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アートの機能とは、「多元性による重力からの解放」かもしれない

きょんにちは、メタバースクリエイターズ若宮です。

今日はアートについて、ちょっとだいぶ概念的な話を書きます。アートの機能とは「多元性による重力からの解放」なのではないか、という話です。

…って、、、これだけだとぜんぜん意味が伝わらないと思うので、以下にもう少し説明してみます。


「上下」ではない「リスペクトの編み物」の心地良さ

はじめに「僕は入り組んだ関係性を心地よく感じるんだなあ、にんげんだもの」という話をします。

例えば、AさんとBさんとCさんの三人がいて、CさんはBさんを、BさんはAさんをリスペクトしているとします。これは下図の左端のようにわかりやすい上下関係の構造で、Aさんが一番「上」になりますよね。

しかしここで、もし「AさんがCさんをリスペクトしている」とどうなるでしょうか?

この場合は右端のような「三すくみ」の構造になります。ちょうどじゃんけんのように、三人の誰も「上」ではない関係性です。


幸いなことに年齢を重ねるとともに、こういう関係性を感じる機会が増えています。もしかしたら僕のキャリアパスがぐちゃぐちゃで、越境好きだからかもしれませんが、特定のセグメントだけでなく色々な界隈の人が交わる場で、こうした感覚を得ることが多いような気がします。

どんな業界にも(もちろんアート界でも)「権威」や「地位」みたいなものはあります。ビジネス界隈だと経済的な成功が尺度になるでしょうか。僕は昨年スタートアップを始め、まだまだシード期ですから、上場した起業家とくらべたら駆け出しみたいなものですし、大きな企業の方が信用や社会的地位は高いです。

一方、大学で客員教授をしていたりすると、「教え子」に大企業の方だったり自治体の方がいらっしゃったりして、ビジネスの場で出会って営業提案するなら「上」かもしれない方から「先生」と呼ばれることもあります。アカデミアにはビジネスとはちがうヒエラルキーがあるわけですね。さらにアート界隈ではまた全然ちがう軸があって、ビジネス界隈のすごい高位な人でもアーティストの前では一ファン、みたいなこともあるでしょう。

それぞれの業界で「地位」を測る軸が違うので、リスペクトや上下が交錯する感じになる。これはただのフラット(図の真ん中)ともちょっとちがって、リスペクトの矢印が編み物のように上下に入れ子になっているイメージです。それはあたかもペンローズの三角形や階段のような、平面(フラット)ではなく、上下が動的に入れ替わる不可能図形がつくる空間性に似ている気がします。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E4%B8%89%E8%A7%92%E5%BD%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E9%9A%8E%E6%AE%B5



「茶の湯」の独特な磁場

「リスペクトの編み物」のような関係性が心地良いと僕は感じます。逆にいうと「上下」が固定化され強調される場にはどうにも気持ち悪さを感じます。

そしてこういう、ただのフラットでもなく上下が固定されない関係性は、特にアートの場で感じることが多いんですね。

例えば、千利休が大成した「茶の湯」、そのお茶の席では現世的な上下が超越されます。

千利休は信長や秀吉のような天下人に仕えましたが、茶の道では千利休の方が師匠。そして茶室に入る時、時の最高権力者や戦国武将もが、躙り口で刀を置き、全員が頭を下げて入ります。

「一期一会」という言葉がありますが、明日は戦に出て死ぬかもしれないという極限の緊張感の中で、戦場で出逢えば敵同士殺し合うような武将たちも、茶の席では身分や利害関係を超越し、共に茶を味わいます。


そういう意味で、茶の席は現世的な上下や対立を越え、重力を超越した独特な時空間だということができます。


組織も重力から引力の時代へ

少し前に、組織のパラダイムの変化について考えていました。

近代以降20世紀までの組織では、鉛直性が強く「上下」関係こそが重要でした。「昇」進や「上」司という言葉にみるように上が偉くて下が劣るという構造ですね。

これはいわば「重力」に支配された組織です。「組織のピラミッド」という言い方がされたりしますが、地球上の建造物は「重力」があるために基本的に上階ほど狭くなる構造となるように、上層ほど席が少なくなる椅子取りゲームなわけです。そして「重力」に抗いながら競って上を上をと目指し、上に立つものこそ重力を制した強者だということになります。これが極まったのが近代で、だからこそ高層ビルや「タワマン」がステータスシンボルになったわけです。

しかし、組織の形や働き方は徐々に変わり、「重力」から解放されつつあります。たとえば複業で他の組織でも価値を出す人が増えると、(いわゆるプロティアンキャリア的に)一つの組織のロジックだけで地位を測れなくなってきますよね。

当時はこれを「働くが無重力化する」と呼んでいましたが、鉛直軸が強かった左側のパラダイムから、右側の宇宙空間に浮かぶ星々のように、上下の無い時代になってくる。

軸が複数になると一軸の上下にはあまり意味がなくなり、鉛直性は弱まります。といっても、「重力」がなくなるわけではなく、「重力」とは実は「万有引力」の現れの一つでしか無いと気づき概念が拡張される感じです。

宇宙空間では引力は「万有」であり、ある星は他の星々と複数の方向から引力を受けています。近さや質量が大きさで引力は異なりますが、小さくとも複数の星から影響を受けているのであり、かつそれは1wayではなく相互の作用です。

一つの星は無数の天体・物体から引力を受けています(地球もまた僕に引っ張られている)。細いものも太いものも含めて、無数の物体から引力の糸が絡み合っている(これも編み物のようなイメージ)


無力化ではなく、むしろ世界と新たに関係を結び直すこと

ここで重要なのは、「宇宙は無重力」といっても、それは力や関係の糸が切れて無くなって「無力化」してしまうことではなく、むしろ関係の糸が多元化する、ということです。

先に述べたように茶の席では現世的な上下関係や対立構造を離れた時空間が生まれます。しかしそれは現社会と(超越はしていても)単に隔絶されるということではありません。


ただ単に社会的な関係を無視してしまうことは、社会と結び目のない「無敵の人」と化したり、虚無主義に向かってしまうでしょう。

そうではなく、茶の湯やアートが成すことはむしろ「無敵の人」化の逆で、世界との関係の糸や結び目を増やすことではないでしょうか。

人は現社会で暮らしているとつい、固定的で普遍的な価値の軸があるように思い込み(偏差値、学歴、年収などなど)、それに執着してしまいがちです。しかし、本当は世界には無限の価値軸があります。軸が増えることで、重力は引力の一つでしか無かったと相対化され、それを超越し無限の中で俯瞰できるようになる。これが茶の湯やアートの力だと僕は思います。


アートは価値の多元化を志向し、日頃透明化してしまっている世界の様々のものと関わりの糸を結び直すのです。茶室はとても小さな空間ですが、そこに飾られる花や掛け軸を通じて、世界や宇宙とつながることができます。花は豪奢なものでなくてもよく、日常で見過ごされている路傍の花でもよい。俳句もそうですが、アートの触発が人に促すのは、世界と新しい関係性を築き直すことなのだと思います。


「アンチ」より「トランス」、「ポリ」そして多元性plurality

アートは「問い」とよく言われます。実際、反体制的な主張や常識への挑戦が強いメッセージとして含まれる作品も多くあります。

しかし僕は、アートはアンチテーゼを超えていくものではないかと思っていますし、そういう作品が好きです。

なぜかというと、「アンチ」テーゼを掲げることはある意味では既存の軸に囚われてしまうことでもあるからです。「これはダメだ」「そっちは間違っていてこっちが正しい」という対立は、その否定の身振りとはうらはらにかえって旧来の価値観に固執することにもなりかねません。

僕が良いと思うアートは、社会に対して「アンチ」テーゼを唱えるだけではなく、既存の軸を相対化してしまうような新たな価値観を導入するものです。これは、「アンチanti-」というよりも、「トランスtrans-」や「ポリpoly-」という接頭辞の方が感覚的には近いかもしれません。「トランステーゼ」や「ポリテーゼ」…これは僕の造語ですが、既存の軸を超越し、軸を多元化するアートに惹かれます。

「ダイバーシティ」もまたこれと似た構造があり、だからこそアートは本質的にダイバーシティ的であると考えています。男性-女性という二項対立や、強者-弱者という軸での争いに終始するのではなく(もちろん弱者の権利を取り返すことは重要ですが、究極的にはそれを超越していく)、目指すべきは価値軸を増やし、多元性を目指すことではないでしょうか。


オードリー・タンさんも、多元性についてよく話されています。

When we hear “the singularity maybe near”, let us remember the plurality is here.

シンギュラリティより多元性の時代。そのためにアートやアートがつくる場がますます重要になってくるはずです。

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