱者やマイノリティが虐げられ、活躍の機会を不当に奪われてきたその不公平と闘ってきたのではないのですか?女性であれ男性であれ「弱者」が「自業自得」とか「自己責任」とか言われることなく、辛さを一人で抱えなくてよい社会を目指しているのではないのですか?


まだしも、今社会を牛耳っている「強者男性」に対しての批判ならわかります。なぜ「弱者」が辛さを吐露したのを叩くのでしょうか?それはほとんどセカンドレイプではないですか。

フェミニストの方には学歴や能力が高い女性が多いと思います。これ自体は素晴らしいことで、現状の不合理に気づく聡明さがあるということです。そして、自分たちの能力が高いのに不当に低く評価されてきたのだから、特に怒りを強くもつのもわかります。なので、その怒りを不当に自分たちを扱ってきた既得権益者の「強者男性」にぶつけるのなら、これもわかります。

しかし、高学歴で高スペックなフェミニストの方が、学歴や年収が低い男性を見下す発言をするのを耳にしてとても残念な気持ちになることが少なからずあります。男性に童貞だハゲだデブだと嘲笑をもって蔑んでいたりして、それって差別ではないのでしょうか。そもそもそんな風にたまたま与えられただけの属性で不当に扱われるのはおかしいというのがフェミニズムの主張ではなかったのですか。(最近メタバースにいると、ほんと偶然の産物でしか無い物理属性に人間はなんでこんなに囚われているのか、という気持ちになります)


勿論、男女全体で比較すれば「男性」属性が不当に優遇されてきた、というのは事実かもしれません。しかし男性の中にも、女性と同じくらい本人のせいではないのに不遇に苦しむ人やマイノリティもいます。これを「男性だから」と十把一絡げに同一視して叩いていいというのは、「鬼畜米英」と他国民なら憎み殺戮する戦争と同根の集団バイアスではないでしょうか。


優遇された男性に生まれたのにそんな風に落ちぶれたのは本人の責任だ、という意見もあるかもしれません。

ここには「能力主義」の罠が潜んでいます。僕はいきすぎた「能力主義」はダイバーシティやインクルージョンの敵だとすら思っています。

マイケル・サンデルさんの『実力も運のうち 納涼主義は「正義」か?』という本があります。そこには、ハーバードなど高学歴を獲得した人がそれを自分の努力の賜物だと思い込み、「自分は頑張ったからよい人生にふさわしい」と考え、やがて「落伍者は努力が足りないからだ」と弱者を自業自得だと見るようになる姿が書かれています。

もちろん本人の努力もゼロではないのですが、それ以上に高水準の教育を受けられるとかも「特権」なわけで、しかしその特権は(強者男性が気づいていないように)意識しづらいので「自分の手柄」と考えてしまわないよう、注意が必要です。

そして能力主義で育った「強者」が、やがて経済や政治で重要なポジションを占める割合は圧倒的に高くなります。「強者」になるのは自分の手柄、「弱者」になるのは自業自得と考え、マイノリティや生き辛さを抱えている人を見下す人が設計する社会は、またも「強者」にフィットした社会にしかならないのではないでしょうか。


僕自身は今の日本では「強者」のカテゴリに入ると思うので、こうしたことを書くと、自分の特権性を棚に挙げてフェミニスト批判をしている、とか強者が安全地帯から綺麗ごとを言っている、と言われるかもしれません。

(僕自身は今もまたぺーぺーから起業家としてチャレンジ中で外からみるほど成功もしていないし考え方や行動がマイノリティなので色々大変ですがw)ある意味では「社会的強者」こそダイバーシティやマイノリティのことを想像力を持って考えるべきだとも思っていて、そのためにこれからも行動していくぞ、という覚悟の表明として改めて現時点の自分の考えを書いてみました。

マイノリティや弱者の声を潰さず、多様なあり方や可能性を解放できる社会をみんなで考えてつくっていけたらいいなとマジで思っているので、男性も女性もぜひ一緒に宜しくお願いいたします。

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