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「円売り vs 日本銀行」という未来

毎回ライブミーティングという怖さ

国内外の金融市場において日銀への注目度がにわかに高まっています。海外における関心度はアベノミクスが最も注目された2013年以来の大きさを感じます。7月28日に決断された政策決定は実質的にはイールドカーブ・コントロール(YCC)の撤廃とも言えるもので、日銀がどのように説明しようと長期金利上昇を伴う利上げであります:

同時に正真正銘の利上げであるマイナス金利解除は正副総裁が全面的に否定していることから「もう日銀発のタカ派材料はない」と金融市場が確信するに至っており、逆に円売り安心感も醸成されているのが現状と見受けられます。こうなると今後の日銀政策決定会合は常に円安耐久度を試すライブミーティングになる恐れがあります。今年4月以降、日銀が日本国債の貸出制限に踏み切ったことで債券市場における「円金利上昇(日本国債売り)で引き締めが煽られる」という展開は封じられています。

しかし、為替市場はそうはいかないでしょう。今後、日銀が警戒すべきは「円安(円売り)で引き締めが煽られる」という最も忌避したかった状況ではないかと思います。かつて円高で緩和を煽られ手持ちカードをはぎ取られたのが白川体制でした。植田体制はその逆の展開を警戒したいところです。

既に危うい兆候はあります。8月3日、10年金利が0.6%台後半まで上昇してきたところを臨時国債買い入れオペで抑制するという動きがありました:

これによって「0.65%前後が新しい誘導目途」という理解が浸透した可能性があるでしょう。ということは、0.65%付近の臨時オペで一時的な金利低下と円安が誘発されることを前提に投機的に円売りを進めればそこに収益機会が生まれます。投機筋からすれば「予見できるボラティリティ」を使わない手はありません。実際、臨時オペ後のドル/円相場は大きな振幅を伴っている。本来、日銀は「円安を無視する」という姿勢が望ましいと思います。円安が進んでいる状況に(引き締めで)呼応するという構図は自ら投機筋のゲームに参加するようなものだからです。

その意味で「円安は日本経済全体にとってプラス」と一貫して円売りの挑発を無視し続けた黒田体制は-その意図するところはどうあれ-それほど悪手ではなかったと筆者は思います。そうして思惑を一蹴している間に昨年11月、米国でCPIショックが起きて、そのまま円安は一旦終息するに至りました。多分これが正解の対応だったのではないかと思います。

マイナス金利解除、現時点では「兆し」の段階

日銀が投機筋の円売りゲームに参加した場合、もはやYCCが実質的に撤廃されている以上、マイナス金利解除が必然的に視野に入るでしょう。もちろん、形式的にYCCは健在ですから、10年国債利回りは未だに「ゼロ%程度」が誘導の目途です。それゆえ、誘導する目途を「0.5%程度」へ(公式に)引き上げたり、誘導目標年限自体を短期化(10年→5年)したりする正常化のステップは考えられます。

しかし、投機的な円売りが勢いづく局面に至った場合、本丸である「マイナス金利解除」に辿り着くまで催促が続く恐れがあります。しかも、従前の説明と整合性を取るために日銀はマイナス金利解除に至るまでは「これは引き締めではない」という色合いを残そうとするはずです。余計に投機的な円売りを制御しづらい状況が予想されます。かくして、真の引き締めであるマイナス金利解除の可能性について市場の注目は集まり、実際、筆者においても内外からの照会が増えてきていることを感じます

その実現可能性はどう考えても名目賃金の行方に依存するでしょう。植田体制発足以降、声明文では『賃金の上昇を伴う形で、2%の「物価安定の目標」を持続的・安定的に実現すること』と明記されています。マイナス金利解除の可否も当然、賃金情勢との見合いで決まるでしょう。この点、2023年春闘では基本給底上げに相当するベースアップ(ベア)と定期昇給を合わせた平均賃上げ率が1993年以来、30年ぶりの高水準に達しています。構造的に存在している人手不足に歴史的な物価高が重なったことで実現した数字であり、これを定常状態と見なすかどうかは未だ議論があります。しかし、「マイナス金利政策が正当化されるような状況ではない」と言われればそうかもしれません

もっとも、今のところ日銀が名目賃金上昇を背景としてマイナス金利解除という本丸に至る可能性は非常に低いでしょう。7月の展望レポートではリスク要因として「物価や賃金が上がりにくいことを前提とした慣行や考え方が根強く残り続ける場合、来年以降は賃上げの動きが想定ほど強まらず、物価も下振れる可能性がある」と明記されています。また、内田日銀副総裁は8月2日の千葉県金融経済懇談会における挨拶で「現状はまだ『兆し』の段階ですが、ようやく日本経済が変わるチャンスが来ているかもしれないのですから、粘り強く金融緩和を続けることで、こうした『変化の兆し』を大切に育てていくべき」と時期尚早の引き締めで芽を摘むべきではないとの考えを明言しています

確かに、内田副総裁は「いわば『早い者勝ち』の獲得競争が始まったりしています」、「多くの経営者の方と接してきて、『こうしたデフレ期の企業行動は、変えるべきだし、環境が許せば変えたい』というのが実感なのではないか、と感じます」とも述べており、名目賃金上昇の機運が高まっていることを認めている節もありますが、基本的に現在の日銀のメインシナリオは「『変化の兆し』を大切に育てていくべき」ということに集約されそうです。あくまでマイナス金利解除自体はまだリスクシナリオに類するものだと思います。今後、日銀の言う「兆し」が確かなものと判断されれば、メインシナリオへの格上げも検討される状況と見受けられますが、少なくとも近い未来ではなさそうに思います。

マイナス金利解除でも「焼け石に水」の可能性

さておき、それがリスクシナリオだとしても、マイナス金利解除が視野に入るような状況はこれまで考えられるものではありませんでした。この点、円金利上昇や円高相場の可能性を検討する余地は確かにあるかもしれません。しかし、過去のnoteでも執拗に述べてきた点ですが、今の円相場は「投機は円売り、実需も円売り」という環境に置かれています:

勢いのある円安相場を演出する投機的な円売りが終息しても、ファンダメンタルズ(実需)で見た円売りが残るという点が過去との大きな違いだと筆者は思っています。こうした状況に対してマイナス金利解除という大きなカードをぶつけたとしても円安の潮流が変わる保証はありません。

この点、最近では「既に貿易赤字はピークアウトしており、昨年とは劇的に異なる」という論調をよく見かけます。確かに貿易赤字は今年1月の約▲3.5兆円をピークとして縮小傾向にあります。ですが、2023年上半期(1~6月計)の貿易収支は約▲7.0兆円と歴史的に見て相応に大きいものです。少なくとも現時点(今わかっている最新統計)では昨年上半期(約▲8.0兆円)とさほど大きな違いが出ているわけではありません。下半期以降、前年比で見た改善幅がメディアで騒がれるでしょうが、安定的に黒字を記録することが無い限り、「円を売りたい人の方が多い」という需給環境が根本的に変わるわけではないはずです。

なお、国際収支の観点から需給を評価しても、インバウンド需要の劇的な回復から旅行収支黒字の拡大が取りざたされることが多いものの、話はそう単純ではありません。

確かに、旅行収支について1~5月合計を見ると、昨年の+1013億円から今年は約+1.3兆円へ10倍以上に膨らんでいます。インバウンド需要は為替取引を伴うでしょうから、これは明確な円高要因です。しかし、旅行収支を含めたサービス収支全体を1~5月合計で見ると約▲2.3兆円から▲1.8兆円へ縮小しているものの、旅行収支黒字の急拡大ほど改善しているわけではありません:

これはデジタルやコンサル、研究開発といったソフト面での「新しい赤字」として注目されるその他サービス収支が約▲2.0兆円から約▲2.7兆円へ増えていることに起因しています。これも過去のnoteで扱いました:

また、これも過去のnoteで議論しましたが、第一次所得収支黒字の一部が還流しないことを踏まえたキャッシュフロー(CF)ベースの経常収支は慢性的に赤字化している疑いが強く、筆者試算では2023年上半期の経常収支は統計上、+8兆132億円と前年同期(+7兆2103億円)から黒字幅が増えているものの、CFベースでは約▲3.6兆円程度の赤字だった疑いがあると見ています。単月の貿易収支改善や外れ値だった昨年からの改善を囃し立てるのは視野狭窄であり、俯瞰すれば実需が円安を正当化する状況はまだ残っているように思います。この辺りの考え方は以下の記事で取材して頂きました:

日銀の単騎突撃はカードを浪費するだけ

こうした状況の下、継続的な円高・ドル安を期待したければ、米国経済のはっきりとした悪化とそれに伴う米金利低下、これに加えて本邦貿易収支が継続的に黒字を記録するような展開が必要と筆者は考えます。少なくとも円安がテーマ化している状況で、需給環境も円安を支持するような地合いの中、日銀がこれを覆そうと単騎突撃しても貴重なカードを浪費するだけで大した時間稼ぎにならないというのが過去の教訓ではないかと思います。

これは2008年以降の超円高局面が白川体制による断続的な緩和では全く終息せず、結局のところ、FRBの正常化プロセス開始や欧州債務危機終息が重なる2013年まで待つ必要があったことを思い返せば明らかでもあります。当時は海外環境(内外金利差)の変化を待てば潮流が変わったものの、今次局面は需給環境の変化も必要という意味で難易度が高いように感じます。

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