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「グローバル」という言葉に懐古趣味を持ち込まない。ー「インターナショナルと「ユニバーサル」の復権か?

現在、さまざまな局面で「グローバル化の終焉」が語られます。肯定的に語られること、否定的に語られること、その両方があります。

グローバリゼーションが進む世界で極端(な分断)に陥らないよう、宇宙や文化など多様な軸で意思疎通を図るべきだ。それぞれの国が文化や体制を持つこと自体は大切だ。実現まで時間はかかるものの「地球市民」の一人ひとりが共通の意識を持てば互いに尊重し合えると期待したい。

わりと多いのが、冷戦終了後からのおよそ20数年の「グローバル化」を懐古的に捉える意見です。インターネットの普及で世界中の人が友達になれ、国境という古臭いものがなくなっていくのではないか?と期待した高揚感を懐かしみ、今の流れを忌々しく思っているのです。しかし、循環型システムの確立を目指すとき、ローカルや近距離が必須になります。

ただ、上記の記事をみても分かるように、グローバリゼーションを「地球的市民」へのステップと捉えると、反グローバル化,、即ちローカルの尊重への動きは後退にみえてしまうのです。2年前、「グローバル」「インターナショナル」「ユニバーサル」という言葉について考察してみましたが、再考するタイミングではないかと思います。

世界の人々が繋がることは肯定的に捉える。

どの程度の繋がりかはさておき、ソーシャルメディアや旅あるいはビジネスや文化活動を通じ、できるだけ世界の各地の人がお互いに知り合うことを否定する理由が見つかりません。自分の生活圏以外に住んでいる人のことを知らなくても、世界のことや人生のことを深く知る人はいます。しかし、そういう人は稀です。

多くのケースでは、やはり自分の生活圏以外にあるリアリティを知っておいた方が、ものごとを全体的に、かつ多角的に捉えられるものです。ですから、世界が分断されることによって、交流の欠如が生じるのは歓迎できることではないです。

ただ、実際に交流ができなくても、本、映画、音楽などの文化を通じて「お互いに知る」意欲をある程度維持することはでき、その結果、外の様子をうかがい知れます。それがインターネット以前の世界であったわけです。

インターネットにより、それまでは(意図のあるなしに関わらず)隠されていた、さまざまな層のものが顕在化し、それらが物理的空間を超えて交差するようになりました。この時点で、多くの人が興奮したのです。いわば、グローバル化に夢をもったわけです。

グローバル化は地域の固有性を人件費に換算した。

1980年代以降の新自由主義的な動向、冷戦の終結、インターネット、EUの統合などが怒涛のようにおしよせ、グローバル化は「正義」になりました。あくまでもカッコつきです。工業製品はどこの原料と素材で誰によって作られたのかは分からなくなり、Made in 〇〇の〇〇の部分は最終アセンブリや品質検査の場所を示すようになります。

そこでよりのしてきたのが「隠された生産場所」としての中国であり、その他のアジア諸国です。世界それぞれにある文化の固有性はさほど重視されず、人のコストが安く、それなりに真面目に働く人たちがいるとなれば、そこが生産工場として指名をうけました。

これらの生産工場は無名であるにも関わらず、世界の別の地域にある生産工場や素材供給会社と密接につながり、ネットワークの一員となります。個々には無名の、しかしながら、世界には名の知れたサプライチェーンの駒です。そして、それらをスムーズに機能させるインフラやソフトウェアも重要なアクターです。

そして、この駒であった方が、全体の経済のおこぼれが享受しやすいと言われ、「それもそうか」と思った人が少なからずいたのです。この状況が「ユニバーサル化」や「インターナショナル化」と称されることはまずなく、ほぼ「グローバル化」と呼ばれたのです。

「ユニバーサル」「インターナショナル」は古臭く思われた。

ユニバーサルは普遍性を表しています。しかし、ユニバーサルは欧州の考えが世界に普及する際の根拠とされやすいため、「ユニバーサルには色がついてる」と見なす人たちがいます。例えば、脱植民地主義に関心のある人たちは、ユニバーサルに疑いをもつ人がいます。

他方、インターナショナルは国家をベースにおいているため、これも古い枠組みの発想だと批判的にみる人がいます。それに比べると、グローバルは価値が前面に出ない、しかも政治ではなくビジネスが優先されやすく、スマートな言葉であると思う・・・そこに20世紀後半からの願いがこめられてきたのです。

だが、疫病の流行によって物理的な交流が制限され、一見、非物理的な交流は逆に盛り上がったようにもみえますが、身体の感覚を伴う世界各地の人々とのコミュニケーション減少は想像以上に「ある状況の理解で十分とされるレベルが下がった」現実を招きました。「これで理解していると言えるの?」と思われる意見がさまざまな言語で堂々と語られる・・・この事実を実感したのが、昨年2月以降、欧州の東でおきている地政学的紛争です。

いずれにせよ、上述の2つが物理的な動きを大幅に制限させることになり、グローバル化を支えていた基本ロジックを崩したのです。

循環型システムの促進はさらに「グローバル化を虚無化」する。

一方、気候変動への対策に端を発したサステナビリティ政策は、単なる掛け声ではなく、さまざまな法制化が実際に行われています。殊にEUがその動きをリードしており、循環型システムの実施にどんどんと歩を進めています。

生産者は自分の生産した製品の再利用以後の「モノ」にも責任をもつように迫られ、あらゆる生産品にはその「素性データ」が保存されていないといけないようになります。このような制度のもとでは、地球のどこか知らないところで作られた部品を買って最終製品を組み立てるわけにはいかなくなります

同時に、サプライチェーンの駒と思っていた無名の存在に関わる人たちの人権の侵害が問題視されている今、先述と同じく、世界のどこかの知らない人のコストが安いからといって、生産を依頼することができなくなってきます

これらは気候変動の問題が顕在化しなくても、いつかは来る道のりであったのですが、とうとう見ないフリができなくなってきたのです。これらに加え、無駄な人の移動は脱炭素に反するとも批判されるようになっています。つまり、長距離の交流はデジタルでつくられた世界になかに限られ、身体的あるいは物理的なモノは近距離の世界で完結するのが望ましいというイメージができつつあります。

・・・そうすると、日本の文化に基づいた伝統工芸品を欧州の市場で販売する行為をどうすれば正当化できるか?という問いが出てくるのです。

例えば、このような矛盾にぶつかり、新しい動きを作ったのがイタリアのスローフード運動でした。地産地消とMade in Italyの食品を輸出促進するのは矛盾するため、彼らは今世紀に入ってからはスローフードの考えを広めることに注力し、世界各地の地方にある小さな経済圏の持続性をあげることにシフトしたのです。今、世界で直面するテーマに20年以上前に方向を示していたことになります。

「ユニバーサル」と「インターナショナル」の復権

このようにみてくると、グローバルを支えるロジックが崩壊しただけでなく、それが反サステナビリティとなっている今、ユニバーサルとインターナショナルが復権してくるタイミングかと思います。

国家や国境という存在が、これからの将来、どう変質していくかわかりませんが、地政学上の問題を脇において、「やはり、国家なんか古い概念だから捨てようよ」とはならないでしょう。そうした枠にはまらない人々の動きや交流が広がり、従来の国家や国境の枠組みが相対的に弱くなる可能性がないわけではないです。

しかし、民主主義を享受する人口が減り続け、権威主義のもとにある人口が増え、後者の方が多い現在、新たなリフレーミングが期待できるのは、かなり先になりそうです。とするならば、まず国同士の広がりでより安定的な関係を築くことが求められるため「インターナショナル」の概念が重視されるでしょう。

その一方、普遍的であることには幻想が含まれることを前提とするならば、まずは「ユニバーサル」のレベルでの価値共有に優先順位が高くなります。前述したスローフード運動におけるローカル価値の拡大も、このユニバーサルの範疇で理解されやすいです。循環型システムが世界に多数できていくのであれば、当然、ユニバーサル概念を礎とするでしょう。

グローバルを懐古的に語っていると前進できません。

写真©Ken  ANZAI

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