陰謀論に取り込まれないための、3つの見極めポイント
お世話になっております、若宮です。
今日は「陰謀論」について書きます。
陰謀論の怖さは「ゼロ距離」化とそれによる盲目性
「陰謀論」で一番危ないのは「ゼロ距離」になって取り込まれてしまうことです。
「ゼロ距離」になると対象を観察すること=客観的に見ることができなくなってしまうからです。
僕がもっとも恐れるのはこうした「盲目性」であり、軍隊でも宗教でもそうですが、その中で人間は割と簡単に狂います。ダイバーシティを推進するのも、同質性の高い組織が陥る盲目性を恐れるからです。
「陰謀論」については「一般には知られていない秘密なんだけど…」とさも自分たちだけが真実を知っているような言説がなされます。その中には科学的なエビデンスが無い「トンデモ」も多分に含まれますが、反証不可能なことも沢山あり、真偽を見極めるのはなかなか難しいものです。
一方で「非科学的」「エビデンスがない」からといって、陰謀論を全面的に否定することもまた危険だと僕は考えています。「科学万能」もある種の盲信ですし、科学には必ず(少なくとも今のところは)証明しきれない仮説があり、間違っていることも必ずあります。「そんなわけないやろ!」と思うことが数十年後には正しいと証明され、科学的な正解が変わる、というのは歴史的にも繰り返されてきたことです。
なので陰謀論については、「ゼロ距離」で盲信するのでも全否定するのでもなく,適切な距離を取って眺めるのがいいのではと思っています。正しい正しくないの水掛け論をするよりも、陰謀論とは適度な距離感で付き合うのがいいのではと思っています。
陰謀論の僕の3つの見極めポイント
陰謀論を完全に否定するのではなく、適度な距離感を保つために、僕なりに気をつけているポイントが3つあります。
その3つとは①批判の矛先、②情報ソース、そして③閉鎖性です。これら3つの兆候を感じたときは「ちょっと危ないぞ」と距離を取るようにしてます。
①批判の矛先
「陰謀論」の危険性を避けるための一つ目の見極めポイントは「批判の矛先」です。
まず前提として、「批判」というのは僕は全然悪いことでは無く、むしろ良いものだと思っています。科学や文化、社会通念をアップデートするためには「批判」が必要だからです。
ただし「批判」というのは、基本的に自己も含め批判の対象にすべきものだと僕は考えています。逆にいうと、自己批判を含まない「他者批判」は危険だと考えていて、他者のみを否定すると自己に対しては防衛的になり、結果として「自分は正しい」という思い込みが強まりどんどん盲目的になってしまうからです。
僕は宗教を否定しませんし、信じる人に救いを与え、生きる力や倫理をもたらしてくれるとも思いますが、それが高じて盲目になってしまうことには、常に注意が必要だと思っています。
多くの宗教には「排他」と「迫害」のロジックを持っています。
「排他」に関しては偶像崇拝すら禁じる「嫉妬する神」が典型で特に一神教にその傾向が強いですが、多神教も含めて「異教」「異端」「邪宗」など教義以外のものを悪とし、排斥しようとする傾向を大体の宗教が持っています。
また、自分たちの教義や活動に対して批判や否定をされると、自分たちの宗教が正しいから弾圧されるんだ、というような「迫害」の論理も持っています。それは布教や信教の困難さに打ち勝つモチベーションを与えてもくれますが、「迫害ロジック」が発動すると批判を受け付けなくなり、自分たちの正しさを狂信的に信じていく、ということも起こります。(カルト教団などで信者を親や周囲の人が心配して説得に行っても「迫害」だとしてむしろ殻に閉じこもってしまう)
「異教」「邪宗」と批判の矛先が外にだけ向かって、自分たちへの批判は「迫害」として受け付けない。自己批判ができなくなり、悪いことはすべて他者のせい、そうして盲目に陥っていきます。
②情報ソース
二点目の見極めポイントは「情報ソース」です。
陰謀論だけでなく、ゴシップやスキャンダルなどのデマも、危険な方向に進むのはだいたい情報ソースが一次情報ではない時が多いように思います。
自分が実体験していないことや、一次情報にあたらずに聞きかじった情報だけが独り歩きして行く。メディアリテラシーの問題でもありますが、一次情報に当たらない人は都合のいいように情報を切り取ってしまう傾向があります。誰かの発言からも自分たちの考えを補強する部分だけを取り上げ、都合のいいように情報が歪曲されていく。①の自己批判の欠如にも通じますが、情報ソースの偏りによって盲目が強化されていきます。
一次情報に丁寧に当たることは時間がかかり、そうでない方が情報の取得や流通が楽でスピーディに出来ます。結果として都合のいい(しかし根拠のない)情報の方が加速度的に集まり・N次的に拡散され、どんどん偏った見方に陥ってしまうのです。
N次情報を安易に拡散してしまうことの危険性は、情報に対する「無責任さ」にもあります。
スキャンダルや陰謀論で誰かがやり玉に挙げられ叩かれまくった後、それが冤罪だったりフェイクニュースだった、ということも多くあります。当人はとてつもないダメージを受け、後で真実が明らかになったとしても、回復が困難なほどですが、それに対して誰も責任を取ることはありません。
(これは昭和の「メディア」でもよくあったことですが)匿名的なSNSによってさらに悪化してしまっています。インターネットの拡散性と匿名性が無責任を強化し、N次の情報で叩いた人は「他の人が言っていたことを引用しただけ」とか「そんなつもりはなかった」といった言い訳をし、分散した罪の意識はほとんどゼロで、何らの責任を取りません。
本来なら、情報というのは一次情報や自分の実感として引き受けられるべきであり、発信には責任が伴います。
「陰謀論」が無責任に広まるケースでは一次情報ではないケースが多いと思っていて、それを拡散している人がどれくらい一次情報に基づいているのかを注意深く見ることで一定回避できるように思います。飛び交う情報が表面的で無責任な情報だと感じたときは距離を置くようにした方がよいでしょう。
③閉鎖性
三つ目の見極めポイントは「閉鎖性」です。
人間は閉鎖的な空間にいる時、盲目性に陥りやすい傾向があります。パワハラや虐待でもそうですが「閉鎖性」は正常な判断を失わせる危険な条件です。
閉鎖的な環境では、いわゆる「エコーチェンバー」と呼ばれる現象が起きます。
閉鎖系の反響室のように、自分と同じ意見だけが反射して繰り返され、どんどん増幅されていってしまう。
かつては「閉鎖性」といえば、物理空間の閉鎖性でした。外界と隔絶された施設やいわゆる「ムラ」組織など、閉鎖性を目で見てわかることができました。そしてインターネットはそうした物理的な閉鎖性を開放する、と期待され、ある部分ではそうなりもしました。
しかし昨今、閉鎖性を解決するはずだったインターネットが、皮肉なことにむしろ「閉鎖性」に加担しているようにも思います。
その閉鎖性は物理空間ではなく、情報空間における閉鎖性です。SNSにおけるフォローやミュート、ブロックといった機能によって、「フィルターバブル」と呼ばれる小さな情報空間に閉じこもってしまう。すると気づかぬうちに、自分のタイムラインでみる情報がすべてであるかのように錯覚し、盲目に陥ります。
とくに匿名のSNSには攻撃的な「クソリプ」や暴言も溢れています。それに対処するためには「ブロック」は便利な機能ですが、あまりに使いすぎると「内輪」に閉じこもってどんどん閉鎖的になっていってしまいます。
「陰謀論」に関しても、ある主張を持つコミュニティで意見の同質性がすごく高くなっていたり、異なる意見を聞く耳を持たない感じになっていたら危険信号です。そういうコミュニティでは仲間のようでいても、ちょっとでも「異論」を言った途端袋叩きにあったりします。「黒い羊効果」と言われる現象です。
僕はこういうコミュニティとは距離を置くようにしています。みなさんも、気づかぬうちに自分の周りが閉鎖的になっていないか、時々チェックしてみるとよいかもしれません。
ゆさぶりとネガティブ・ケイパビリティ
陰謀論で最も注意すべき点は、「ゼロ距離」になって盲目になり、客観視できなくなることです。批判の矛先が外にばかり向いたり、根拠のないN次の情報に振り回されたり、閉鎖的になったりしている時には特に注意が必要です。
これらに意識的に注意する必要があるのは、こうした傾向は人間の脳の特性とも関係しているからです。脳は安定状態を求める傾向があり、わからないことにいったんの(自分の期待した)答えがあると安心し、それを求めるようになります。
こちらのけんすうさんの記事では自己肯定感が低い時に「確証バイアス」に陥ってしまうことが書かれていますが、
「確証バイアス」や「現状維持バイアス」も基本的には脳が安定を得たがるから起こるバイアスだと言えます。
なので特に不安定な時期には注意が必要です。例えば災害や戦争の時期には、心理的に不安定になりやすく、デマや陰謀論に踊らされやすくなります。
現代は「VUCAの時代」と言われる不安定な時代に入りました。こういう時にこそ人は「陰謀論」に取り込まれやすい、ということを意識したほうがよいでしょう。
不安定な時代を生きていくためにこれまで以上に必要なのは、「揺さぶり」を楽しむ余裕を持つことではないか、と思っています。違う意見を受け入れたり、自分の信念に対する「揺さぶり」自体を観察し、面白がる。
不安定な状態に耐える力=「ネガティブ・ケイパビリティ」も注目されていますが、目先の答えに飛びつかず、不安定さを受け入れる力を育むことできれば陰謀論に取り込まれづらくなるでしょう。
そしてこうした「揺さぶり」を楽しむ力や「ネガティブ・ケイパビリティ」はアートと触れることで育むことができると僕は考えています。アートは一つの正解を示すことなく、常に自己批判的なモーメントを持ち、一次情報たる身体や感情的実感をもって「開かれ」を志向し、それを見る人に「揺さぶり」をかけ続けるものだからです。
芸術家はカリスマ的ではありますが、宗教とは逆のベクトルをもち、盲目性から解き放ってくれるかもしれません。
南海トラフや気候災害、戦争の不安。そんな中を生きる僕たちは心理的に不安定になりやすく、陰謀論にこれまで以上に注意が必要です。①批判の矛先、②情報ソース、③閉鎖性に着目することで、陰謀論に取り込まれないように注意したいですね。