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ある場が空いてるなら、どこか他の場が混んでいるはずーイタリアデザイン再考
今年のはじめから、ミラノ工科大でデザインを教える先生と一緒に本を書くアイデアを練り始めた。テーマは1970年代のミラノのデザイン状況だ。
戦後のイタリアデザイン史、特にプロダクトデザイン史を辿っていくと、1950-60年代と80年代の活気とは反対に、それらの年代に挟まれた70年代が冴えない。
50-60年代に有名になったデザイナーが70年代にも出している新作はある。しかし、70年代の新星、あるいは新しいデザインの動向に乏しい(ようにみえる)。
かといって、何もなかったわけではない。記録に残る動きが目立つことがなかった。「テロの時代」と呼ばれる暗黒の10年だったからなのか?
いや、そうではなさそうだ。短命で終わったが、新しいコンセプトのデザイン学校もこの時期にできた。
そこで、この10年間の生き証人たちにいろいろと話を聞いていったらどうか?と冒頭のように考え始めたわけだ。
今年最後の記事は、かなり局地的な話題ながら、このテーマを多角的に見ながら来年の抱負に繋げていきたい。
イタリアデザイン史の展示がマエストロ主導ではなくなっている
20世紀後半、つまり戦後のおよそ半世紀がイタリアデザインの第一黄金期で、今世紀はそのデザインシステムがより定着した時期と言えるが、この前半期のデザイン史というと、いわゆる「マエストロ」の名前が並ぶことが多い。
上述した50-60年代にヒット作を世に出した人たちがマエストロと称されることが多く、これらの人たちの業績に関する本は沢山出版されてきた。実際、ミラノで数多く開催されてきた展覧会も、そうしたマエストロが主人公である場合が多い。
しかし、今秋からスタートしたミラノのトリエンナーレ美術館の2つの展示は、今までの捉え方とは異なる見せ方をしている。
一つ目、イタリアデザイン史のゾーンは、これまでのような時を追いながらマエストロの手による名作の数々を知るという構成になっていない。テーマごとに、しかも、プロダクトとファッションの両方のデザインを交差させながら展示している。例えば、広範囲をカバーするデザイン文化の存在、ミラノのデザインシステムにおける国際化、といった具合だ。
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二つ目、エリオ・フィオルッチの回顧展が開催中だ。1960年代から新しい見方をファッション界に持ち込み、それがプロダクトデザインにも影響を与えていった企業家であり、ブランドである。ファッション・ジーンズもフィオルッチが先駆者であり、プロダクトデザインの70年代の空白を埋めているのがファッションの動きだったのだ。
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本に書きたいと思っていたテーマの資料が一挙に公開されたに等しい。というのも、思ったよりも、この70年代がわかる資料が乏しいー例えば、トリエンナーレ美術館にある30万点に及ぶアーカイブセンターにおいて、今年の前半、いろいろと資料を読んでみたが、意外にも、これ!と思えるのが少ないのである。
70年代のプロダクトデザインの変質を感じ取った契機
70年代の空白ぶりは、トリエンナーレ美術館のイタリアデザイン史に関する今年前半まで展示していたヴァージョンを見ていれば明白だった。ただ、ぼくがこの時代に何が起こったのか?を追求していこうと思った2冊の本がある。
一冊は80年代のメンフィスをリードしたエットーレ・ソットサスの自伝『夜ノ書』だ。ミラノのマエストロデザイナーとやや距離を持ちながら、分野の異なる人たちとよく付き合っていた。その1人がエリオ・フィオルッチである。
もう一冊はクリノ・カステッリ『No-form 2020』である。カステッリ自身、70年代に形態ではないデザイン、即ちインターフェイスデザインやCMF(カラー、マテリアル、フィニシング)を切り拓いた人だが、彼もエリオ・フィオルッチと関係があった。
そして、こうした異なる領域の人たちの「接着剤」になっていたのが写真家という職種の人たちであるのに気づいた。
もともとファッションの世界ではオートクチュールが60年代に低調となり、60年代後半からプレタポルテに移行していったので、60-70年代のファッションの吸引力には注目していた。
イタリアのファッションもプレタポルテ以降が国際舞台へのデビューであり、しかも、フィレンツェやローマがオートクチュールの中心地であったのが、プレタポルテとなりミラノが主要発信地になったため、プロダクトデザインとファッションデザインの出逢いがおこりやすくなった。そこに両方の領域に足を踏み入れる写真家が結果的につなぎ役になる。
一方、現在のデザイン、映画、音楽などのネタが1970年代に起源をもちつつあり、なおさら70年代のありようを見直す意義がある。
新しいコンセプトの誕生のプロセスに見るべきものがある
ポップカルチャーや1968年に世界各地におきた学生運動やグリーン革命が多くのビジョンやアイデアを社会に放り込み、それら自体では成果に乏しくとも、それらが示した方向性は長い時間を経て、徐々にその後の世界のコンセプトの基礎となってきた。
例えば、「サステナビリティ」という表現が多用されるに至ったのは今世紀かもしれないが、その意味するところは近代以降に目指すものとされ、殊に1960年代後半以降により世界的に顕在化した。
この「顕在化」までの前プロセスも含めて年表化しているのがエリオ・フィオルッチの回顧展に展示されている。1960年代のロンドンやパリの「先進性」も示され、フィオルッチは特にロンドンで「新しい空気」を吸ったことで新しいコンセプトの創造が促されていた。
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人が場や他の人と出会い、ネットワークが形成されていく中でコンセプトが醸成されていくのが定石だろうが、その良い見本が70年代にあり、具体的にはミラノのデザインが好例になる。
デザインシステムに再び視線が注がれる
1980年代くらいだろうか、イタリアのデザインとはイタリア人のデザイナーの才能を指すのではなく、ミラノにあるデザインのシステムを指していると言われるようになった。
その一つが1960年代に家具輸出を目的にはじまったミラノサローネ(サローネ国際家具見本市)がコアになり、そこから市内で開催されるイベントを指すフオーリサローネ、35歳以下の若手デザイナーの登竜門・サローネサテリテといった機能拡大である。このプラットフォームにのれば、有力な企業家の目に才能が、または新作が目にとまる確率が高くなる。だから世界中のデザイナーがミラノのどこかのシーンに絡みたいとやってくる。
「「デザイン文化」をデザインするーミラノデザインウィークの変遷」という4年前の記事で、これらの変遷を書いたことがある。
そして1990年代の終わりにはイタリアの中央政府がイタリアデザインに関するリサーチに予算をつけ、ミラノ工科大学の教授だったエツィオ・マンズィーニがリーダーをつとめたプロジェクトがある。
このなかでミラノのデザインシステムも対象となり、またロベルト・ベルガンティはイタリアデザインの特徴は意味のイノベーションであると指摘したのである。
ただし、その後、このリサーチからスピンアウトした企業は長続きせず、このリサーチレポートもオリジナルは廃却処分されてしまった。
今世紀にはいり、デザインの教育機関、トリエンナーレ美術館やADI(イタリア工業デザイン)ミュージアムといったインフラの充実がさらに充実し、サローネとフオーリサローネがミラノ市を軸に積極的にコラボレーティブな形態を探ることになった。
だが、このシステムをデータをとりながらアカデミックに探ることは、この20数年間なかった。家具を中心としたデザインだけに目を向ける時代ではなくなったこともあるだろう。1989年にピエモンテ州ランゲ地方ではじまったスローフード運動がスローシティ宣言に発展し、世界のローカル食文化の維持に活動がシフトしたが、これがデザイン活動と言われるようにデザインそのもののが変質した。ぼくも自著のなかでレッジョエミリア幼児教育の創始者もデザイナーとみるべきと提案した。
それが今年になって風見鶏は新しい方向を示した。その一つが先に述べたようなトリエンナーレ美術館におけるイタリアデザイン史の見せ方の変化である。もう一つが、サローネがミラノ工科大学にミラノデザインシステムの継続的調査を依頼し、その第一回のレポートが先月公開された。
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この企画が今年2月に公表された段階で、これらをまとめたミラノ工科大学の先生と会って話したが、マエストロだけに注目したデザイン史は有効ではない、との意見をもっていた。マエストロの実績は賞賛してしかるべきだが、2024年を生きる人間たちにとってノスタルジー以上のものをマエストロ中心史で得られるのか?ということだろう。
トリエンナーレ美術館の方向変換の背景も、このような意見と共に分かってくるはずだ。
量産のロジックにどこまで従うか?
実は、かつて20世紀後半のマエストロたちへインタビューしたり、彼らの資料を探っていくと、雑貨や家具をデザインしたマエストロたちもあの時代の花形であったカーデザインには並々ならぬ関心をもっていた。そして、実際にレンダリングやプロトタイプ程度の関与をしたデザイナーは少なくない。
だが、それらが量産に至らなかった理由もよく想像できる。1950年代、トリノはカロッツェリア(車体メーカー)が国際的に活躍していた。クルマのデザインと雑貨や家具のデザインのロジックはかなり違う。前者は1人のデザイナーが発揮できる領域が限定的であるーカーデザインの世界の第一人者であるジュージャロでさえ、量産メーカーのデザインへの提案では苦労したのだ。
ミラノのインテリアを主体とするデザイナーたちは、デザインに関与する人の数が少ないところで仕事をするのに慣れている。例えば、1970年代後半、フィオルッチはアルファロメオのジュリエッタのフィオルッチバージョンを依頼されたとき、エットーレ・ソットサスとアンドレア・ブランジに相談した。
ソットサスはオリベッティの事務機器のデザインに長くかかわっていたが、クルマほどに部品点数が多くはない。
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2人は車体の下部に青いラインを提案したが、そうするとタイヤが黒というのはどうしても受け入れがたい。そうデザイナーたちは主張した。その結果、タイヤメーカーのピレッリからは対応不可能とされ、アルファロメオには何とかやって欲しいと願う。この応酬に右往左往した。
今でこそ扁平率の低いタイヤが普及し、ホイールとともに外観でタイヤの黒の面積と印象を減じることは可能になってきた。しかしながら、当時のタイヤの扁平率は高い。黒が目立つ。妥協しがたい。最終的にピレッリは青いタイヤを実現したそうだが、その時のデザイナーの声は「君たちが今、青いタイヤを作らなかったとしても、他社がいつかやるはず」というものだった。
イタリアデザイン、いやミラノのプロダクトデザインのロジックの柔軟さと限界を知ったうえで、イタリアデザインをどう評価するか?がテーマになるのだ。現在、コントラクト案件で利益を出している量産家具メーカーも多いが、かなりのデザインは個性に欠ける。中規模量産で個性を無くしたら、あまりに哀しい(と語る人は少なくない)。
だから、このポイントは70年代も振り返りながら議論してしかるべきところなのだ。
イタリアデザインとラグジュアリーの関係は?
量産の話をしたので、ラグジュアリー領域にも触れないといけないだろう。ぼく自身、以下のように新ラグジュアリーを探索しているので、イタリアデザインとラグジュアリーの関係について語る機会も多い。
ラグジュアリーは少量生産である、という「公式イメージ」がある。しかし、現在、ラグジュアリーな商品は大量生産品ではない、と言い切るのも難しい。限られた人たちにつくられたものをマス市場に売るとの論理矛盾をおっぴらに適用してきたのが、この数十年のラグジュアリー産業である。
言うまでもなく、イタリアの家具は高級家具とされラグジュアリーである、と見なされることが普通である。その一部を前世紀の後半にデザインされたものが占める。
ここで注意すべき点がある。
戦後にデザインされた雑貨や家具は、戦時中に喪失した生活を回復させ、かつより良くするためのコンポーネントであった。より民主的な社会を構築することを夢見てデザイナーたちは無我夢中で道を探ったのである。その成果品が、現在、ラグジュアリーとされているのだ。
戦後まもなくのデザイナーはとっくの昔にこの世にいないが、その系譜にあると自覚しているデザイナーたちはまだ存命だ。その彼らが戸惑うのは、「我々は、ラグジュアリー市場を狙ったのではない。民主的な市場のために仕事をしたのだ。それなのに、今やラグジュアリーとして扱われる・・・」ということだ。
ラグジュアリーはそれ自体を狙うものではなく、自称すべきものでもない。しかし、ラグジュアリーと認知されるための戦略的条件設定は可能である。だが、ここでの戸惑いは、まったくの想定外の展開に対してである。
この点については、まだイタリア国内でも十分に語られていないと思う。デザイナーはラグジュアリーと紐づけられないように注意を払い、ラグジュアリー領域のビジネスサイドの人間が2つの関連付けを探っているからだ。
ここで想起することがある。
ラグジュアリーが「産業化」したのは1980年代である。戦後、ルイヴィトンがフランス以外に直営店を作ったのは東京と大阪で1970年代の後半だ。そして、その延長線上にコングロマリットであるLVMHやケリングが1980年代にできる。
したがって、少なくても1970年代は言うに及ばず、1980年代くらいまではイタリアデザインとラグジュアリーはファッションに限られていたはず。だからこそ70年代のミラノデザイン状況を調べて参考になることは多いと考える。
いわば「ラグジュアリーに巻き込まれる」過程だ。ぼくが探る新しいラグジュアリーは「古いラグジュアリーの波からの脱却」であるから、その意味でも70年代をみておきたい。
自分が良く知る世界から広大な風景を眺める
以上、とても限定された地域の限られた時期の話なので、多くの方は自分には関係ないとお思いになるだろう。ただ、ぼくが言いたいのは、そうした限定されたところと時間に絞っても、見えてくる風景はとてつもなく広大だ、という点だ。
物理的に広い範囲を歩くことは実質的には難しい。だから、ネットや書籍の情報に多く依存する。それも必要ながら、身体的に多くを掴める「拠点」をものにすることが並行して望ましい。
ぼくの今年での経験で言えば、ピエモンテ州ランゲであり、ロンバルディア州の都市マントヴァである。この2つの地域で長い時間の流れのなかで浮き沈みする姿をリアルに感じることができた。
そうすると70年代のミラノデザインに対してもより勘が効くようになる。逆もしかりで、70年代のミラノデザインを追っていることで、ランゲというテリトーリオの理解が増す。来年、このランゲをテリトーリオの観点から論じる文章も冒頭で紹介したミラノ工科大の先生と書く予定だ。
良い年をお迎えください。
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台湾電機大手の鴻海(ホンハイ)精密工業は8日の技術発表会で新型の電気自動車(EV)2モデルを発表した。進出を狙う日本市場向けのコンセプトカーもあわせて披露した。ラインアップを広げEV受託生産ビジネスの裾野拡大を狙う。
同日発表した7人乗りの多目的車(MPV)「モデルD」は全長5.1メートル、ホイールベース(前輪と後輪の間隔)3.2メートルで車内の広さが特徴だ。ファミリー向けなどを想定し、航続距離は800キロメートル。イタリアのデザイン会社、ピニンファリーナと共同開発した。
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下の写真はマントヴァの大聖堂である。右側が11-12世紀、真ん中が15世紀、正面が18世紀に手を入れた姿だが、それぞれの時代に「全体」を追求した結果がここにある。「局地」を知る意味を考えさせてくれる。
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