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閉塞感からの脱却 マージナルな学び

マージナルな学びによる成長の道。自分のコンフォートゾーンから一歩踏み出し、未知なる環境での体験を通じた学びとパーム・ジュメイラについて。


閉塞感を打破する三つの鍵

先の記事で、下記のように書きました。

僕は、閉塞感が嫌いです。今日できないことは。一生できない。今日できることも、いずれできなくなる。この尻すぼみの状況こそが閉塞感だと考えています。その逆はと言えば、今日できないことが、できるようになる未来を信じられること。今日できないことが、できる明日が来ると思えること。その可能性こそが、閉塞感の真逆と信じています。
1:一人でできないことであれば、誰かと手を組めばいい。
2:能力が足りなければ、道具を使えばいい。
3:自分ができないことができる人と対話したり、新しい道具を使うためには、学び続ければいい。
この3つがあれば、閉塞感を打破できると信じています。

「デビルマンからAIへ 人類が追求する能力外在化の冒険」より

ラーニングなのか?

3について。学びというと、学習というかラーニングというか、知識や技術の習得という行為のように捉えられることが多いと思います。リスキリングなどもそうですが、身につけていくもの、身につけていく行為そのもの。

1999年に公開され、2022年にも新作が発表された『マトリックス』シリーズでも、知識や技能をダウンロードして身につけていました。この「能力習得」という観点から見ることの当たり前さが僕自身にもありました。そのため、上記の3つについて、下記のように考えていました。

1:一人でできないことであれば、誰かと手を組めばいい。
→アライアンス

2:能力が足りなければ、道具を使えばいい。
→テクノロジー

3:自分ができないことができる人と対話したり、新しい道具を使うためには、学び続ければいい。
→ラーニング

しかし、3について、数年前から「ラーニング」という言葉が、いまひとつ合致しないように思えてきたのです。知識や技能の習得そのものを否定するわけではありません。

マージナルな環境

知識を外在化し、そこへての適切なアクセスができれば、必ずしても内在化する必要はないと思います。とはいえ、全ての知識の内在化に意味がないとも思えません。アクセスするには手がかりが必要だからです。

ここ数年感じていた違和感は、そうした知識や技能の内在化や外在化についてではなく、「ラーニング」という習得方法そのものを、「学び続ける」ということと同義にしてよいのか、ということでした。

結論から言えば、「マージナル」な環境を意識することなのではないか、と思うのです。

自分の外側の世界

マージナル marginalとは、境界や周辺などの意味があります。ここから、自分が身を置いているコンフォートゾーンの外側との境界線と考えられます。

学びとは、現在の自分が身につけているものの外側にあるものとの接触から始まる、それを取り込んでいく過程を意味する言葉だと思うのです。さらに言えば、知識として知るだけではなく、体験を通して、経験的に身につけることが学びだと思うのです。

そう考えると、コンフォートゾーンから逸脱し、外部に存在する未知なる環境に身を置き、そこでの体験を通して、新たな経験を得ることが学びなのではないでしょうか。

3は、単に、ラーニングすることではなく、こうしたマージナルな環境に身を置き続けることなのではないかと思うのです。

パーム・ジュメイラの海岸線

ドバイのパーム・ジュメイラは、不思議なデザインで海岸線が作られています。これは、水資源の確保のために海岸線を長くとるためと言われています。陸地の外側にある海との接地面を増やすということは、先ほどのマージナルな環境構築に似ているようにも思えます。

自らの学びを促進するためにマージナルな環境を作ろうとすると、安定的な生活スタイルとは異なった、ある意味で歪な生活、不安定な生活に見えることもあるかもしれません。しかし、そうした歪さや不安定さもまた、学びには必要なことなのかもしれません。

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