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「イタリアデザインを語る場」をつくるー新しい文化のプロセスをリサーチする。

イタリアデザインを語る場。」というnote内のメンバーシップをつくることにした。昨年末、デザインについてぼくが考えている方向に関して以下記事を書いたが、今年から行動をおこすにあたり、あたらめて動機と目的をメモしておく。

メンバーシップの内容はタイトル通りなのだが、特に20世紀後半のミラノを中心としたデザインが話題の中心になる。1970年周辺から1990年周辺までの20年間少々が対象だ。例えば、ジャンカルロ・ピレッティのプリアチェアは1968年、ジョエ・コロンボのボビーワゴンは1970年、ミケーレ・デ・ルッキのフラミンゴは1984年である。正統派デザインとアヴァンギャルドデザインの動きが見てとれる。

ジャンカルロ・ピレッティのプリアは1968年。
コロンボのBobyは1970年。
ミケーレ・デ・ルッキのフラミンゴは1984年

もちろん、2024年現在のデザインも視野に入っており、懐古の場ではない。20世紀後半のデザインに今に役に立つヒントを探すのだ。

これをテーマにした本をイタリア人との共著で書こうと考えている。そこでリサーチにおける試行錯誤を裏話としながら、プロセスの記録を「イタリアデザインを語る場。」に残しておくのが目論見だ。

最近語られることの多い大文字(広義;社会などデザイン対象が大きい)のデザインが喪失している小文字(狭義;有形の工業製品などデザイン対象が小さい)のデザインのエッセンスを再評価することで、大文字デザインと小文字デザインを繋げる、あるいは一体化することが目標だ。「喪失している」と書いたが、「意図的に喪失した」というのが正確である。

コミュニティや社会をデザインするに、つまりは大文字のデザインの間口を広げ敷居を下げるため、「皆さんがデザインにイメージするセンスとか不要なんだよ」と盛んに説いたことで足元が揺らいできた。

(そこに偶然にもうまくはまったのが日本では「アート思考」であった。アートビジネスを盛り上げようとの動きに暗に結びついたかもしれないが、それは日本に特殊な状況であり、世界の各国でも同じ動きがあったわけではない。一つには、アートビジネスが定着している地域では、「アート思考」を普及させるとの動機が生まれにくい)。

足元が揺らいだ、というのは、デザインが骨ばったというかやせ細っていくような印象をぼくはもっているのだ。太文字のデザインがより広い範囲をカバーするようになりながら、実質、やせ細るとはどういうことか?

物理的なモノー殊に大量工業製品ーの価値が劇的に落ちたのだ。今や、電子・電気製品はある特定の地域で生産され、一目でメーカー名が分からない真っ黒なスマホが全世界の人々の手のひらを覆い尽くしている。

自動車もそうだ。世界のきまったデザインスクールで学んだ人たちが各国に散らばり、メーカーの個性もローカル性もほぼないクルマが開発されている。家具、特にソファやベッドも利益の出やすいコントラクト向けにおしなべて似たようなものが作られている。

そして、瞬時に流行を取り入れた既製服の開発・生産システムは気候温暖化の悪玉になってしまった。

例外はあるが、大きな流れの存在は否定しがたい。

だからこそ、ローカルのクラフトが注目されるという逆の現象が出現している。あるいは作家性の高い雑貨などが有難がられる。審美性の領域が軽視され過ぎたとき、乾いた喉を癒すように審美に対して鋭敏であることを欲する。新ラグジュアリーも、この潮流と合っている。

今とは、そういうタイミングだ。

さて、大文字のデザインが熱く歓迎されてきたことによるマイナス面として気になる点がある。

抽象的な議論へ過度の偏りがでたことだ。

最近の分かりやすい例でいえば、「この商品を欧州市場で売りたい」と語るより、「日本文化を欧州の人たちに広めたい」と語る人が増えたことだ。日本文化にある特徴、「ミニマリズム」「余白」「加えるより引く」が世界に貢献するはず、とも言う。

精神性が前のめりになっている。

もちろん、インバウンドとともに体験に重心が移り、日本にいながらにして日常的に日本文化を体外的にアピールする契機が増えたことも後押ししている。しかしながら、世界が無形のものだけで構成されているわけでもない。それにもかかわらず、有形への目配りが不足気味である。

だから、あらたな中庸を求める必要性が生じている。

実のところ、有形と無形、小文字のデザインと大文字のデザイン、これら双方向からの綱の引き合いが極めて興味深いかたちで行われたのが、前にも触れた1960年代後半から1990年はじめにかけてのイタリアのデザインであった。20世紀前半のドイツのバウハウスに基づいたモダンの次にくる表現が探し求められた。

21世紀、大文字のデザインが風を切って闊歩するなかで、小文字のデザインの威力を再評価している最近の動きが、下記で紹介した、1960年後半以降のラディカルデザインの数々の代表的企業の買収に表れている。

あえて煽るような言い方をしよう。

一時話題になった「デザイン思考」の行く末を論じている暇などないはずだ。そのようなレベルでデザインの是非を語ること自体、大文字のデザインを見誤っている。

もっと考えるに相応しいテーマがデザインにはある。何も、簡単なことを難しく議論するためにデザインという言葉をもってくるのではない。逆だ。人の基本的な行為と人々が生きる大きな風景を繋ぐにデザインが都合の良い言葉なのである。

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デパートの松屋がデザイン教育に踏み込むというニュースは、小文字デザインを起点としていそうだ。結構なことだが、大文字のデザインについて、どう考えているのだろうか?

大文字のデザインに関わる人も受講したくなるような内容だと期待がもてる。

冒頭の写真©Ken Anzai


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